陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

引退レースを終えて初めて、自分の頑張りを認められた 藤田敦史4完

2000年の福岡国際マラソンで日本新記録を樹立した藤田さん(撮影・朝日新聞社)

連載「4years.のつづき」のシリーズ15人目は、元マラソン日本記録保持者の藤田敦史さん(43)です。駒澤大学でエースとして活躍し、初マラソンで学生記録を更新。2000年には日本新記録を樹立しました。現在は母校の駒澤大でコーチを務めています。4回の連載の最終回は、実業団時代と引退、コーチとしての歩みについてです。

あと一つで逃した学生駅伝3冠、初マラソンで出した学生新記録 藤田敦史3

届きそうで届かなかったシドニー五輪

藤田さんは卒業後、富士通へ進んだ。この1999年、8月に世界陸上セビリア大会が控えていた。3月に藤田さんの走ったびわ湖毎日マラソンは、世界陸上の代表選考レース。だが、ほかの選考レースの結果などから、代表には一歩届かないと見られていた。「まだ一回目のマラソンだし、2000年のシドニーオリンピックの選考レースに出て、日の丸をつけられたら」。そう考えていたが、世界陸上の有力な代表候補の1人が辞退。滑り込みでスペインへ行き、6位に入った。

びわ湖毎日マラソンで日本勢トップ、世界陸上で6位となり、シドニーの代表選考ではアドバンテージを持っていた。国内の選考レースに出場し、日本勢トップをとれば代表が決まる、という状況。「でも、初マラソンと世界陸上で力を使い果たしちゃったんです」。貧血と足底筋膜炎に悩まされ、ようやく走れるようになったのは11月ごろだった。

当時の富士通は元日恒例のニューイヤー駅伝で優勝したことがなかった。そこに藤田さんや同世代のエース三代(みしろ)直樹(順天堂大)が加わり、廃部となったダイエー陸上部からも主力選手を受け入れ、初優勝への機運が高まっていた。藤田さんはけが明けだったが急ピッチで仕上げ、2000年のニューイヤー駅伝で初優勝のゴールテープを切った。しかし急ピッチで仕上げた代償として、疲労骨折をしてしまう。結局このあと、シドニーの代表選考レースには出られなかった。

2007年の別府大分毎日マラソンで優勝した藤田さん。1度もオリンピック代表にはなれなかった(撮影・朝日新聞社)

たらればになりますが、と当時を思い返して言う。「もしシドニーに代表で行ってたら、結構面白いレースができてたんじゃないかなって。振り返ってみると、一番いいレースができてた時期でしたから。エリック・ワイナイナ(ケニア、元コニカミノルタ)が銀メダルをとったのを見て、一緒に戦ってた相手だから、自分もできたんじゃないかって思いました。だからこそ、悔しさを晴らしたかったです。(シドニーの年の)福岡国際は絶対に出る、って決めてました」。3度目のマラソンとなった00年の福岡国際マラソン。シドニー金メダリストのゲザハン・アベラ(エチオピア)と競り合い、初優勝を果たした。タイムは2時間6分51秒で、日本新記録。このとき藤田さんは、日本最速の男になった。

しかし、このあともオリンピックには縁がなかった。「運だな、と感じます」

長野マラソンで途中棄権「俺、よく頑張ったな」

2012年に市町村対抗の「ふくしま駅伝」に出た。走っているときに、いままで感じたことのない感覚を味わったという。「ペースは遅いんですけど、脚が動かなくて。いままでだったら疲労でとか、練習の強度を上げすぎたからだとか分かるんですが……。そのときだけは、動かない感覚がいままでと違いました。初めて、『衰えたな』という感覚になったんです」。そのとき、これがたぶんやめるときなんだろうな、と感じたという。ニューイヤー駅伝のメンバーにも入れず、もう厳しいかなと考え、最後に本気でマラソンを走って引退しようと決めた。最後と決めたのは、初マラソンと同じびわ湖。しかし、練習中に肋骨が折れたのをはじめとして次々とアクシデントがあり、「これはもう多分ダメだな」と感じていた。早々に途中棄権となった。

富士通の福嶋正監督は「あれで終わるような人間じゃない。最後に長野マラソンに出てやめたら?」と声をかけてくれた。ただ骨折もあり、しっかり練習ができていない状況。結果はどうでもいいから、せめて完走して引退しようと考えた。

暑さには強い藤田さんだが、引退レースの日は大雪だった(撮影・藤井みさ)

長野マラソンは4月下旬。例年は暑さがランナーを苦しめる大会だが、13年は何十年ぶりかの大雪となった。「神様って……、と思って。本当にすごいなと。初マラソンの時も(天候が)ひどかった。これはたぶん神様が与えた最後の試練なんだ、と思いました」。藤田さんは寒すぎて途中で肉離れを起こしてしまった。痛みで走れなくなってしまい、30km過ぎで涙の途中棄権となった。

「そのとき『ああ、俺の競技こんな形で終わっちゃったよ』って。でも次の瞬間、初めて思ったんです。『よくあの運動が苦手な自分からスタートして、日の丸をつける選手になって、一時は日本で一番速い選手にもなって。俺、よく頑張ったな』って」。日本新記録を出したときでさえ、思わなかった。競技を終えるそのときになって、自分の頑張りを自分で認められる瞬間がやってきたのだ。

自分にとって、努力は我慢でなく手段

もともとのスタートが「運動苦手」「運動音痴」だった。藤田さんの頭の中には常に「ちょっとでも練習を休んだら、あの時の自分に戻ってしまう」という気持ちがあったという。「それがあったから、競技を長く続けられたんだと思います。絶対に油断しなかった」。それを藤田さんは「私の運」と表現する。「もし運動神経が最初からよかったら、途中で『もういいかな』って考えてたと思うんです。私にとって努力することは、我慢ではなく手段。運動が苦手だったからこそ、能力がある子たちと同じ土俵で戦うには、何倍も努力しないと。それが競技に対する意識、私生活、自分自身に対する戒めにつながっていったんだと思います」。だから「運があったな」「運動音痴でよかったな」と思うそうだ。

藤田さんにとって陸上とは? 「自分自身の世界を変えてくれたものですね。人との出会い、自分が見る景色、考え、すべてが変わりました。陸上競技をやってなかったら、自分自身とこんなに向き合うこともなかっただろうと思います」

学生には自分で考えて、引き出しを増やしてほしい

引退後は富士通のコーチを務めていた藤田さんだが、15年に大八木弘明監督の要請もあって母校の駒澤大陸上部のヘッドコーチに就任した。自分がエリートではなかったことや、けがをした経験などは、実業団選手よりは学生を相手にしたほうが生かせるだろうとも考えた。

学生にも気さくに話しかける姿が印象的だ(撮影・藤井みさ)

約15年ぶりに戻った母校で、やはり、自分たちのころとは違うと感じることはある。「昔は『強くなるまではい上がってこい』って突き放す指導でしたけど、いまはそれでは誰もいなくなっちゃう(笑)。『駒澤のやり方はこうです、以上』ではなく、一人ひとりに対してアプローチの仕方を変えていかないと、輝かせてあげられないなって思いますね」

大八木監督が偉大だからこその難しさも感じるという。大八木監督のもとで競技に取り組みたいという選手たちが集まってくるが、ともすると「監督の言ったことをやっていればいい」と思うだけになってしまい、自分でプラスアルファを考える力がない、と感じることもある。「なぜそのメニューをやるのか。やったときに自分の体がどうなったか。それをしっかり感じて、考えられるようにならないと、ただやるだけになってしまうんです」。監督は最近、「俺はこう思うけど、お前らはどうだ?」とか、「練習をこうしようと思ってるけど、どうする?」と、選手たちに問いかけることも多いという。そのときに考えを持っていないと、せっかく監督が自分自身を輝かせる機会を与えてくれているのに、生かせない。「もったいない」と藤田さんは言う。

「考えながらやっていけば、どんどん自分の中に引き出しが増えていきます。引き出しが多ければ多いほど、いろんな場面に対処できる。引き出しがたくさんあるっていうことは、自分をよく知ってるということでもあるんです」

いまの選手を輝かせる方法を、日々考えている(撮影・藤井みさ)

東洋大の酒井俊幸監督(43)は藤田さんと同い年。國學院大の前田康弘監督(42)は駒澤の1学年後輩だ。藤田さんも監督になりたいと思いませんか?  と聞いてみた。少し考えて「やりたいと思ってやれるものではないですからね」と返した。「あれだけの指導者(大八木監督)を一番近くで見ていると、結構ヘコむことがあるんです。すごいな、って。自分には果たしてできるのだろうかと」。いつか、自分のチームを持つ。指導者として最終的にはその目標にたどり着きたい、とは思っている。「そのためにはまだまだ勉強しなきゃいけないこと、経験しなきゃいけないことがあると思います。日々勉強、経験ですね」

現役を引退しても、藤田敦史の努力する姿勢は変わることがない。

4years.のつづき

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