大学陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

運動が苦手で、いい学校、いい会社に入ることだけ考えていた少年時代 藤田敦史1

大学時代に全国区のランナーとなった藤田さん。じっくりとお話をうかがった(すべて撮影・藤井みさ)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。先輩たちは4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ15人目は元マラソン日本記録保持者の藤田敦史さん(43)です。駒澤大学でエースとして活躍、初マラソンで学生記録を更新。2000年にはマラソン日本新記録を樹立し、いまは母校でコーチを務めています。4回の連載の1回目は、大学入学までの話です。

将来の夢が「サラリーマン」の小学生

藤田さんは福島県西白河郡東村(現・白河市)の出身。「小学校のときは、とにかくスポーツ全般が苦手でした」。こちらが想像つかないようなことを、まず口にした。

運動会で走っても女子より遅い、球技もできない。スポーツは好きじゃない。小学校の卒業文集に書く将来の夢は、たいていの友だちは「プロ野球選手」だったが、藤田さんはなんと「サラリーマン」。「いい高校、いい大学、いい会社に入って、ってそれしか考えてませんでした。運動もできないから、スポーツ選手なんて考えたこともないし。それぐらい現実を見る子だったんです」

そんな藤田さんだったが、中学校でテニス部に入った。ただ、それも「部活をやってた方が高校受験の内申点で有利だから」「一つ上のいとこのお姉さんがテニス部に入ってたから」という理由から。「それも正直、あんまり上手じゃなかったですね」と笑う。

「長距離はもしかしたら向いてるんじゃないか?」

しかし、中2のときに転機がやってくる。校内のマラソン大会だ。「すごく嫌だけど、自分なりに頑張ってみよう」と走ってみたら、上位に入れた。それを見ていた体育の先生が「お前は短距離は遅いけど、長距離はもしかしたら向いてるんじゃないか?」と言った。そのひとことはずっと、藤田さんの胸に残った。

自分にももしかしたら可能性があるかも。先生のひとことは大きな転機になった

中学校に陸上部はなかったが、駅伝シーズンになると、各運動部から寄せ集めた面々で郡市対抗駅伝の練習が始まる。体育の先生に「練習に来てみないか?」と誘われ、走ること自体が嫌だなと思ったが、幼なじみにも誘われて、しぶしぶ参加した。それが、走ってみたらだんだん面白くなってきたのだという。「こういう世界もあるんだなと分かりました。その年はメンバーには選ばれなかったんですけど、3年になってまた練習に参加して、今度はメンバーに選ばれて。初めて出た駅伝で、強い子もいる区間だったのに区間賞をとっちゃったんです。それではまっちゃって、高校で陸上をやってみたいと思うようになりました」

現実志向だった藤田さんは、それまでは地元の進学校を目標に勉強を続けてきた。しかし方向転換し、ある程度学力も高くて、陸上も強い高校を探した。そこで目に止まったのが、須賀川市に開校して間もなかった県立清陵情報高校だ。一般的にはまだパソコンが普及していなかったころ、100台のパソコンを備え、高度情報通信社会で活躍できる人材を育てていた。そこに進もうと決めたが、地元の進学校に行くものとばかり思っていた両親は猛反対。だが、どうしてもやりたい気持ちを抑えられず、両親を説得し、清陵情報高校の5期生として入学した。

勉強も陸上もダメ、からの奮起

とはいえ家から学校までが遠い。家から自転車で最寄りの駅に向かい、電車に乗り、学校の最寄り駅からまた自転車という生活が始まった。進学校に行ってほしかった両親からは「送り迎えはしないぞ」と言われていたので、頼れなかった。

陸上の基礎がまったくできていなかった藤田さんは、練習についていけなかった。練習で疲れて勉強もおろそかになり、陸上も勉強もダメ。両親には「だから言っただろ」と、厳しい言葉をぶつけられた。

「親からそう言われたときは、言われたことが悔しいんじゃなくて、自分で『やる』と言ったのに弱音を吐いてる自分自身に嫌気がさしたんです。言われて当然だなって。負けそうになってる自分が嫌でした」

ノートを見ればテストの復習もできるようにした。徹底して自分で環境を整えた

もうダメだろうな。このままやってたら終わってしまう。そこから藤田さんは気持ちを入れ替え、さまざまな工夫を始めた。まず、家に帰ってきてから勉強は一切しないと決めた。そのかわりに早起きして勉強した。電車に乗っている時間も利用した。授業を集中して聞き、板書だけでなく先生の言葉もすべて書き留め、分からないところは休み時間に聞きに行った。朝から授業が終わるまでで勉強が完結するようにしたのだ。高2からスタートしたこの生活サイクルは功を奏した。成績がグッと上がり、競技にも集中して練習を継続できるようになった。

カネボウの伊藤国光監督も熱心に誘ってくれた

高2のときは市町村対抗の「ふくしま駅伝」で1区を走り、インターハイに出ている3年生を抑えて区間賞。一躍注目され、大学や実業団のスカウトが見に来るようになった。しかし3年生になると、後からその原因が貧血だったとわかるのだが、まったく走れなくなってしまい、スカウトが引いていった。しかしそんな中、駒澤大のヘッドコーチだった高岡公さんはずっと通ってくれたという。「いいものを持ってるから、うちは絶対とる」という言葉ももらった。しかし当時の駒澤のイメージについて藤田さんは「正直、あんまり知らなかったです。箱根は出てるけど、なんかいつも予選会に回ってるな、ぐらいでした」と笑う。

高岡さん同様、ずっと通ってくれていたのがカネボウの監督を務めていた伊藤国光さんだ。名指導者として知られる伊藤さんは、大雪の日も飛行機を乗り継いで福島にやってきた。「なんでこんな田舎の、全国大会も出てない高校生のところに来てくれるんだろうと思ってましたね」

伊藤さんの眼力は間違っていないということだったのだろう。だが、藤田さんには自信がなかった

伊藤さんから熱心に誘われたが、それでも藤田さんは駒澤大への進学を選んだ。その理由について聞くと「怖かったから」だという。「実業団でやる自信がなかったです。大学だったら陸上で進学したとしても、方向転換できる。でも実業団は競技で入ったら競技で勝負しなきゃいけないと思ってました。それはちょっと無理だな、と」。それでも、力も実績もない自分のところにずっと来てくれていた伊藤さんのことは、忘れられないという。

大学に進学して、どんな選手になりたかったのか。箱根駅伝へのあこがれはあったが、「必ず箱根を走る選手になる」という気持ちはそんなになかったという。「なれるとも思ってなかったです。大学に行って力試しをしたい、という気持ちのほうが大きかった。当時は陸上への自信はなかったですね」。いまとなっては考えられないことだが、藤田さんはまだ、自分の力に気づいていなかった。

駒澤大で大八木弘明コーチと出会い、つかんだ自信、エースの自覚 藤田敦史2

in Additionあわせて読みたい

Seriesこの連載をもっと読む

この連載の記事一覧へ

4years.のつづき