駒澤大で大八木弘明コーチと出会い、つかんだ自信、エースの自覚 藤田敦史2
連載「4years.のつづき」のシリーズ15人目は、元マラソン日本記録保持者の藤田敦史さん(43)です。駒澤大学でエースとして活躍し、初マラソンで学生記録を更新。2000年には日本新記録を樹立しました。いまは母校の駒澤大でコーチを務めています。4回の連載の2回目は、大学入学からエースの自覚を持つに至る過程です。
一発で貧血を見抜いた大八木コーチ
福島県西白河郡東村(現・白河市)で生まれ育った藤田さんにとって、大学進学で東京に住むことは衝撃的だった。親元を完全に離れることに、不安も感じていたという。しかも当時の駒澤大の陸上部の寮はサッカー部と共用で、「すごく汚かったんです(笑)」と振り返る。「ここに我が子を寝させるのかって、親は泣いてました。どこまで土足で入っていいのか分からないぐらい、とにかく汚かったです」
ともあれ駒澤大での生活がスタートした。藤田さんは高3のときの不調を、まだ引きずっていた。「なんか走れない、なんか走れないんだよなって思いながら、練習でも全然(みんなに)つけなくて。いま思えば、健康診断の採血で血を抜かれるだけでも倒れてたんです」。藤田さんが入学した年に、大八木弘明さん(現監督)がコーチに就任。大八木コーチは藤田さんの走りをひと目見て、「すぐに病院に行ってこい」と声をかけた。
検査をしてみると、同年代の女性と比べてもヘモグロビンの数値がはるかに低く、貧血だと分かった。医者には「こんな体でよく陸上やってるね」とあきれられた。そう言われて、藤田さんには、安堵(あんど)感と驚きがあった。「自分に力がないんじゃなくて、貧血のせいで走れなかったんだってホッとしました。それから、一回見ただけで『病院に行け』と言ったコーチの眼力に『すげえな!』って。びっくりしましたね」。のちに、大八木コーチもかつて貧血で悩んでいたため、同じ症状だと分かったと教えてもらった。
大八木コーチの就任と同時に、コーチの妻の京子さんが寮で食事を作ってくれるようになった。貧血持ちの藤田さんにはレバーやきくらげなど、鉄分を多く含む食材を追加してくれた。「それで治ったところはありますね。これを治せば自分もまた、高2のときみたいに走れるかなと思えて、頑張れました」
「ひとり高地トレーニング」が終わって飛躍
7月には貧血がおさまり、1年生ながらAチームで練習ができるようになった。そのときのことを、独特の言い回しで表現してくれた。「貧血ってヘモグロビンの値がすごく低くて、常に酸欠状態なんです。私は高3から大学1年の7月まで、一人で平地にいながらにして高地トレーニングをやってるようなもんだったんです(笑)。高いところから下に降りてきたら、羽が生えたように走れて『なんだこれ!』って(笑)」。しっかりと練習を積めるようになり、夏合宿が終わって最初の記録会で、5000mの自己ベストを出した。それまで着々とベストを更新していた同期を一気に抜いて、学年でトップになった。「そのとき初めて、このチームでもやっていけるかなという自信がつきました」
とはいえ、まだ「箱根も走れる」という思いにはならなかった。そして秋のある日、10000mの記録会があった。秋にしてはとても暑かったその日、藤田さんはいつも通りの走りをした。一方、ほかの選手たちは次々にペースを落とし、結果的に同じ組のトップに。タイムは29分台後半と平凡だったが、大八木コーチにはあとから「そのレースを見て、俺はお前がエースになれると思った」と言われたという。暑いのが得意なのに加え、貧血が治ってから練習を継続できていたことが結果に表れ始めていた。
ルーキーイヤーの箱根1区で快走し「俺はやれるな」
当時の駒澤大は箱根駅伝予選会の常連だった。藤田さんも予選会に出場し、20kmを1時間1分14秒とチームトップのタイムで走れた。「いまの練習の力で61分台、チームトップなら、箱根本戦ももしかしたらメンバーとして使ってくれるかもしれないし、ある程度戦えるかもしれない」という思いが頭をよぎった。さらに、その後の10000mの記録会で自己ベストを30秒近く縮める29分20秒台が出て、「たぶんいけるな」という感覚を持った。
迎えた初めての箱根駅伝、藤田さんは1区に抜擢(ばってき)された。高校までも1区しか走ったことがなかったが、箱根駅伝のスタート前の雰囲気は、いままでのどんな駅伝とも違っていた。「一番覚えてるのが、頭の上をヘリコプターが旋回してて、その音が自分の心臓の音とシンクロしてきて、もうわけが分かんなくなってきて……。『心臓が口から飛び出しそう』って表現がありますけど、本当にその通りで、怖くて怖くて仕方なかったです」。それでも、走り出したら不安や恐怖はすべて消え、走りに集中できた。
いまでも『不思議だな』と思い返すことがある。「走る前に、同期に『六郷橋まで集団につけたら、俺、仕掛けるから』って言ってて、その通りになったんですよ。よくそんなこと言ったなって。何か感じるものがあったんでしょうね」。最終的に亜細亜大のビズネとの一騎打ちになり、トップと6秒差の2位で襷(たすき)を渡した。20km地点の通過は59分台だった。錚々(そうそう)たるメンバーの中で堂々の走りを見せ、「俺はやれるな」という本物の自信をつかんだ。
福嶋正さんとの出会い
2年生になるにあたって、大八木コーチがはっきりと「お前をエースに育てる」と藤田さんに宣言し、別メニューでの練習が組まれた。「スピード練習は『そのタイムでやるんですか?』っていう速さだったんですが、『やるんだよ』って言われて(笑)」。ほかの選手たちとはまったく別のスピード重視の練習だ。「28分台を出すにはこれをやらないと」と言われて取り組み、成果はすぐに現れた。
東京選手権の予選を前に、大八木コーチがある情報をつかんできた。10000mに世界選手権に出たこともある富士通の福嶋正さん(現・富士通監督)が出場し、当時の日本選手権の参加標準記録だった28分50秒をターゲットにするというのだ。「そいつについていけばいいから」と大八木コーチに言われ、会場へ。しかし福嶋さんらしき人が見当たらない。招集時間に遅れ、役員に怒られている選手がいた。藤田さんが「まさか……」と思っていると、その選手がこっちへやってくる。「あ、君が藤田くんか。じゃあさ、2000ごと引っ張っていこう」。福嶋さんだった。面食らっているうちにレースがスタートした。
「ついていけばいいって言われたのに……」と思いながら引っ張り合い、まだそこまでの力がなかった藤田さんは次第に落ちていった。結果は福嶋さんが28分40秒、藤田さんは28分53秒でわずかに日本選手権に届かなかった。「後ろにつかせてもらえれば(参加標準記録は)切れたと思うんですけどね」と、思い出し笑いをしながら話す。レース後、福嶋さんは「お前強いね」と声をかけてくれ、合宿にも誘ってくれた。その縁もあって、藤田さんは富士通に進むことになる。
芽生えたマラソンへの思い
10000mで28分台を出し、学生トップランナーの仲間入りをした。しかし、箱根の予選会のころにアキレス腱(けん)を痛め、箱根本戦の前には腰痛、またアキレス腱と散々だった。それでも大八木コーチに「お前、2区いくしかねえぞ」と言われ、「だったら自分がいきます」とテーピングをぐるぐる巻きにして走った。「怖かったですね。襷をつなげるのか、というぐらい不安でした」。結局、区間7位だった。万全でない状態ということを考えると悪くない結果にも思えるが、「自分の中ではまったくダメです」と振り返る。
この年、駒澤大は総合6位となり、シード権をとった。しかも復路は新記録での優勝だった。自分たちもできるんじゃないか。チーム全体に自信がみなぎってきていた。「でも往路は9位で、往路組はすごくみじめでした。複雑な気持ちでしたね」
痛めたアキレス腱を治すため、箱根駅伝のあとは1週間ほど完全休養。回復後は順調に練習を積め、3年生の関東インカレ2部ハーフマラソンで初優勝した。
藤田さんにはもともと、長い距離のほうが得意だという気持ちがあった。長い距離で単独走になっても、速いペースで押していける能力が自分の武器だと自覚していた。だからこそペース感覚を磨く努力を怠らず、練習での20km走や30km走のときは積極的に前に出てペースメイクした。このころから「マラソンを走ってみたいな」と思うようになる。