ボクシングをやりきって優しくなれた 元「東大出身の弁護士ボクサー」坂本尚志4完
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。先輩たちは4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ14人目は29歳でプロデビューし、東大出身の“弁護士ボクサー”として話題をさらった坂本尚志(たかし)さん(38)です。4回の連載の最終回は、プロとしての日々についてです。
アマで全国初V、一気に心がプロへ傾く
1度定めた目標は、不断の努力で必ず達成してきた。坂本さんは高校時代から勉強とボクシングを両立させ、一浪の末に東大に入学。25歳のときに司法試験に合格し、26歳のときに7年生で法学部第I類を卒業するまで、ミットを打ち、サンドバッグを揺らし続けた。卒業後も当然のようにジムで汗を流し、アマチュア大会のリングに上がった。ただ、プロの道に進むつもりはまったくなかった。
「プロは1回勝てば、次の試合、また次の試合とキリがなくなります。それに比べ、アマは区切りがつけやすいので」
司法修習生だった2008年、全日本実業団選手権にライト級で出場して初優勝。頂点に立って味わう、勝利の美酒は格別だった。これで最後の大会にするつもりでいたが、気持ちがぐらりと揺らいだ。「ここまでボクシングを続けてきたんだから、1度でいいからスポットライトを浴びる後楽園ホールのリングに立ちたいと思いました」
09年12月から本格的に弁護士として働くことになっても、いったん抱いたプロボクサーへの思いは消えなかった。当然、練習にも熱が入る。それでも、足しげく通っていた帝拳ジムのマネージャーにはプロ入りをあきらめるように何度も諭された。「けがをするだけでなく、脳にダメージを受けるかもしれない。せっかくいい仕事を持ってるのだから、体を大事にしなさいって」
鉄の意志を持ち、グローブを手放さずに弁護士になった男だ。簡単にあきらめるはずがない。あの手、この手でマネージャーを説得する方法を考えた。最高学府を卒業した頭をフル回転させ、一つの答えを出す。プロライセンス証は、後楽園ホールの入場パスにもなるのだ。マネージャーに何度も懇願した。
「新人王トーナメントに出場する同僚を応援したいので、プロライセンスを取らせてほしい」
頑なだったマネージャーは、根負けして苦笑いしながら認めてくれた。「ライセンスだけだよ」
キラキラ輝く舞台と多忙な日常
本人からすれば、入場パスは口実にすぎない。内心ではライセンスさえ取得し、練習を一生懸命していれば試合を組んでもらえると思っていた。ただ、現実は甘くなかった。待てど暮らせど、リングに上がるチャンスは巡ってこない。ついには涙を流しながらトレーナーに訴えた。
「試合を組んでください」
プロライセンス取得から1年が過ぎたころ、担当トレーナーがマネージャーを説得してくれ、あこがれの舞台に上がることを許された。11年6月4日、念願のデビュー戦を迎える。あの日の後楽園ホールの記憶は、いまも鮮明に残っている。
「第1試合だったのでお客さんはあまり入ってなかったんですけど、全客席の視線がリングに集まってました。どこを向いても、僕を見てる感じなんです。スポットライトも熱くて、キラキラしてました。すごかったですね。これがプロの舞台なのかって。アマとは全然違いました」
結果は判定勝ち。一つ勝つと、次の試合が待っている。弁護士業に精を出しつつ、デビューから3連勝を果たした。東大卒の弁護士ボクサーとして話題にはなったが、周りが思っている以上に弁護士とプロボクサーの両立は簡単ではない。法律相談や訴訟の案件を抱えながら、仕事帰りに2時間のジムワークに励み、週4回は朝に40分間のロードワークもこなした。「体はしんどかったです。弁護士の業務を抱えて頭が仕事ばかりになり、ボクシングに集中できない時期もありました」。体にムチを打っても、リングから降りるつもりはなかった。むしろ、どん欲だった。「もっと上にいってやる、と思ってました」
そんな強い思いとは裏腹に、3連勝のあとは2連敗。帝拳ジムから引退勧告を受ける。「4回戦なんかで終われないと思いました。まだ、俺はやれるんだって。日本タイトルマッチまではたどり着きたかったんで」
検査で脳に白い影、でもあきらめなかった
当時32歳の坂本さんは現役続行の道を探り、青木ジム(現在休会)に移籍。新天地では日本ランク入りを目指して練習に打ち込み、日本ランカーの斉藤正樹や元全日本新人王の粕谷雄一郎らとも拳を交えた。しかし黒星が積み上がり、16年には脳のレントゲン検査で白い影が見つかった。CTスキャン、MRIなどで調べても、結果は同じ。自覚症状はなく、体に異変もなかったが、JBC(日本ボクシングコミッション)から試合の許可は下りなくなった。
「永久に試合ができないと思ったりもしましたけど、治ればまたやれるという考えもありました。これで引退しようとは思わなかったですね。トレーニングだけは続けてました」
望みを捨てなければ、奇跡は起きるものである。しばらくして再検査を受けると、白い影が消えていた。10カ月のブランクを経て、17年5月に再びリングへ。迷いや怖さはなかった。「JBCからは、影が消えたらまた試合をしてもいいと言われてたので」。あっけらかんと振り返る。
それまでと変わらずに練習に打ち込み、試合に臨んだ。しかし、再起してからは4連敗。キャリア晩年の1年は勝ち星に一つも恵まれずにプロボクサーとしての定年(満37歳)を迎えた。18年8月9日の引退試合も、無念の負傷判定負けだった。「後悔ばかりが残ってますね。もっとやれるはずだ、と思ってました」
頑張ってからやめた方が胸を張れる
弁護士業と両立し、意地を貫いて定年までリングに上がり続けたが、決して自分で自分をほめはしない。プロ7年で18試合を経験。そこから得るものは大きかった。弁護士としては、法律事務所で下積みをすることなく開業。当初は切り盛りに苦労したが、ボクシング時代に出会った人たちに助けられた。いまも、その人脈から仕事を依頼されることも珍しくないという。プロボクシングの厳しい世界で生きてきたことで、人間的にも成長した。
「とくに引退してから、人に優しくなったと思います。頑張った上で結果を残せなかった人への見る目が変わりました。僕もボクシングではそうだったから。世の中には頑張れない人もいますし、精神的に参ってる人もいます。社会全体で支えてあげた方がいい人もいます」
人生には負けが続くこともある。エリート街道を一本道に進んでいたら、思い至らなかった境地かもしれない。
「頑張らずにやめるより、頑張ってからやめた方が胸を張れます。僕はボクシングに“やり残し感”はありますけど、もしも頑張ってなかったら、もっと後悔しました。周りの声を気にし過ぎないのも大事だと思います。まずは自分がやりたいようにやることです」
弁護士ボクサーとして生きてきた坂本さんの言葉は重い。努力は必ずしも報われるとは限らないが、その先には、何かがある。