勉強もボクシングもやりたいと思った 元「東大出身の弁護士ボクサー」坂本尚志2
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。先輩たちは4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ14人目は29歳でプロデビューし、東大出身の“弁護士ボクサー”として話題をさらった坂本尚志(たかし)さん(38)です。4回の連載の2回目は、ボクシングとの出会いや東大受験についてです。
学校をサボる息子に悩んだ母がひとこと
坂本さんがボクシングと出会ったのは、福井県立高志(こし)高校の2年生のとき。授業に面白みを感じられず、学校から足が遠のいていた時期だ。生命保険の外交員として働いていた母は学校をサボる息子に頭を抱え、信頼できる知人に相談を持ちかけた。県立武生(たけふ)工業高校でボクシング部を指導していた古川久俊先生の助言はシンプルだった。
「ボクシングをやらせてみてはどうですか」
母は自宅に戻ると、すぐさま息子に言った。「ボクシングをやりなさい」。格闘技とは縁のなかった坂本少年は、呆気(あっけ)にとられてしまう。まったく興味がなかったため「やりたくない」と反発したが、母の次のひとことで重たい腰を上げざるを得なかった。
「やらないと、お小遣いをあげません」
高校生にとっては死活問題である。古川先生の紹介で、福井市内のアマチュアボクシングジム「BOXY」に通い始めることにした。いやいやグローブをつけられ、手ほどきを受けると、これが意外に面白い。幼いころにバスケットボールや剣道を習ったりしたが、どれも長続きしなかったのが嘘のよう。地元ではアマチュアの名選手として知られたトレーナーの塚本敏博さんにほめられながら教えてもらったのが大きかった。「僕をうまく持ち上げてくれたんです。『お前、才能あるよ』って言ってくれたりね。そうすると気持ちよくなって、どんどんのめり込んでいきました」
塚本さんから「学校に行かないならボクシングをさせない」と言われたこともあり、再び高校にも足を運び出した。もともと勉強が嫌いだったわけではない。ただ、学校の授業が性に合わなかっただけだ。「教室の机に向かって、先生の話をじっと聞いてるのがしんどかったんです。とにかく落ち着きがなかったから。他人から『これをやりなさい』と言われて、それだけをやるのが嫌でした。自分で決めたものは、やるんですけどね」
「お前は東大にいける」で心が決まった
成績は悪くなかった。高1のときには数学の先生から「お前は東大にいける。東大を目指せ」と言われたほどである。人におだてられると弱い。高2の秋に先生から志望校を聞かれたときには即答していた。「東大にします」
ボクシングに精を出しつつも、学業を疎かにすることはなかった。自分でこれと決めれば、コツコツと努力を惜しまない。東大にボクシング部があることを知り、漠然と大学でも続けることをイメージした。現役での東大受験には失敗したが、浪人して再びトライすることは、坂本さんにとって必然だった。浪人中は予備校には通わず、近所の図書館で黙々と参考書と向き合った。勉強方法は試行錯誤しながらの自己流。朝から夕方まで、一人で机に向かい続けた。
「ただ、一つの科目だけをずっとやることはなかったですね。学校のように国語の時間だから国語だけというのは嫌だったので。30分、40分すれば、次の科目。このやり方はいまに至るまで変わらないです」
東大目指して宅浪、ボクシングもみっちりと
ボクシングジムには週3回のペースで通い、2時間みっちり汗を流していた。足を使い、リーチの長さを生かしたアウトボクシングは様になり、浪人中にはアマチュアの公式戦に3試合出た。「あの時期が最も充実していたかもしれません」と振り返る。
試合前には当然、減量にも取り組んだ。何日間も食事を抜くという、いまでは考えられない方法で体重を落とした。階級はフェザー級。173cmの身長でリミットの57kgまで絞るのは、決して楽ではない。減量中にたまらずカレーライスや焼きそばを食べたりしたことも。「苦労した記憶はありますね」と苦笑いする。勉強だけに集中したのは、秋の公式戦が終わってからだ。
学業とボクシングを両立させてきた意識はない。文武両道という言葉を聞くと、首をひねる。どちらかを疎かにしないために力を入れてきたのではない。両方にありったけの情熱を注いできたのだ。
「僕の場合、勉強もボクシングも自分がやりたいと思ったからやってきただけなんです。だから、どちらかだけに絞ろうと思ったことはないですね」
一浪の末に東大に合格したあとも、坂本さんは「二本道」を突き進んでいく。いざ赤門をくぐり、ボクシング部の門を叩くと、いきなり想定外のことが起きた。