グラウンドから見る早慶戦は景色が全然違った スポーツトレーナー・木村匡宏3
連載「4years.のつづき」から、「IWA ACADEMY」チーフトレーナーの木村匡宏(まさひろ)さん(41)です。木村さんは慶應義塾大学体育会野球部を経て就職した後、岩隈久志(現・読売ジャイアンツ)が監修するIWA ACADEMYの設立メンバーとして活躍されています。4回の連載の3回目は、3軍から始まった慶應野球部での日々についてです。
どんなに疲れた日でも、バットを振り続けた
1999年5月29日。慶應の詰め襟の学生服に身を包み、初めて迎えた早慶戦。高3の夏に人生を変えた舞台である。神宮球場のスタンドに立つと、感慨を覚えた。あこがれ続けた早稲田大の野球部は目の前にいたが、自分の立っている場所もまた特別だった。「僕も慶應の野球部なんだと改めて思いました。神宮の高揚感とともに、格が上がったような感じでした」
応援席に立っただけで満足はしなかった。赤土の打席に立つことに思いを馳せ、練習に一層励んだ。3年生まではメンバー入りできず、東京六大学リーグでのデビューも遠いまま。それでも、熱は冷めなかった。「二浪の末に慶應に入りましたから。ここで野球をやれていることがモチベーションでした。いつになっても技術を追求するのが好きで、ずっと練習をしていました」
雑務に追われて、疲労を感じることもあったが、明けても暮れてもバットを振り続けた。練習が休みになれば、喜々として早起きして寮を飛び出した。自由にグラウンドを使える環境だったため、後輩を叩き起こしてはバッティング練習を繰り返した。
ビデオで自らのスイングを撮影し、研究も重ねた。木村はそれだけで飽き足らず、パフォーマンスをより向上させるために月に1度、プロ野球の日本ハムなどでコンディショニングコーチを務めたトレーナーのラボを訪ね、打撃フォームの改善も図った。そのトレーナーこそが、中学生時代に感銘を受けた野球専門誌で連載していた執筆者の手塚一志さんである。インターネットがいまほど普及する前の時代だったが、自らで調べ上げ、手塚さんが指導する都内の「上達屋」の場所を見つけ、直接足を運んだ。
4年生を迎えるころ、周囲の同期は就職活動に精を出していたが、木村の頭は野球でいっぱいだった。メンバーの当落線上で、企業研究などに力を注ぐ余裕もない。「何より、僕は試合に出たかったんです。レギュラー、ベンチを約束されている選手ではなかったので、就活で部活を少しでも休めば、居場所がなくなると思っていました」
野球に軸足を置きながら、テレビ局の就職試験を受けたものの、結果は不採用。春のリーグ戦を終えると、4年生の8割ほどはすでに内定通知を手にしており、さすがに焦りを感じた。選手寮に届いていた大手企業の求人情報を見てすぐに動き、最終的に中央三井信託銀行へ。卒業後の進路が決まれば、再び野球に没頭した。
迎えた初打席、友とがっちり握手をかわし
そして、迎えた学生最後の秋季リーグ。たゆまぬ努力が実を結ぶ。初めてメンバー入りを果たし、念願の背番号をもらったのだ。3軍スタートで、下積みを続けること約3年半。02年9月14日、東京六大学リーグ第1週の明治大戦で初出場を果たす。9回裏、代打で名前を呼ばれると、気合を入れて打席へ。相手投手は、大学ナンバーワンの呼び声高かった一場靖弘(後に楽天入団)だ。本格派右腕の150kmを超える直球に目を丸くした。「でも、不思議とボールがよく見えていたんですよ。いまでもその残像を思い出せます」
狙い球を絞らず、ひたすら左脚の軸脚でボールを待つことを意識し続ける。4年間、少ないチャンスをものにするために身につけた術をシンプルに実行した。スッと球が沈む。チェンジアップだった。しぶとくバットに当てた。記念すべき初打席は、二塁への内野安打。一塁ベースを踏んで手袋を外すと、思い出したように学生コーチの田中啓之と握手を交わした。「初ヒットを打ったら、そうすると約束していたんです。ちょっとこう、お互いにはにかんだように笑っていましたね。神宮でヒットを打って、一塁ベースで握手をする。『いま叶っちゃったね』みたいな感じです」
田中は4年生から学生コーチの道を選んだものの、ともに一般受験で入部し、3軍から這(は)い上がるために一緒に汗を流してきた仲間だった。その一打をきっかけに続く立教大戦、東京大戦、法政大戦と代打で出場した。
待ち焦がれた最初で最後の早慶戦で見た景色
そして、迎えた最終戦。待ちに待った早慶戦である。1戦目の相手投手は、左腕エースの和田毅(現・ソフトバンク)。この試合こそ左打者の代打はメンバーから外れたものの、2戦目はベンチ入り。早稲田の先発は、右腕の越智大祐(後に巨人入団)。学生最後のリーグ戦だ。気持ちが高ぶらないわけがない。「出たくて、出たくて、ずっと準備していました」。監督から「振っとけ」の声もかかっていた。
しかし、「木村、いくぞ」の待ち望んだ声は、一度もかかることなく、日が傾いた夕方4時17分にゲームセット。それでも、11月3日の記憶は鮮明に残っている。
試合前から胸が高鳴り、赤土の上でシートノックを受けたくて、必要もないのにあえてグローブを構えた。試合中はベンチから約2万人の観衆が詰めかけたスタンドを見上げて、心を震わせていた。
「グラウンドから見る早慶戦は全然、違いました。あの景色を眺めることができただけで、僕は十分でした」
慶應で野球に打ち込んだ4年間はかけがえのない財産となり、白球を追い続けた青春に気持ちよくひと区切りをつけた。
大学卒業後は信託銀行に入社し、新たな一歩を踏み出した。新入社員の勤務地は大阪。慣れないスーツで営業先を歩き回り、半年が経ったころだ。ふと立ち止まって、考えた。