名古屋・立花葉、女子サッカーの最高峰アメリカで求め続けた「世界基準」
「本当の世界基準を知りたいのなら、世界に身を置くしかないんじゃないのか」
恩師のこの言葉に突き動かされて、大学で「世界」へ飛び出した立花葉(よう、23)。女子サッカーの頂点に君臨するアメリカの大学で、立ちはだかる壁に全力で挑み、小さな体に強さを身につけた4年間を、充実の表情で振り返った。
サッカーが当たり前にあったアメリカで魅了され
立花は幼少期を過ごしたアメリカでサッカーと出会った。学校でサッカークラブのチラシをもらい、もともと運動が好きだった立花は「サッカーをやりたい」と両親に頼み込んだ。当初は体格差のあるアメリカの少女たちに吹っ飛ばされて毎日泣いていたが、得点を決めると周りの人たちが喜んでくれたことがうれしく、サッカーに夢中になっていった。
「日本にずっといたら、サッカーを選んでなかったかもしれませんね。アメリカにいたから、自然に始められました。その後、サッカーを続けないにしても、アメリカのほとんどの女の子は、子どものころにボールを蹴った経験があると思います」
7歳で日本に帰国する際、アメリカのチームメートと「オリンピックでまた会おう」と誓い合った。愛知・日進市でも早速サッカーチームを探したが、近所には女子のチームがなかった。そのため、隣の名古屋市にある名古屋FCレディースに、4歳上の姉と電車を2回乗り継いで通った。
幸運なことに、当時の名古屋FCには児野楓花(この・ふうか、現・アルビレックス新潟レディース)、福田ゆい(現・マイナビベガルタ仙台レディース)、福田まい(現・日体大FIELDS横浜)など、のちに年代別代表で活躍する選手が多数在籍していた。小学6年生のときにはキヤノンカップジュニアサッカー2009で優勝。3位となった全国少年少女草サッカー大会では立花自身も優秀選手に輝いている。「名古屋FCは全国大会で優勝するような強いチームだったので、『オリンピックに出たい』『もっと上を目指したい』という気持ちが強くなりました」と、当時を振り返る。
U-17W杯落選、恩師の言葉で世界に挑戦
中学生になってからは、親元を離れてJFAアカデミー福島(静岡※立花が中1だったときは福島)に進学した。JFAアカデミーは、日本サッカー協会が直轄運営する中高一貫のエリート養成機関。「社会をリードできる世界基準の人材の育成」を目的とし、全国から集まった精鋭たちが、寮で生活をともにしながら、6年間、サッカー漬けの日々を過ごしている。
「世界を舞台に戦いたい」と話す仲間と切磋琢磨(せっさたくま)し、中学時代には各年代の日本選抜チーム、高校1年生ではU-16日本女子代表に選出されるなど、順調に世界への階段を上っていった。しかし最大の目標としていた「FIFA U-17女子ワールドカップ コスタリカ 2014」には直前で落選。JFAアカデミーの仲間や名古屋FCの元チームメートが優勝カップを掲げる姿をテレビで見ていた。「直前までメンバーに入っていたので、その場に自分が立てなかったことが悔しくて……」。世界の舞台に立ちたい、とより強く思うようになった。
世界への憧(あこが)れを募らせる立花に、冒頭の言葉の通り、アメリカへの挑戦を促したのはJFAアカデミー福島の女子初代ヘッドコーチ、今泉守正さんだった。今泉さんは立花が中学3年生だった12年に研修でフロリダ州立大学(FSU)に派遣され、15年よりJFAアカデミー福島のアシスタントコーチに就任。自らも指導者として世界に挑戦している今泉さんの言葉には説得力があった。「ごもっともだな」と立花は感じ、アメリカの大学行きを決意した。
高校3年生の夏、FSUが主催するサマーキャンプに参加。約200人の中高生が挑む中、立花は足元の技術の高さと英語力でアピールし、スポーツ奨学金を勝ち取った。
「守るディフェンス」ではなく「奪いにいくディフェンス」を
全米大学体育協会(NCAA)に所属する女子サッカーチームは、ディビジョン1だけでも約350のチームがある。FSUはNCAAディビジョン1で優勝経験もある強豪だ。簡単ではないと覚悟はしていたが、世界の壁は想像以上に高かった。
「足元の技術は日本の選手よりも劣るんですけど、アメリカの選手は個々の特徴がはっきりしています。例えば、体強くて、対人ディフェンスなら絶対に負けないとか、スピードがあって縦への突破が得意とか。自分の強みを前面に出したサッカーをします」
当時の立花はすべての面で平均以上の技術を持ち、カバーリングなどチームのためにハードワークできる選手ではあったが、突出した個性が見つからなかった。マーク・クレコリアン監督に「葉の武器は何なのか」と問われたとき、立花自身も答えられなかった。加えてアメリカでは、これまで日本のサッカーで求められてきた、コースを切る、遅らせるといった「守るディフェンス」ではなく、「奪いにいくディフェンス」を求められた。立花は「守備ができない」と指摘され、FSUでの1年目はわずか4試合、合計68分の出場にとどまった。
「こんなにも試合に出られないのは初めての経験だった」と落ち込んだが、「こういう経験をするためにアメリカに来たのだ」と気持ちを切り替えた。挑戦するためにアメリカへ来たのに試合に出られず、残りの3年間を無駄にしたくない。そこで2年生からはディビジョン1中位のセントラルコネチカット州立大学(CCSU)へ編入。新たな環境で自分の武器を見つめ直した。
CCSUでは豊富な運動量と高いインテリジェンスとで、個性が強いチームメートのつなぎ役を担い、信頼を獲得。ボランチに定着し、移籍初年度は18試合、2年目は17試合に出場した。身長155cmとひときわ小柄な立花だが、フィジカルコーチのもとで週3回のウエイトトレーニングを重ね、元々備えていた鋭い読みも生かし、「奪いにいくディフェンス」も身につけた。
最終学年となる19-20シーズンは14試合に出場し、2得点4アシストを記録。ノースイーストカンファレンス(NEC)トーナメント連覇の立役者となり、立花もMVPに輝いた。さらにチームはNCAAトーナメントで2回戦に進出。03年以来2度目の歴代最高タイとなる好成績を残す。
アメリカのアスリート学生は競技だけでなく学業でも一定の成績を残すことを求められる。学業が基準を満たさなければ、試合どころか練習すら参加できない。帰国子女で英語力にアドバンテージがあったとはいえ、立花は3年連続でNortheast Conference Academic Honor Roll(成績優秀者名簿)に掲載されるほど、学業でも一切手を抜かなかった。
夢のオリンピックへ、そのためにも「怖い選手になりたい」
4年目のシーズンを終えた立花は、卒業までのインターンシップ先として古巣・NGUラブリッジ名古屋(チャレンジリーグ所属)でプレーすることを決め、昨年12月に帰国した。「プロサッカー選手になりたいし、いろんなサッカーを知りたい」と、当初は卒業後の進路としてヨーロッパでのプレーを希望していた。
しかし名古屋で練習する内に、楽しくなってきた。「磯村(健)監督のもとで練習をして、アメリカでおろそかにしていた技術の面が浮き彫りになってきました。今はそういう細かいところをもう一度見直さなきゃいけない時期なのかなと思い、20シーズンは名古屋で頑張ろう」と、考えを変更。新型コロナウイルス感染拡大により、名古屋が所属するチャレンジリーグの開幕は8月22日予定とずれ込んだ。それでも「日本でプレーするのが本当に楽しみ」と目を輝かせる。
5月16日に卒業式を迎える予定だったが、卒業はしたものの、式だけは秋に延期となった。アメリカでの4年間を振り返り、最も学んだことは「ゴールに向かう姿勢や勝ちにこだわる姿勢」だと話す。
「私は“怖い選手”になりたいです。アメリカ人は足元の技術がないですけど、『あ、勝てる』とか、『強い』『怖い』と思わせる瞬間がある。逆に日本人で『うまいなあ』と思う選手はたくさんいるんですけど、『怖いなあ』と思う選手はそれほど多くない。相手がどんなに強くても、『勝てるよ』と盛り上がっていけば、チームもどんどん強くなっていくことをアメリカで体験しました。だから名古屋を『このチーム怖いなあ』と思わせるチームにしたいです。その方が見ている方もワクワクするし、サッカーをしていても楽しいので」
そして、懐かしそうに微笑んでこう続けた。「小学校のとき、(アメリカの友人と交わした)約束は忘れてはいません。オリンピックにもずっと憧れがあります。ぜひ成長した姿を見てもらえたらと思います」