川崎フロンターレ・中村憲剛、中央大で考えて考えてはい上がった平成
平成の時代が終わり、令和の時代が始まります。いまこそ、平成の30年あまりの間に輝いた大学生アスリートに目を向けましょう。三人の方に取材した特集「平成に輝いた4years.」をお届けします。一人目は平成14年度に中央大学サッカー部の主将を務め、川崎フロンターレ一筋でプレーし続けている中村憲剛さん(38)です。
“何なのこいつ”からのスタート
サッカーのJ1で444試合出場(4月24日時点)。大卒選手としては、歴代最多の記録となる。中村憲剛は苦心に苦心を重ねて、一つひとつ壁を乗り越えてきた。プロ14年目の平成28年、年齢に抗いながら当時36歳にしてJリーグ史上最年長でのリーグMVPを初受賞。その翌年には何度も寸前で阻まれ続けた、クラブ悲願のJ1初制覇。昨年もリーグ2連覇の立役者の一人となった。遠回りをしてもあきらめず、歩みを止めない。常に頭を働かせて、打開策を見いだし、加入当時J2だったチームとともに成長してきた。
「僕は自分が何ができて、何ができないかを分かってます。いまの自分に何が必要なのかをずっと考えながらサッカーをしてきました。何もしなくても試合に出られるような選手ではなかったので。大学でもプロでも、そうやって出場してきました」
とんとん拍子でプロまで登りつめたわけではない。都立久留米高時代の最高成績は、全国高校選手権の都大会ベスト4。高3の秋になってあわてて進路を考えあぐね、スポーツ推薦で中央大に滑り込んだ。鳴り物入りで入ってくる選手たちに比べ、知名度はなかった。
さらに一人だけ入寮が遅れたこともあり、中大の同期や先輩たちの間では噂になっていた。「都立久留米の中村って、誰なの? 」と。
そして、迎えた大学での練習初日。フィジカルトレーニングで洗礼を受ける。体がなまりきっていたこともあるが、結果はゴールキーパーと同程度。まったく走れなかったのだ。明らかな準備不足。トレーニング用のシューズすら、用意していなかった。
「本当に泣きたいくらいでしたよ。周りの見る目が、“誰なのこいつ”から“何なのこいつ”になりました」
ろくに走れず、まともにプレーもできない。かつての仲間からは、いまでも「あのときの憲剛はやばかった。絶対にサッカー部をやめると思った」と笑われる。
当時の中央大学・学友会サッカー部は「推薦組」ばかりで構成され、各学年12、3人程度の少数精鋭。中村は自他ともに認める最底辺からスタートした。身長は170cm程度でガリガリ。運動能力も高くはなく、プレーも並。それでも、やる気を失うことはなかった。
「大学でサッカーを続けるという希望がかなって、環境を整えてもらいましたから。それを捨てるという選択肢はなかったです」
2学年上の“恩師”「大学は自分次第」
ライバルとなる同期や先輩たちを、何で上回ればいいのか。どういうプレーをすれば彼らを超えられるのか。来る日も来る日も考えて、練習に打ち込んだ。1年生の夏にはBチームからAチームへ昇格。1年目は公式戦の出場こそなかったが、大学サッカーのスピードに慣れ、自分のプレーができるようになっていた。
「チームにとって有益なプレーをすれば、監督や仲間からも信頼されます。その積み重ねで、はい上がっていきました」
2学年上の宮沢正史(卒業後はFC東京などで活躍。現FC東京U-15深川コーチ)からは多くのことを吸収した。関東大学リーグ1部のベストイレブンに入り、全日本大学選抜にも選ばれていたボランチは、誰からも一目置かれた存在だった。周囲が遠巻きにして見るなか、うまくなることにどん欲な中村はためらわなかった。
「この人にくっついていけば、何かが見えると思いました。自分から話しかけに行って、うまく取り入った感じです。本当にたくさん勉強させてもらいました」と屈託なく笑う。
正確なパスに定評のあった宮沢と、毎日のようにキック練習に励んだ。30m向こうから逆回転のかかったストレートボールが中村の足もとにぴたりと届くと、きれいなフォームをまねるように蹴り返す。お手本を間近に見ながらの反復練習は実になった。「最初は宮沢さんのように蹴れなかったけど、毎日意識してやってれば、だんだんとできるようになってきました」。盗んだのは技術だけではない。サッカーに取り組む姿勢も見習った。「大学は自分次第。自分で突き詰めないとあっという間に終わるぞ」。プロに限りなく近い先輩の言葉は説得力があり、胸に留めておくようにした。
2年生の秋になると、その努力が報われてレギュラーの座をつかむ。4年生の宮沢が中盤の底でゲームを組み立て、中村はトップ下で自在にプレーした。「あのときは充実してました。すごく楽しかったです」。関東1部で3位と躍進し、インカレにも自身として初出場。3年生になると10番を背負い、さらなる飛躍を誓った。しかし、現実は厳しかった。
「やはり、芯になる存在がいなくなったのは大きかったです。僕も宮沢さんがいてこその選手だったんだと思い知らされました。チームにはメンバーはいたのに、びっくりするくらい勝ってなかった。みんな頑張ってましたけど、ベクトルが合ってなかったんだと思います」
名門が味わった2部降格
平成13年10月27日、東京・西が丘サッカー場の光景は忘れることができない。1部残留を争っていた慶應義塾大が4-1で青山学院大を下したことで、中大の2部降格が決定。52年間、関東1部に留まってきた名門の凋落。スタンドで観戦していた中村は、あまりのショックで呆然とした。
「冷たい風が吹いてました。寒かった肌の感覚まで残ってます」
2部降格の責任をひしひしと感じ、最終学年ではキャプテンに就任。1年での1部復帰は目標ではなく、義務だった。初めて臨む2部でいかに戦い、どのようなチームをつくっていくかを、同期たちと何度も話し合った。
「いままでと同じではいけないと思いました。みんな同じベクトルの向きで戦えるようにしようと話しました。全員がチームに関われるように、いくつもの係(仕事)をつくって振り分け、部への忠誠心、帰属意識を持たせるようにしました」
10人で日大に勝ち、1部復帰
強制力はなかったが、同期と後輩たちの協力により、学生主体の改革は推し進められた。部内ではこれまで以上にコミュニケーションを取る機会が増え、チームには一体感が生まれた。一丸となって戦う組織は強い。2部では前期から首位を独走する。それでも、1部昇格が目前に迫ってくると、プレッシャーもあって足踏みし、後期の終盤に2位へ後退。最終節は1位日本大との直接対決。中大にとって自動昇格の条件は勝利のみ、日大は引き分け以上。平成14年10月26日、埼玉県川口市青木町公園総合運動場の一戦は、いまでも鮮明に覚えている。大学時代の一番の思い出だ。
開始早々に退場者を出し、10人になる不測の事態に見舞われた。
「悪い条件がよくここまでそろいましたよね。1年間の取り組みの成果が試される試合でした」
苦難に陥っても、一致団結してきたチームは崩れなかった。すぐに頭を切り替え、守りを固めてカウンターを狙う作戦へシフト。中村は1得点2アシストと大車輪の活躍だった。3-1の勝利に大きく貢献した。
「精神的にタフじゃないと勝てない試合でした」
プロに入った当初のころは、行き詰まると10人で戦った日大戦の映像を見返していた。
「修羅場をくぐり抜けた試合でしたから。当時はあれに勝るものはなかったので。あの映像を見ると、気持ちが奮い立ちました。俺はやれるんだ、って」
やみくもに走り続けた4年間ではなかった。底辺からはい上がるために、壁を乗り越えるために、苦境から抜け出すために、中村はいかなるときも頭を働かせ、考えて努力してきた。
「誰にでもチャンスはあるってことです。一番下からでも上へいけます。昔もいまも同じ。最後は自分次第です」
新時代の令和になっても、中村憲剛の本質が変わることはない。