大学サッカー

連載: プロが語る4years.

「サッカーの名門だし、教職も取れるし」と筑波へ アスルクラロ沼津・中山雅史(上)

52歳の現在選手である中山さんに、筑波大時代の話をうかがった(撮影・藤井洋平)

輝かしい舞台で躍動するプロアスリートの中には、大学での4years.で花開いた人たちがいます。そんな経験を持つ現役プロや、元プロの方々が大学時代を中心に振り返る連載「プロが語る4years.」。第6弾は「ゴン中山」ことプロサッカー選手の中山雅史さん(52)です。2回の連載の前編では筑波大時代の転機についてです。中山さんは2、3年生のときに関東大学リーグ1部を連覇し、とくに3年生のときには総理大臣杯と合わせた2冠を達成しました。

源さんとの出会いは僕の宝物です! 埼玉西武ライオンズ源田壮亮・4完

藤枝東高時代、国体に出るためDFになった

Jリーグの黎明期からFWとして活躍してきた中山さんは、J1で157得点を挙げている。日本代表が初のワールドカップ出場を果たした1998年フランス大会で、日本の初ゴールを決めたのも中山さんだった。そして52歳になった現在も、J3のアスルクラロ沼津で現役続行中だ。

中山さんは1998年と2002年のワールドカップに出場している(撮影・朝日新聞社)

中山さんはサッカーどころの静岡県藤枝市(当時は志太郡岡部町)出身で、小4のときにサッカーを始めた。高校は地元の強豪かつ進学校である藤枝東に進み、全国高校選手権ではベスト4。実は中山さんが最初に全国に名をはせたときのポジションは、FWではなかった。

当時の静岡県内には同学年である元日本代表の武田修宏さん(清水東、52)を筆頭に、FWには才能豊かな選手がそろっていた。そこで中山さんは「国体に選ばれるためには何でもやる! 」と腹をくくった。足が速くてヘディングも強いことが評価され、静岡選抜にはFWではなくDFとして招集された。そして国体で優勝。そこでのプレーが評価され、ユース代表にも選ばれた。

当時はJリーグ発足前だった。進路を考えるにあたり、中山さんは「サッカーの名門だし、教職も取れるし、経済的な面も考えて」と、筑波大へのチャレンジを決めた。姉が小学校の先生だったこともその理由の一つだった。筑波大学体育専門学群のスポーツ推薦は、2次審査に小論文、面接、実技とあったが、見事に合格した。

同期の井原正巳さんから受けた刺激

筑波大1年生のときも、中山さんはDFだった。同期のDFにはのちに日本代表の主将も務める井原正巳さん(52、現・柏レイソルヘッドコーチ)がいた。寮の近くのコンビニで一緒にバイトをしたこともあったという。

井原さんはすぐにレギュラーになり、2年生のときには日本代表にも選ばれた。「井原は当時から志が高かったし、僕よりも常に上のカテゴリー(の代表チーム)に選ばれてました。同じステージに立ってみたいと思ってましたね」と振り返る。

ターニングポイントは2年生のときに訪れた。「チームにあまりFWがいない。中山、高校時代にやってたんだからできるだろ?」という先輩たちの提案により、FWに戻った。そこから一気に才能が花開く。その年のリーグ戦優勝に貢献し、翌年も連覇。3年生のときには総理大臣杯との2冠を達成し、ベストイレブンにも選ばれた。

中山さんが2年生のとき、主将を平岡和徳さん(54、現・大津高サッカー部総監督)が、副将を長谷川健太さん(同、元日本代表/現・FC東京監督)が務めていた。3年生にはのちに日本代表DFにもなる田口禎則さん(54)、伊達倫央さん(53)、鋤柄(すきがら)昌宏さん(53)といったそうそうたる先輩もいた。「健太さんとはよく行動をともにしてたんですけど、『大学はもう大人の生活だから』と、自分を律しないといけないということを学ばせてもらいました」と、懐かしそう振り返った。

大学の寮の部屋にタンスを置いていた。「タンスにゴン」というCMのキャッチコピーとは不思議な縁がある(撮影・藤井洋平)

2年生のときまでは、筑波大の学生寮(追越宿舎)で生活していた。6畳ほどでトイレやシャワーは共同。リサイクルショップで買ったタンスを置いたら、それだけでかなり狭くなってしまったという。「ゴン」という中山さんの愛称は、大学時代にテレビ番組の「オレたちひょうきん族」でビートたけしさんが演じたキャラクター「鬼瓦権造(おにがわら・ごんぞう)」に似ていたことから、先輩がつけた。「でも、それを知ない人は、僕の部屋にタンスがあったから(タンスにゴン、という当時のCMにちなんで)“ゴン”だと思ってたでしょうね」と言って、笑った。

学生自身が考えるサッカー

部には監督がいたものの、学生同士でどう攻めてどう守るかを話し合った。またサッカーそのもののスキルだけでなく個々の能力を高めるため、体育専門学群の授業で学んだことを応用し、ときには大学院生にも教わった。「アジリティー(敏しょう性)を研究してる人もいたんで、それをサッカーにも採り入れたり、運動生理学や運動力学の知識を生かしてみたりといったこともしてましたね」

大学では勉強も頑張った。単位を取るためにいろんな情報を集め、いろんな友だちからアドバイスを受けた。「それらをどれだけ頭に詰め込むか、っていう勝負でしたけど」と笑う。また、当初の目的の一つだった体育教員免許も取得した。卒業後もサッカーを続けるのは大きな目標ではあったが、一方で教員になるのも現実的な道の一つかなと思っていたという。

体育の教師になるというのも一つの選択肢だった(撮影・藤井洋平)

それでも大学4年間で実績を残し、さらに先輩の田口さんや鋤柄さん、同期の井原さんらとともに日本のB代表としてアジアカップ予選を戦った。そうした活躍の結果、筑波大卒業後は先生になることはなく、当時はJSL(日本サッカーリーグ)に所属していたヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)にFWとして誘われ、その後の大きな飛躍につながっていく。

「将来のため何が必要か、4年間で気づいたもん勝ち」アスルクラロ沼津・中山雅史(下)
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