陸上・駅伝

「やると決めたらできる」中央大出身・小林渉さんが語る大学時代とセカンドキャリア

社長をつとめるクロスブレイスのオフィスにて(撮影・藤井みさ)

陸上選手のセカンドキャリアは、その後指導者としての道を歩む、所属していた会社で社業に専念する、というものがまだまだ多い。そんな中、引退後に起業した元選手がいる。箱根駅伝を走り、その後実業団で10年、そして起業して10年。中央大学出身、スポーツ選手のマネジメントやイベント企画を行う株式会社クロスブレイス社長の小林渉さん(44)に大学時代、そして今につながるお話を聞かせていただいた。

自由にのびのびと実力を伸ばし、中央大学へ

中学生のころは「県内で無敵」だったという小林さん。あらゆる高校から誘いの話が来て、「どうせなら一番偏差値の高いところに行こうと(笑)」専大松戸高校へ進学する。高校でも実績を残し、名門・中央大学の門をたたく。それまで自由な環境で競技に取り組んできた小林さんはまず寮生活にも戸惑いがあったという。「高校ではちゃんと練習はしてましたけど、友達と街で遊んだりもしてたんで。でも同期は、『カラオケって何?』ぐらいの人もいて、ギャップがすごかったですね」

小林さんが中央大に入学したのは1994年。その直前の箱根駅伝の成績を見ると3位、4位、3位、4位と「万年3位」と言われているチームだった。伝統ある強豪校ということもあり、チームメートは全国トップレベルの選手ばかり。はじめは練習についていけない日々。だが夏に「このままでは箱根駅伝を走れない」「もっと強くなりたい」と小林さんの心に火がついた。

気持ちが変われば練習に取り組む姿勢も変わる。1年生で箱根駅伝の7区を走った(写真は本人提供)

「当時の中央大長距離ブロックには専任の監督もコーチもいなくて、かなり自由な雰囲気でした。選手はやる気があってどんどん強くなろう! という人と、それなりに競技に取り組んでいれば、という人に分かれていたなと思います」

1つ上の学年には榎木和貴さん(現・創価大学駅伝部監督)、松田和宏さん(現・学法石川高校陸上部監督)がいて、2年生ながら練習を引っ張る存在だった。小林さんも彼らに追いつけと必死に練習し、ルーキーながら箱根駅伝のメンバー入り。7区を走って区間10位だった。

優勝、悔しくてショックで失神しそうになった

その後も意識高く練習に取り組み、2年生のときはチーム内での実力は榎木さん、松田さんに次ぐ3番手と目されるまでになっていた。出雲駅伝でアンカーをつとめ区間4位、全日本大学駅伝では1区4位とエース区間で好調を維持した小林さんだったが、全日本大学駅伝後にけがをしてしまう。最後の14人(編集部注:現行の16人エントリーになったのは2003年から)のメンバーには選ばれていたがけがの回復が間に合わず、小林さんが出走することはなかった。そして優勝候補だった神奈川大学、山梨学院大学の相次ぐ途中棄権というアクシデントもある波乱の大会の中、快調に走った中央大学の選手たちは優勝をつかみとった。ゴールテープを切ったのは同期の大成貴之選手。

笑顔でゴールに飛び込む大成選手(撮影・朝日新聞社)

「やりました! 中央大学、箱根駅伝32年ぶりの優勝!!!」

実況が興奮して叫ぶ。鈴なりになった観客から歓声が沸き起こる。その瞬間、小林さんは失神しそうになっていた。あまりにも悔しくてショックすぎたからだ。よりによって、自分が走れなかったときに。チームが勝った嬉しさよりも、走れなかった悔しさが大きすぎた。

「優勝校のメンバーは当時、翌日朝の『ズームイン!朝』に出ることになってたんです。エントリーメンバーには入ってたので、本来は行かなきゃいけなかったんですが、『俺は行きません』って言って本当に行きませんでした(笑)。本当に若かったなって思うんですけど、当時は現実を受け入れられなかったんですよ」

当時、中央大にコーチとして来ていたのが大志田秀次さん(現・東京国際大駅伝部監督)だった。大志田さんはホンダに在籍しながら、OBとして週2~3回ポイント練習の時のみやってくる形。そんな中でも大志田さんは小林さんのことをよく気にかけてくれた。「正直、大志田さんがいなかったら走り続けられなかったですね。けがをして走れなくてやけになっても見捨てないでくれて、すごいフォローしてもらいました。本当に恩人です」

大志田さんはいま東京国際大の監督として、同じように選手たちを気にかけている(撮影・佐伯航平)

3年次もけがをひきずってしまい、この年は駅伝はおろか、記録会にすら出られなかった。実力を期待されて箱根駅伝ではメンバーに入ったが、結局間に合わず。「みんながどこかで期待してくれてました。僕がメンバーに入ったことによって入れなかった人もいるわけで、すごい申し訳ないなって思ったんです」

長きにわたる「ぬけぬけ病」との戦い

箱根後、大志田さんとも「とにかくスタートラインに立とう」と相談。それまで練習を詰めこんでいたのをやめ、けがをしないことを第一にした。そして8月のユニバーシアード選考会5000mでいきなり13分52秒58を出し、代表をつかみとる。「雑誌にも『ノーマークの小林が代表を決める』って書かれたりしました(笑)。ただ、当時は『こんな練習で記録が出せるんだ』って思っちゃったことがあって」。あとから振り返るとそれも良くなかったな、という。

1997年のユニバーシアード イタリア・シチリア大会での小林さん(写真は本人提供)

ユニバーシアードに出場し、出雲駅伝のアンカーをつとめ、11月の全日本大学駅伝でもアンカーを走っているときに異変は起きた。突然足に力が入らなくなったのだ。「いわゆる『ぬけぬけ病』でした。力の50%も出せてない感じになってしまって。それもあって箱根駅伝では2区の予定が9区になって、全然ダメでした。ジョッグしてる感じでした」

こうして小林さんの4years.は、不完全燃焼に終わった。その後恩人・大志田さんの指導するホンダに進み5年、その後日産で5年の計10年実業団で過ごしたが、「ぬけぬけ病との戦いだった」と振り返る。

「僕の場合はずっと足に力が入らない状態で、だましだましやってました。『なる前に戻りたい』、そればっかり考えてました。今思うとあの時もっと補強をやっていれば、距離を踏んでいれば……あと、背が高くて線も細かったし、やるべきことはいろいろあったんだろうなって思います。そんな状態でも5000m13分40秒台、10000m28分台で走れてたんで、『治ったらもっといける』って思いながらずっとやってましたね」

東日本実業団駅伝、日産のチームで走る小林さん(写真は本人提供)

そしてその瞬間は突然やってきた。東日本実業団駅伝を走っている最中に「降りてきた」。「これだけ準備して動かないんだったら、もうだめだなって」。次の走者に襷(たすき)を渡して、その足で監督に「辞めます」と宣言。32歳のときだった。競技的には不完全燃焼でもあるが、その一方でやることはじゅうぶんやりきった、という思いがあった。

やりたいことはないけど、会社を辞めよう

引退して社業に専念して3カ月。周囲の人はみんな仕事を教えてくれるなどいい人ばかりだった。だがある日突然「あと1年ここにいたら、ずっとこの先もこのままだ」という思いが頭をよぎる。結婚していてすでに子どももいた小林さん。バイトもしたことがなく、社会人としては10年遅れている。辞めたからといってやりたいこともまったくない。でもやめないとこのままだ。

「あ、今日辞めよう、と思って会社に行ったんです。でも言おう、と思ったらビビっちゃって、1時間座ったまま考えちゃって。でもここが人生のターニングポイントなんじゃないの? って思って、崖から飛び降りる感じで上司に言ったんです」。いきなり「辞める」と言われた上司は、驚きながらも最終的には「なんか、うらやましい」と言い、「よくわかんないけど頑張れ」と送り出してくれた。

ドイツ・マインツでの記録会での小林さん。陸上でトップに立てなかったからこそできることがあるのではと考えた(写真は本人提供)

だが、辞めたからといってあてがあるわけではない。仕事がまったくない時期には、さすがに「辞めなきゃよかったかも」と落ち込んだときもあった。しかしできることからやろうと考え、マラソン大会の運営会社にアルバイトに行ったり、手伝ってほしいと言われたことには積極的に取り組んだ。

積み重ねて10年、オリンピックにも行けた

そのうちのひとつが藤原新さん(現・スズキACヘッドコーチ)との縁だ。藤原さんは2010年にJR東日本を退社し、当時は珍しかったプロランナーの道を歩み始めた。その時にスポンサー獲得などで相談に乗っていたという。小林さんがクロスブレイスを設立したのも2010年、藤原さんのマネジメントも業務の1つとなった。

「2012年の東京マラソンで彼がロンドンオリンピック代表を決めたときに、ゴールで抱き止めたのは僕なんです。そして彼の専任コーチとしてオリンピックにも行けた。何十年陸上界にいても、オリンピックに行ける人なんて一握りです。彼にも感謝だし、本当に人生ってわかんないな! って思います」

ロンドンオリンピックでの藤原新さん。小林さんは専任コーチとして同行した(撮影・朝日新聞社)

藤原さんが指導者の道に進んでもマネジメントを継続して担当するなど、縁は続いている。会社をやめてから10年、そして自分の会社を設立して10年。今ではアスリートのマネジメントのみならず、マラソン大会をはじめとしたイベントの企画や商品のPR、飲食業など、事業範囲はさまざまに広がった。ちなみに、4years.でもおなじみのM高史さんもクロスブレイスの所属だ。

「できることをしっかりやって、積み重ねて、やっと10年でここまで来たという感じです。10年って、陸上で言えば自分の練習の仕方がわかってきたぐらいのレベル。支えてくれる人もたくさんいて、感謝してますね」。競技ではトップになれなかったが、小林さんは自分なりのやり方でこれからも陸上界を盛り上げていきたいと思っている。「誰かが困ったときに、なにか少しでもヒントを与えられる人間、必要とされる人間になりたいです。そのためにはもっともっと僕自身が成長していかないといけないなって思うんですけど」

実際に小林さんのところには、選手、指導者などからさまざまな相談が入ってくる。プロランナーとして活躍する大迫傑(ナイキ)、神野大地(セルソース)からも相談を受けることがあるという。

やると決めたらできる。やるかやらないかだ

いま、大学生にメッセージを贈るとしたら。

「まず、今いる環境で一日一日、目標に向かってできることを精一杯やること。それから自分を信じること。今頑張れないやつは一生頑張れない、って思います。それから、時間がある時に本でもニュースでも、いろんなことに興味をもつこと。その積み重ねですね」。そして続ける。「やりたいと思って頑張れば、『なれる』んです。やるやつはやるし、行くんだったら行く。そういう強い信念を持ってやってる人が、わりと形になってるんじゃないかなと思います」。それは小林さんが大学時代、目標を具体的に持っていなかったことへの反省から出る言葉でもある。「今思うと甘かったです。『箱根駅伝に出たい』ぐらいしかなかった。あとは目の前のことを頑張ってるからいいことがあるだろう、ぐらいだった。人生、結局やるかやらないかなんですよ」

社内にはトップ選手のユニフォームとサインが多数飾られていた(撮影・藤井みさ)

今でもスポーツ選手のセカンドキャリアはたびたび問題になる。だからこそ小林さんは、「スポーツ選手でもある程度形になるというところを見せたい」という気持ちがある。「競技だけやってきて、何をやっていいかわからない人が多いと思う。少なからず先輩であるからには、突き進んでいきたいっていうのはありますね」

これからも小林さんは、陸上界を盛り上げるために走り続ける。

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