バスケ

世代別日本代表から大手を経てスタートアップへ 木林毅さんが筑波大時代に得たもの

木林さんはそばにバスケットボールがある環境で生まれ育ったが、あえてプロバスケ選手という道には進まなかった(撮影・松永早弥香)

バスケットボールで世代別日本代表に選出され、筑波大学時代にはインカレ3連覇を達成。Bリーグのチームからも声をかけられていた中で実業団チームをもつ三井住友海上火災保険に入社し、2019年にはウェルネスをテーマにしたスタートアップの「TENTIAL(テンシャル)」へ転職。木林毅(つよし)さん(26)にとってバスケは物心がつく前からそばにあったものだった。それでも20代の内にキャリアの土台を築きたいと考え、我が道を歩んできた。

高1でウインターカップ優勝、2年目は試合にも出られず

バスケ経験者の両親の下でふたりの姉もバスケをしていたため、木林さんがバスケと出会うのは自然な流れだった。小学校にあがってからは姉が入っていたミニバスのチームに入り、休みの日には父と一緒にバスケをして過ごしていた。地元の東京・府中はアルバルク東京の練習拠点であり、前身であるトヨタ自動車アルバルク時代には父に連れられて試合を見に行くこともあった。「単純にバスケは楽しかったですし、将来はバスケ選手になりたいな、というのは小学生の時から思っていました」と振り返る。

当初は地元の中学校に進んだが、1年生の3学期には都内のバスケ強豪校である京北中学校(現・東洋大学京北中学校)に転校。1学年上には田渡凌(現・広島ドラゴンフライズ)もいた。2年生の時に全中で準優勝と東京代表として出場した都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会で優勝、3年生の時には全中優勝と輝かしい成績を残している。

高校は中高一貫を飛び出して北陸高校(福井)へ。196cmの高身長を生かして高1の時から試合に出場し、初めてのウインターカップで優勝。しかし2年生になってからは全く試合に出られなくなった。「天狗(てんぐ)になっていたわけではないんですけど、自分の至らなさで仲間と衝突していました。先生からは『自分のためじゃなくて、チームメートや周りのために頑張らないと駄目だ』と言われましたし、当時の同期も何度も何度も僕に声をかけてくれていました」。自分がチームのために果たすべき役割を見つめなおし、3年生では再び試合に出場。U-18代表候補にも選ばれ、最後のウインターカップではベスト4をつかんだ。

スタメンを勝ち取り、61年ぶりにインカレ制覇

2013年春、木林さんは筑波大に進んだが、当時の筑波大は09年に1部へ5年ぶりに復帰したという状況で、インカレ優勝候補にあがるチームではまだなかった。それでも日本代表監督も経験している吉田健司監督の下で最新のシステムを学びながら戦うスタイルに興味を感じ、北陸の同期である満田丈太郎(現・京都ハンナリーズ)とともに飛び込んだ。

筑波大に進学してすぐは、Aチームに入るのがやっとだった (c) Masami SATOH

木林さんは入学当初を振り返り、「自分がスタメンになれるとは夢にも思っていなかった」と言う。Aチームの中にはいたが、当時いたインサイドの選手の中で自分は6人中6番だと感じていた。試合の時は荷物を運び、モップがけなどサポートに回った。これまではチームの中心メンバーとして活躍してきたことを思うと悔しさが募ったが、「俺たちが上級生になったらこうしようとか、アツい話をしていたのは覚えています」と同期と切磋琢磨(せっさたくま)しながら力を蓄えた。

2年目には馬場雄大(現・メルボルン・ユナイテッド)と杉浦佑成(現・島根スサノオマジック)のスーパールーキーが加入。多くのスター選手がいるチームの中で、木林さんは自分の役割を考えて行動を続ける内にチャンスをもらえるようになり、プレータイムも増えていった。2年生の途中からスタメンに起用され、その年に筑波大は61年ぶり2度目となるインカレ優勝を成し遂げた。それから筑波大はインカレ3連覇を果たし、木林さんは学生最後の試合を勝利で終えた。

インカレ3連覇をもって、バスケ中心の生活を終えた(左から5人目が木林さん、写真は本人提供)

Bリーグへの誘いを断り、実業団へ

木林さんが4年生になった16年にはBリーグも開幕し、バスケで生きていく、という選択もより可能な状況になっていた。多くの先輩もプロの舞台で活躍し、同期にもBリーグに進む選手がいた中、木林さんは3年生の時から働きながらバスケをする実業団を決意していたという。

「いろいろなことを考えたんですけど、端的にいうと自分がこれから日本代表で活躍するような選手になれるとは思えなかったんです。日本代表になれなくてもB1やB2でバスケをするという選択肢もあったんですけど、新卒のタイミングで新しいキャリアに挑戦した方が、長い目で見たら自分のためになるんじゃないかなって。大学でバスケをやり切ったと思えたこともひとつの理由でした」

大学3年生の時にはユニバーシアード日本代表チームに選ばれた(強化試合にて、左から2人目が木林さん、写真は本人提供)

バスケの練習や試合で十分に就活の時間を確保できず、バスケの実績で関東の実業団であれば選択肢が広く持てていたため、大手の三井住友海上で働きながらバスケをする道を選んだ。「両親にはプロにいってほしいという気持ちがあったかもしれませんけど、『自分で決めた方が後悔もしないんじゃないかと言ってくれました。両親もバスケをやっていたのでプロの厳しさも知っていたでしょうし」。キャリアの土台を築きたいという思いがあった一方で、その時はまだ、子どもの時からそばにあったバスケと離れるという選択肢はなかった。

大手で勤務、自分がやりたいことに悩んだ

三井住友海上では代理店営業として、代理店をマネジメントしながら様々な保険の提案をする業務を担った。「代理店の方々は自分よりも年上で、保険だけではなく不動産や中古車などの販売もしていたので、いかに魅力を伝えてモチベーションを高められるかということが重要でした。私自身、学生時代はそこまでコミュニケーション能力が高くないとは思っていましたし、この仕事ですごく鍛えられました」。実業団での入社だったが、平日は他の社員と同じように働き、土日は両日バスケ部で練習。チーム内の規律は厳しかった上にバスケのスタイルになじめず、より仕事に重きを置きたいと考え、相談の末、バスケ部は1年で退部した。

代理店営業で多くのことを学ぶ機会に恵まれたが、本当にこの業界でキャリアを築いていきたいと思っているのか、懐疑的なところがあったという。改めて自分が打ち込めることを考え、すぐに浮かんだのはスポーツだった。転職を考え始めた当初は大手を中心に情報を集めていたが、会社の同期で先に転職した元ラガーマンにテンシャル代表取締役CEOの中西裕太郎さんを紹介してもらい、話を聞いている内に「自分が一番成長できる環境はここだ」と感じたという。

中西さんは高校の時にサッカーでインターハイに出場しており、高卒からリクルート最年少正社員、そして18年2月にテンシャルを立ち上げた。「中西と話してまず、思考の深さが違うなと思いました。20代の内は苦しい環境で鍛えたいと思ったんです」。木林さんがテンシャルに入社したのは19年7月。当時は社員が5人で、オフィスもマンションの1室。親には事後報告だったという。

スタートアップで受けたカルチャーショック

テンシャルは「スポーツと健康を循環させ、世界を代表するウェルネスカンパニーを創る」をミッションに掲げ、日常使いができるインソールなどを展開しており、昨年は利便性も追求したマスクを新たに開発した。コロナ禍で人々の生活スタイルが大きく変わり、改めて健康を見直す気運が高まったことはテンシャルにとっても大きなきっかけになっている。

テンシャルに入ったばかりの時は、ミーティングで飛び交う言葉も分からなかった(撮影・松永早弥香)

ただ大手からスタートアップに変わり、木林さんは全てにカルチャーショックを感じたという。「180度というくらい、文化が違いました。それこそ最初、ミーティングで話される言葉の意味が8割分からないくらい。メモをして、後で調べていました」。担当は商品開発。大手のように作業が細分化されているわけではなく、ニーズから商品のコンセプトを考え、工場を探し、どういうものを作りたいのかを説明し、改良を繰り返しながら価格を決めるなど、様々な業務を引き受けている。時には一からやり直しになり、企画から納品までに1年かかることもある。社内外の様々な人とどうやって円滑に作業を進めるか、前職で学んだコミュニケーション能力やマネージメント能力を生かしながら一つひとつ取り組んでいる。

今では社員は20人に増え、本社は一軒家を改装したオフィスに移転した。テンシャルは木林さんのような20代が中心の会社であるが、新たに30代のメンバーも加えていきながら上場を目指している。木林さんは現在、商品開発とともに営業も担当している。転職を考えていた時、よりバスケに近い企業に進む選択肢もあったが、テンシャルを選んだことに後悔はない。

「会社的にはウェルネスをうたっていますけど、業務はがっつりITに関わっているので、いろんな人の話を聞きながら新しい知見を得られています。周りの熱量に圧倒されることもありますけど、負けないぞという気持ちで、広い視野が持てる環境で働けることは、今の自分にとって理想的だと思っています」

筑波大バスケ部で養われたスタイル

大学時代にやっておいた方がよかったこととして、「ジャンルは何でもいいと思うんですけど、いろんな人の話を聞くことをしておけばよかったなと思いました。本を読むでも、人脈を広げるでもいいと思います」と言う。木林さんは学生だった時から、バスケから一歩外に出た時に、自分の武器になることや興味を持てるものがないというのは避けたいと考えていた。SNSを通じて気軽に情報にアクセスできる時代だからこそ、社会に触れて準備をすることも学生の内にできることのひとつだろう。

木林さんの弟・優(1年、福大大濠)も現在、筑波大でバスケをしている。ただ今はあえて何も言っていないという。「まだ1年生で大学の環境に慣れることから始めていますし、今はバスケに専念してほしいです。でもここから2、3年生と社会に近づいてきたら少しずつアドバイスができたらいいなと思っています」

バスケで計6回、全国で優勝を経験し、世代別日本代表にも選ばれた。筑波大の仲間にはBリーグに進んだ選手も多い。もしそのままBリーグに進んでいたら、今この瞬間もプロバスケ選手として活躍していたかもしれない。しかし木林さんには、そこにネガティブな感情はない。「先輩や同期、後輩の活躍にすごくやる気というか闘争心が湧いてきます。SNSもフォローしていますし、彼らの姿を見て、自分も頑張らないとなっていう気持ちにさせてもらっています」

木林さんはバスケを通じていろんなことを学び、その経験は今に生きている (c) Masami SATOH

振り返ってみると、大学時代の学びが今に生きていることは多いと木林さんは言う。

「筑波のバスケは他の大学に比べて体力的には楽かもしれないですけど、その分、考える時間がめちゃくちゃ長いです。覚えることも多いですし。筑波はデータバスケと言われるんですけど、吉田先生は細かく数字として定量的に表してくれたのですごく分かりやすかったです。一つひとつのプレーを突き詰めて考えることをたたき込まれ、選手も『なんでこれをやるんだ?』『これをすることがどう勝敗に影響するんだっけ?』などと考えていましたし、時には先生に意見してディスカッションをしていました」

なんとなくではなく、考えながらプレーをする。そのスタイルを今の仕事でも貫いている。なんでするのか、どのようにしたらいいのか、それはどうなるのかなど、突き詰めて考えながらサイクルを回し、より良いものへとつなげていく。それは木林さんが人生やキャリア形成においても大切にしていることだろう。

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