関西学院大学の平尾渉太、最後の最後に主役になったファイターズQBの4years.
アメリカンフットボールの全日本大学選手権決勝・甲子園ボウルは12月19日にあり、関西学院大学ファイターズが法政大学オレンジを47-7で下して4年連続32度目の優勝を飾った。この日、関学の面々が最も盛り上がったのが第4クオーター(Q)13分すぎ、五つ目のタッチダウン(TD)だった。QB(クオーターバック)の平尾渉太(4年、啓明学院)が仲間のブロックに守られ、エンドゾーンへ飛び込んだ。高校時代には日の丸を背負ってプレーしながら、大学では日の目を見なかった平尾が、最後の最後に主役になった。
フィールド上は4年生、祝福の青い輪
40-7と関学の大量リードで甲子園ボウルは終盤を迎えた。QB鎌田陽大(2年、追手門学院)からWR糸川幹人(3年、箕面自由学園)へのパスが決まってゴール前17ydまで攻め込む。試合残りは3分6秒。ここで関学はタイムアウトをとり、ここまでほとんど試合に出られなかった4年生を投入。その一人が、この夏からずっと仮想敵としてディフェンスの練習相手となってきた平尾だった。フィールド上の11人がすべて4年生になった。
第1ダウンはRB安西寛貴(関西大倉)のラン。5ydのゲイン。第2ダウンはパス。レシーバーが相手にカバーされていて、平尾は投げるのをあきらめて走り出そうとしたが、すぐにタックルされた。3ydのロス。第3ダウン、左サイドライン際を駆け上がったWR戸田龍太(関西学院)へのパスは決まらなかったが、相手にパスインターフェアランスの反則。ゴール前2ydからの第1ダウンとなった。
ここで関学は平尾にTDさせるためのプレーを入れた。平尾は右へ弧を描くように走り出し、味方のブロックを見てタテに切れ上がる。タックルを受けながらエンドゾーンに体を投げ出した。TDだ。すぐに平尾の周りに祝福の青い輪ができた。WR鳩谷光(箕面自由学園)は、その輪に思いっきり高くジャンプして加わった。TD後のキックのために入ってきた主将の青木勇輝(追手門学院)も平尾に駆け寄り、声をかけた。サイドラインに戻ると、誰もが18番を祝福するために寄ってきた。
次のオフェンスでも平尾はフィールドへ。勝利のカウントダウンを聞きながら、涙があふれてきた。「TDのプレーは、何が何でもと突っ込みました。走り方を教えてくれたRBユニットのおかげです。みんなのおかげで最後に出られましたし。ほんまにやってきてよかった」
山中ちゃんは関学、自分は啓明で初の関西制覇
平尾には2学年上の兄、拓真がいる。小6のとき、関学中学部でフットボールをしていた兄の試合を見に行って、自分も中学からやろうと決めた。兄はのちにファイターズでDBとして活躍した人だ。そのころ通っていた兵庫県尼崎市の塾では、休み時間に「消しバト」がはやっていた。消しゴムを互いに指ではじき、相手の消しゴムをエリア外に押し出す遊びだ。
ファイターズで4年間をともにしたQB山中勇輝(関西学院)とは、実はその塾からの仲間だ。ともに第一志望は関学。平尾は不合格で、山中は合格した。平尾は関学の姉妹校でフットボールもできる啓明学院へ進んだ。のちに母づてに山中も関学でフットボールを始めたと聞き、驚いた。平尾は当時からずっと山中を「山中ちゃん」と呼んでいる。
ともに花形のQBとなり、中3のときの練習試合で初めてエース同士で戦った。平尾の啓明が勝った。高3のころになると、平尾の方が投げてよし、走ってよしで高い評価を受けていた。春の兵庫大会決勝、関西大会決勝と続けて啓明が関学に勝ち、初の関西制覇を果たした。
啓明の卒業生はほとんど関西学院大に進むが、平尾は別ルートを考えていた。関学に進んだ場合、1学年上のQBに奥野耕世(現ホークアイ)がいるからだ。「奥野さんがいたら1枚目(スターター)として出るのは難しい。ほかの大学へ行った方がいいかと迷ってました」。高3の夏ごろ思い描いていたのが、啓明のOL(オフェンスライン)の先輩がいる法政大学への進学だった。
そして迎えた高校最後の秋シーズン。啓明は全国高校選手権の関西地区準決勝で、13-23と関大一(大阪)に敗れた。試合の最終盤、平尾はコーチに「絶対いけます」と伝えてコールしてもらった自身のランプレーでファンブル。「このまま関東なんか行かれへん」と思った。関学に進んで自分がエースQBとして関大を倒したい、と。さらに、法政進学を考え始めたときから、心に引っかかりがあった。平尾の中には中学のころから「大学はファイターズで兄と一緒にフィールドに立つことが、両親への恩返しになる」という思いもあったからだ。こうして平尾は関西学院大学へ進むことになった。
日の丸背負い貴重な経験
大学入学前に夢のような舞台が平尾を待っていた。2018年1月、インターナショナルボウルに出場するU-18日本高校選抜のメンバーに選ばれ、アメリカへ。テキサス州アーリントンにあるNFLダラス・カウボーイズの本拠AT&TスタジアムでアメリカU-17選抜と戦った。日本のQBは平尾と立命館宇治高3年の横山恵太郎(現・立命館大4年)だった。
ディフェンスによるTDで7-0と先制した日本は第2Q、平尾からTE水谷蓮(高槻高2年、現・立命館大3年)へのパスで敵陣に入る。平尾のランで前進すると、平尾からWR大谷空渡(くうと、駒場学園高3年、現・日本大4年)への13ydTDパスが決まって14-0。第3QにパントブロックリターンTDを喫して14-6。しかし相手のミスで得たゴール前1ydからのチャンスをRB平浩希(立命館宇治高3年、現・立命館大4年)のTDランでものにして、21-6とした。このまま日本が勝利。平尾はMVPに選ばれ、ボクシングのチャンピオンベルトのようなものをもらった。
「初めてスタジアムに入ったときは高いところにあるモニターがすごくて、『こんなところでやれるんや』と興奮しました。自分から『いきます』と言ったランでゲインできたし、向こうの部屋で遊んだり話したりしてた空ちゃん(大谷)にTDパスが決まったときはうれしかった。本場のアメリカに勝てたのは誇らしくて、次のステップへ自信がつきました」
いま思えば、これで少し天狗になっていたところがあった。大学の練習に合流すると、その鼻は軽くへし折られた。2年生になったばかりの奥野も、4年生の光藤航哉(現オール三菱)と西野航輝も、QBとしてのレベルが段違いに高かった。一方で、控え組で臨んだ6月の金沢大戦ではパスで5TD。存在感も示した。7月にはU-19世界選手権の日本代表としてメキシコへ。佼成学園高で2度の日本一に輝いた野沢研(現・立命館大4年)とともにオフェンスを率いた。メキシコ、カナダに続けて敗れ、5位決定戦のオーストラリアには大勝した。最初の秋のシーズンはレギュラー組に入れず、ディフェンスの仮想敵としてスカウトチームで試行錯誤の日々を送った。
走れない、もがく日々
4年生の2人が抜け、迎えた2年目。この春にどれだけアピールできるかが、平尾のフットボール人生を左右するといっても大げさではない。初戦の法政大戦には、奥野のあとを受けて後半から出場。調子はよかった。当然ながら気持ちも乗っている。パスを決め続け、第3Qの終わりに4度目のパスでTD。しかし、このプレーで右手の親指を脱臼してしまった。次の慶應義塾大戦は前々から「平尾でいくぞ」と言われていたのに、出られなくなった。「せっかくいただいたチャンスを、けがをしてムダにしてしまった。いま思えば、あそこが分岐点だったのかもしれません」。明るい平尾の声が、沈む。
奥野もけが。入学後にWRに転向していた山中が急きょQBに戻った。そして活躍。平尾は複雑すぎる思いで、山中ちゃんの躍動を見ていた。「もちろん日能研からの同志で中高のライバルが活躍したのはうれしかったんですけど、QBとしては先にいかれてしまって、悔しかった」。春の最終戦となったXリーグのエレコム神戸戦で復帰。12回投げて7度成功させた。TDはとれなかったが、「ちょっとだけ(力を)見せられた」と思った。
2年生の秋は奥野に次ぐ2枚目で開幕を迎え、初戦の同志社大戦に後半から出場。思うように投げられた。2戦目の龍谷大戦は、奥野のけがでリーグ戦初のスターターとして出た。見せどころだ。だが「秋は負けたら終わり。プレッシャーが重なってパフォーマンスが上がらなかった」。WR鈴木海斗へ55ydのTDパスは決めたが、太ももを打撲。途中交代を余儀なくされた。打撲が治っても、行き先はスカウトチームだった。当時オフェンスコーディネーターだった大村和輝・現監督には「関学のQBは走れないと話にならん」と言われていた。走れないQBはパスで相手のラッシュがかかったら、それで終わってしまう。追い込まれたときに打開できる思い切りのよさと脚力があれば、オフェンスの可能性は広がる。
なぜ「投げてよし、走ってよし」だったはずの平尾が「走れない」との烙(らく)印を押されてしまったのか。平尾が言う。「大学になると、QBはプレーだけじゃなくてゲームコントロールをするのが役目になってきます。いろいろ考えるようになった分、思い切って走れなくなってしまってました」
活躍らしい活躍ができないまま、3年生になった。そこに、とんでもない1年生が入ってきた。大阪府茨木市にある追手門学院高からやってきた鎌田陽大(はると)だ。春先恒例のフォームチェックのとき、このルーキーが力を入れて投げるのを初めて見た。「鎌田の肩の強さは異次元でした。僕は55ydまでなら狙ったところに投げられて、肩には自信持ってたんですけど、鎌田はプラス10yd。この子に(エースの座を)とられるんだろうな、と思ってしまいました」
新型コロナウイルスの感染拡大で、春のゲームはなくなった。各自にトレーニングが任された時期、平尾はチームのスタッフが教えてくれた西宮市内の五段坂に向かった。約750mのアップダウンを7本ダッシュ。これがキツい。最初は一人だったが、同学年のRB齋藤陸(江戸川学園取手)、WR黒津大和(関西学院)、「ポッポ」こと鳩谷らも加わった。走り終えると、そのメンバーで筋力トレーニング。みな、試合出場機会の少ない選手たち。やっているうちに結束力が強まったという。
3年生の秋はリーグ戦がなくなり、トーナメントに。初戦の同志社大戦の1週間前に、平尾は2枚目を一つ後輩の山﨑誠太郎(佼成学園)に奪われた。納得できなくて、初めてコーチに「なんでですか?」と質問した。この年からオフェンスコーディネーターとなった香山裕俊コーチには「立命とやることを考えると、走れなあかん。ほかのQBを育てるのも平尾の役目や」と言われた。
奥野やOLの高木慶太(現ホークアイ)にも相談した。2人の4年生は「俺は見てるからな」と言ってくれた。いまでも、平尾はこのひとことを忘れない。「まだまだ成長しようと思わせてくれたのが、あの言葉でした」。奥野はシーズンが終わると、平尾と山中に「2人のどっちかがスターターになって、2人とも試合に出ろよ」と言った。
私情を挟まず、リーダーをやりきる
ラストイヤーを迎えるにあたり、平尾は同学年のRB前田公昭(関西学院)に「どうやったら走れる?」と聞いた。前田はミーティングを開いて、いろんな技術を教えてくれた。そして平尾はパートリーダーとオフェンスリーダーになった。ただ、春のシーズンがコロナ禍で少し遅れて6月に始まるころ、チームとして2年生の鎌田をエースに育てていく方針が決まった。
「正直落ち込みました。でも4回生になるにあたってリーダーに立候補して『誰が出ても勝てるパートをつくる』と決めたんで。もう私情は持ち込まないで、どんな立場になってもパートリーダーをやりきろうと。それだけでした」。ディフェンスを読むことがほとんどできていなかった鎌田に、一から教えていった。
夏からはずっとスカウトチームで過ごした。敵のQBになりきることが、平尾のラストシーズンだった。脇役の中の脇役を、ずっと演じ続けた。一方でレギュラー組のミーティングもすべて出て、自分なりの考え方をみんなに伝えていった。試合中は鎌田がサイドラインに戻ってくると、山中と2人でアドバイスし、励ました。
鎌田は立命館大との2度の戦いでも試合をつくり、ファイターズのエースになった。甲子園ボウルが終わった直後の鎌田は、いつになくテンションが高かった。19歳が背負ってきた荷物の重さが、こちらにも伝わってきた。鎌田は平尾と山中について言った。「しょぼくれてる僕に、いつも声をかけてくれました。いなくなるのは不安ですけど、新チームが始動したら僕がオフェンスを引っ張れるように。来年は先輩たちに『そこまでできるようになったんか』と言ってもらえる姿を見せたいです。本当にありがとうございました」
奥野は2人について、こう言った。「平尾はとにかく真面目に取り組み続けてきたので、最後に甲子園でタッチダウンできたのは本当によかった。ほんまにうれしかったです。山中は立命戦にポイントで出て、パスを通した。あれもうれしかった。僕が4年のときは、あの2人にいろいろ助けてもらいました。自分たちが最後の年にスタメンで出られなかったのは悔しいとは思うんですけど、それぞれの立場で日本一に貢献しました。そんな2人を尊敬します!」
平尾はファイターズでの4年間を、こう総括する。「最高の仲間ができました。何度もくじけそうになったけど、仲間がいたからやってこられました」。来春には大手総合電機メーカーで働き始める。中1から10年やってきたフットボールを続けるかどうかは未定だ。
私は高3の春に平尾の存在を知った。鳴り物入りで関学に入って、どんな道を歩むのだろうと注目してきた。2年の春の法政戦でけがをしたあと、とても暗い表情をしていたのを思い出す。ラストイヤーにチームの方針で「鎌田でいく」となってからは、余計に平尾が気になった。高3のときのような心からの笑顔が、なくなっていた。甲子園ボウルで点差が開くたび、私は心の中で「ひらお、ひらお」と念じた。18番が出てきてTDした直後のみんなの大喜びが、彼の生きざまを何よりも的確に表現している。QBという勝負師にしてはちょっと優しすぎた平尾だったが、彼なりの4years.を生き抜いた。最後に心からの笑顔が見られて、よかった。