陸上・駅伝

東海大・宇留田竜希新主将、故障に苦しんだ3年間 チームと共に復活のラストイヤーへ

相次ぐ故障で学生駅伝を走れなかったからこそ、ラストイヤーにかける思いは強い(写真提供・東海大学陸上競技部)

2021年度の駅伝シーズン、東海大学は出雲駅伝が9位、全日本大学駅伝が12位と、両角速駅伝監督が就任した11年度以降では、いずれも最低順位に終わった。箱根駅伝も最終10区で逆転され、11位で8年ぶりにシードの座から陥落。巻き返しを誓う22年度、新チームの駅伝主将には宇留田竜希(3年、伊賀白鳳)が就任した。故障に苦しんできた3年間を経て、両角駅伝監督からの「頑張らないといけないな」という言葉を胸に、大学生活のラストイヤーに挑む。

逆境に挑む東海大・本間敬大主将の思い、佐久長聖の後輩・越陽汰が受け継ぐ

自然な流れで新チームの駅伝主将に

館澤享次(現・DeNAアスレティックスエリート)、塩澤稀夕(現・富士通)、本間敬大(4年、佐久長聖)と、東海大の駅伝主将はここ3年間、前年度までに主要大会で結果を残した選手が担ってきた。しかし、宇留田はそうではない。これまで学生3大駅伝の出場は一度もなく、館澤ら3人に比べると、実績面では大きく劣る。

それでも1年生と3年生の時には学年リーダーを務めた。箱根駅伝の前から行っていた新主将を誰にするかという学年内の話し合いでも、ごく自然な流れで宇留田の名前が挙がった。両角監督からの承認も全く問題なかった。「みんなから選んでもらったので、頑張ろう」と前向きに主将という大役を引き受けた宇留田は、どのようにチームをまとめていきたいのか。

「自分は大学で駅伝を走ったことがないですし、今までのキャプテンの方々みたいに競技力がすごい高いわけではありません。でも、しっかりコミュニケーションを取って、誰かが引っ張っていくというのではなく、全員で強くなって、みんなでいいチームになっていければいいかなと思っています」

宇留田が見てきた歴代の主将は、「いつも優しく、上からものを言うような感じは少しもなく、自分たちの立場になって考えてくれて、その上で練習やレースの結果で、背中で引っ張っていくようなキャプテンだった」。中でも同じ高校の先輩でもあった塩澤には目をかけてもらい、「大学に入る時も相談に乗ってもらい、普段から優しくしていただきました」という。箱根が終わり、主将を引き継ぐ際には、本間から「シード落ちしちゃってごめんな。これから何かあったら連絡してこいよ」と声をかけてもらった。

歴代主将たちのやり方でいいと思える部分は踏襲し、宇留田なりの主将のスタイルを構築していくつもりだ。

「1年目から駅伝を走る」目標を掲げたが……

地元・三重県松阪市のクラブで小学2年生から陸上を始めた宇留田は、中学の部活動で本格的に長距離に取り組み始めた。全国区で活躍するようになったのは、県内強豪の伊賀白鳳高校に進んでから。2年生の時から2年連続でインターハイと全国高校駅伝(都大路)に出場し、都大路では2回ともエース区間の1区を任されている。全国の舞台で華々しい結果は残せなかったが、「自分もやったらできるんだということと、まだまだ力が足りないことを学んだ」という高校3年間だった。

宇留田は憧れの塩澤(左)を追って東海大に進んだ(撮影・北川直樹)

大学を東海大に決めたのは、元コーチの廣瀬泰輔さんや1学年上の山口順平主務など、伊賀白鳳OBが多く、いろいろな情報を聞けたからだが、とりわけ「塩澤さんに憧れて入った部分が大きい」と宇留田は話す。入学当初の目標は、「できれば1年生から駅伝を走る」と掲げた。宇留田の高校時代の5000mの自己ベストは14分09秒00。同期の新入生では2番目に速く、18年の高校ランキングでも全国26位(日本人のみ)と高水準の記録を持っていた。「1年生から駅伝を走る」ことは、必ずしも非現実的な目標ではなかった。

しかし、その年の東海大は1月に箱根駅伝で初優勝に輝き、春からは館澤らの黄金世代が最終学年となって2連覇を目指すというシーズンだった。「先輩たちのレベルが高くて、練習についていけない時もあった」のは仕方がなかった。

ただ、走力面以上に苦しんだのが、度重なるけがだった。7月に大腿(だいたい)骨を疲労骨折し、「夏合宿はほとんど走れなかった」と振り返る。さらに宇留田はその後、何度も故障でチームから離脱し、主要大会に出場する機会を逃すことになる。駅伝シーズンに入ると、東海大は黄金世代の活躍で全日本大学駅伝を制し、箱根駅伝では同期の松崎咲人(佐久長聖)が7区区間3位と堂々の学生駅伝デビュー。そうした活況を宇留田は、何となく素直に喜べずにいた。

「自分が全然走れていない状況だったので、悔しい気持ちももちろんあったのですが、正直ちょっと別の世界というか、遠いところの出来事のようにその頃は感じでいた気がします」

同期の松崎(右)がルーキーイヤーから箱根駅伝で活躍する姿を、宇留田は悔しさを持って見ていた(撮影・佐伯航平)

コロナ禍や故障を乗り越え、約2年ぶりの自己ベスト

けがは徐々に快方に向かい、両角監督に組んでもらった別メニューをこなしながら、2年生になる直前の2月頃には、元の走れる状態に戻った。ところが、そこから新型コロナウイルスの感染症が世界的に広がっていった。宇留田は帰省し、4月から約2カ月間を実家で過ごした。先の見えない日々や1人で練習しなければいけないことに「モチベーションを維持するのは難しかった。弱い自分が出てくることもあった」と明かすが、「やるしかない」と自分自身に言い聞かせ、与えられていたメニューを黙々とこなした。

夏合宿は順調に消化できていた。しかし、8割ほど終えた合宿の終盤に腰を痛めてしまう。またしても疲労骨折だった。この年も駅伝シーズンに出遅れ、先輩や同期だけでなく、台頭してきた後輩にも活躍の場を譲らざるを得なかった。

ただ、駅伝デビューこそならなかったが、秋から復調しつつあった宇留田は、少しずつ存在感を示していく。自身初の10000mとなった12月5日の日体大長距離競技会は、「復帰してからは練習ができていて、しかも初めての10000mだったので、楽しみな気持ちでレースを迎えられた」と語ったように、28分47秒57でいきなり28分台をマーク。「同じ組で走った1学年下の神薗(竜馬、2年、鹿児島実)に負けたのは悔しかった」と言いながらも、しっかり練習できれば結果がついてくることを実感できたのは大きかった。その3週間後にも宇留田は5000mの記録会で14分02秒07をマークし、約2年ぶりに自己記録を更新している。

捲土重来を期す大学ラストイヤー

自己ベストも出て、力は確かについている。上級生になる21年度は、「チーム目標が3大駅伝3位以内だったので、それに貢献できるようにならないといけない」と思って始まった。2度目の学年リーダーに選出されたが、宇留田に特別な思いはなかった。まずは自分の力をつけて結果を出す。考えていたのは、それだけだった。

4月に5000mで14分08秒17、10000mで28分52秒17と、いずれもセカンドベストをマークし、好スタートを切ったかに見えた。だが、実は10000mの数日前に捻挫をしており、「2、3日休んだら走れるようになったので、レースに出ましたが、それが悪化して走れなくなった」。そのけがが夏前まで長引き、夏合宿は「走れることは走れたけれど、思うような感覚で走れなかった」という。

自信を持って駅伝シーズンを迎えることはできず、9月と10月に出場した10000mの記録会は、いずれも31分台に終わった。そこから何とか復調し、全日本大学駅伝で初めてチームエントリー16人に名を連ねたものの、メンバーエントリーの13人には入れず。レース当日は本間の付き添いをしながら、苦戦を強いられるチームメートに期待を寄せることしかできない自分がもどかしかった。

「復活した東海大学を見せたい」という思いは宇留田にもある(写真提供・東海大学陸上競技部)

大学生になってからは、苦しい時期の方が長かった。それでも歯を食いしばり、時に誰かに支えてもらいながら3年間を過ごしてきた。館澤の同期で、黄金世代の副将だった西川雄一朗(現・住友電工)は、今でも良き相談相手だ。「仲良くしていただいていて、よくLINEをさせてもらったり、近くに治療に行った時はご飯に連れて行っていただいたりしています。いろいろと相談に乗ってもらっています」。話せば全てが解決するわけではないが、気が楽になったり、前向きになったりできるだけでもありがたい存在と言えるだろう。

22年度のチーム目標はまだ固まってはいないが、「選手の中では、復活した東海大学を見せたいというところで、箱根駅伝で3番以内を狙いたいという声が出ている」という。宇留田個人としても、「それに貢献できる走りをしたいですし、地元がコースになっている全日本もしっかり走りたいです」と、静かに闘志を燃やしている。

副将に決まった松崎、神薗とともに、チームの復活と自身の復活を期するシーズンが間もなく幕を開ける。

in Additionあわせて読みたい