陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

國學院大・藤木宏太 熱さを内に秘め走り続けた4年間、さらにその先を見すえて

上級生となってからは、特に走りでチームの先頭に立とうとずっと心がけてきた(撮影・加藤諒)

ここ数年で大学駅伝の「常連校」から「上位校」へと変貌を遂げようとしている國學院大學。その中心として走りでチームを引っ張ったのが、藤木宏太(4年、北海道栄)だ。4年間どのような思いで競技に取り組んだのか、卒業を機に話を聞かせてもらった。

史上最弱世代と呼ばれ「優勝してやろうぜ」

北海道・上富良野町出身の藤木は、中学で陸上部に入った。「長距離を走る人がいなかった」という理由から初めは短距離、徐々に中距離にも取り組み、北海道栄高校に入ったときに本格的に長距離をはじめた。15歳の時に、「自分は勉強では何か成し遂げるのは無理だから、一つのスポーツを極めてみよう」と思って本気で競技に向き合い始めた、と藤木。「選手生命が30歳ぐらいまでと考えたら、あと15年間、いけるところまでいってみようと思いました」。当時からかなり先を見すえて考えていたのだという。

高校時代は3年時に北海道地区インターハイ5000mで6位に入り、全国の舞台を踏んだが、全国大会では予選最下位で終わった。当然、そのまま実業団に行く力はない。実業団に行って競技を続けるためには、大学で力をつけなければいけない。当時、高校の監督が國學院大出身者だったという縁もあり、國學院大に進むことが決まった。

上京しての感想は「素晴らしい環境だ」ということ。設備、食事、路面の状況や気候、何もかもが今までの環境より素晴らしいと感じられた。同期には藤木を含め、入学時に5000m14分30秒を切っている選手が一人もおらず、「史上最弱世代だ」と言われることもあった。「そう言われてるのがわかったので、『自分たちの代が4年生になったら、優勝してやろうぜ』とその時から口にしていました。最初からけっこう本気でそう言ってました」

強かった先輩、遠かった背中

藤木は1年生の全日本大学駅伝から大学駅伝デビューを果たした。箱根駅伝でも1区を担当し、トップとは22秒差の区間10位。同期の中では頭ひとつ抜け出た存在となったが、「少ないチャンスをたまたまものにできていただけ」と本人は言う。「たしかに走れてはいましたが、先輩たちと比べると大したことなかったです」

同期の中で最も早く3大駅伝デビューしたが、「選考レースではずさなかっただけ」だと話す(撮影・藤井みさ)

当時からチームの中心となっていたのは、土方英和(現Honda)、浦野雄平(現富士通)、青木祐人(現トヨタ自動車)の3人。「3人に続く選手がいなかったので、僕がそういう存在になろうと思いました。『最強の中堅』を目標にしてました」と話す。

その言葉通り、2年時も順調にタイムを伸ばし、3大駅伝すべてに出場。出雲駅伝でも1区を担当し、國學院大學史上初の駅伝優勝メンバーになった。だが「自分は特に何もやってないです」と振り返る。「優勝はうれしかったけど何もできませんでした。先輩方だけが活躍して、自分は貢献できなかったです」

優勝はうれしいが、自分は何もできなかったという思いが大きかった(撮影・佐伯航平)

全日本大学駅伝でもエース区間の3区を担当したが、ここでは区間12位と苦戦。「ボコボコにやられた」と表現し、翌12月にあった甲佐10マイルレースで結果を出して箱根駅伝につなげようと心に決めた。「そこだけを目指して合宿で走り込んで、準備万端で行って、実業団選手がほとんどの中で全体9位、学生歴代2位(46分26秒)でした。10kmの入りが28分17秒で、そんなタイムで走ってたのかと驚きました」。このレースを藤木は「自分史上最高にはめられたレース」と表現する。

2度目の箱根駅伝1区では一時スパートをかけて抜け出すも、最後に創価大学の米満怜(現・コニカミノルタ)にかわされた。トップと5秒差の区間2位でつなぎ、大学史上最高順位となる総合3位に貢献した。だが、結局「先輩たちに一度も追いつけなかった」という思いが大きかった。「先輩方は学生トップレベルの選手だったので、そこに食らいつけないようじゃ外に出たって勝ち切れることはないなと。全然遠かったなって思います」と振り返る。

藤木は集団から抜け出し、後ろの様子を伺うために振り返る(代表撮影)

「自分がやらないと」きつくても先頭に

「歴史を変える挑戦」のスローガンのもと、真に國學院の歴史を変えた土方たちの代が卒業すると、藤木はチーム内外から「エース」として見られるようになった。青木、浦野、土方の3人分を、全部自分がやらなくてはいけない。常に結果を出さないといけない。練習では前で引っ張らないといけない。自分で自分を追い込んでいるようなところもあった。「きつかったですね」と振り返る。

当時、土方が3年時から主将を務めたように、同期の木付琳(大分東明)が3年生主将に任命されていた。しかしけがなどもあり、木付はなかなか結果を出せておらず、悩んでいる姿を間近で見ていた。「琳が悩んでいるのに、そこで自分が頼ってしまって、圧になってしまうのも嫌だったんです。それだったら個人で常に結果を出して、他の選手が続いてくれればいいなと思ってました」

3年生のときは「自分がやらなければ」という思いが大きくなっていた(撮影・藤井みさ)

4年生を差し置いて、3年生がチームの中心となるのであれば、しっかりと結果を出して行動・言葉に説得力を持たせなければいけない。藤木はそう考え、結果を出すことにこだわっていた。5000mの自己ベストは前年から一気に20秒以上縮まり、13分40秒台に。10000mでも28分24秒79をマークし、学生トップレベルの域に入った。しかし全日本では7区区間7位と苦しみ、チームは9位となりシード権を逃した。箱根駅伝では3年連続の1区で、トップとは32秒差の区間12位。チームは9位とシード権を確保したが、「3位以内」と掲げた目標には一度も絡めずに終わってしまった。

仲間を信頼、自分の走りに集中

最終学年が始まるにあたり、学年内のミーティングで「後悔しないようにしよう」と話し合った。2つ上の代の土方たちのようなインパクトを残したい。その思いから「箱根駅伝総合優勝」を目標に掲げて新チームがスタートした。木付を支える副将には島崎慎愛(よしのり、藤岡中央)が決まり、3月の学生ハーフマラソンで3位に入った。引き続き主将を務める木付もけがから回復し、安定して走れるようになってきた。

3年時に「自分が引っ張らなければ」と思っていた気負いは消え、「みんな、自分のことは自分でできる」と仲間を信頼できるようになった。「チーム運営はもちろん一緒に考えるんですけど、細かい部分は他の人に任せて、自分は個人の走りに集中して、結果でみんなに見せるようにしよう、先頭に立つようにしよう、と意識をシフトできました」

5月の関東インカレでは男子2部10000mに出場し、28分10秒30は自己ベストを大きく更新する國學院記録。だが、チームにとって前半シーズンの最大の目標は、6月の全日本大学駅伝関東地区予選を首位で通過することだった。

全4組のうち、1組目で中西大翔(たいが、3年、金沢龍谷)が組トップで大きくリードして貯金を作ったが、3組を走った木付は16着、藤木は最終4組で16着、島崎は22着と本来の力を発揮できなかった。3組終了時まで暫定1位だったが、最終組の結果で1分49秒57あった暫定7位の東京国際大との差を逆転され、2位での本戦出場が決まった。「あの時は4年が足を引っ張ってしまって、だいぶみんな沈んでました」。選手たちに出場を決めた喜びは見られなかった。

5月からの連戦で「練習の溜めができなかった」と藤木。トップ集団から徐々に後退した(撮影・藤井みさ)

「連戦が苦手」だと話す藤木は、5月からの連戦の影響で夏に故障してしまった。その時、藤木の中では「最後の箱根駅伝一本に合わせよう」という考えになり、「自分の体づくりにあてる時間が増えた」とポジティブに考えて取り組んでいた。出雲、全日本は後輩に譲り、経験を積ませたほうがいいと思う、と前田康弘監督にも考えを話したが、説得された。「チームとして勝ちに行くにはお前の力が必要だと言われ、急ピッチで準備しました。練習でもいっぱいいっぱいだったし、インターバルもついていけなくて、状態はよくありませんでした」

季節外れの30度超という暑さの中で開催された10月の出雲駅伝で、藤木はエース区間の3区を走って区間10位、チームは4位だった。2区で木付が区間賞を獲得、トップでもらった襷を7位まで落としてしまった。「たらればになりますが、自分が本来の調子だったら丹所くん(健、東京国際大3年、湘南工科大附)ともやりあえて、もしかしたら優勝もあり得たかなとも思うんです」と悔しさをにじませる。全日本でも「つないでくれ」と前田監督から言われ、4区区間7位。チームは過去最高の4位をマークしたが、藤木は本来の走りができないモヤモヤを抱えていた。

すべての経験を込めて走った最後の箱根

最後の箱根駅伝に向けても、足の状態はずっと厳しかった。復路の区間で耐える走りをすることも想定されていたが、島崎が直前にけがをして外れ、木付もけが明けで本調子ではなかった。藤木は結果的に、4年連続の1区を走ることになった。トラックレース、集団での経験、前年のスローからのスパート。あらゆる経験を生かして4回目の箱根路を駆けた。6km付近で中央大の吉居大和(2年、仙台育英)が飛び出した際も、冷静に判断してついていかなかった。

吉居の飛び出しにも冷静に考え、ついていかなかった(代表撮影)

順位より、前との秒差だけを意識して走った。第2集団の前方で走り続け、六郷橋の上りで青学の志貴勇斗(2年、山形南)が飛び出すと、藤木はわずかに遅れた。その時、バイクリポーターが「國學院藤木が離れました!」と言うのがはっきりと聞こえた。「それで、実況を一瞬でくつがえしてやろうと思いました」と、素早く前に追いついた。最後の箱根はトップとは46秒差、第2集団トップの駒澤大・唐澤拓海(2年、花咲徳栄)とは7秒差の区間6位。自分に与えられた役割をじゅうぶん果たす走りだった。

チームは結果的に総合8位でフィニッシュ。島崎が走れず、5区の殿地琢朗(4年、増田清風)も本調子でなかった。木付もけが明けで7区区間20位と苦しんだ。藤木は大手町のゴールで、木付とともにアンカーの相澤龍明(4年、藤沢翔陵)を迎えた。ゴールで待ち合わせて顔を合わせた木付は「ほんとにやっちまったよ」と落ち込んでいた。藤木は明るく「何やってんだよバカやろう。うちのチームやべえじゃん!」と笑いとばした。「かなりパンチの効いた言い方だったなとは思うけど、自分がそこで『マズいね』と言っても結果は変わらないので」。藤木なりの木付への気遣いだった。

「主将が万全でなくて、副将がいなくて……ってなると、飛車角落ちというか。全員が100%で準備できてなかったので、仕方ないと思います。それでも8位を取れたのはチームの地力が上がってきてるし、中堅どころも強くなってきたなって感じがします」。だがチームは強くなったが、結果に表せなかった、とも思う。

木付とともに相澤(中央)を出迎えた藤木の顔には、終始笑みが浮かんでいるように見えた(撮影・藤井みさ)

「それは、箱根に向けて準備が本当にできたか、できなかったかだと思います。本当に全員が100%を出し切って走れてたら、優勝もあり得たんじゃないかなと思います」。だからこそ後輩たちには「結果」を出してほしい。「タイムを出したりすると、やっぱり注目も集まるので。それがモチベーションにもなると思います。結果を出してくれればOBとしても見てて面白いと思うし……全員が活躍するのを期待してます」

勝ち切る強さを身につけたい

改めて、藤木にとって國學院の4年間とは。「心身ともに、成長した4年間だったと思います。記録については周りも伸びているので、特に気にしていませんでした。勝負強さをずっと求めてやってきたけど、勝ち切ったことはなかったなと思います」。卒業後は、実業団の強豪・旭化成に進む。タイムはもちろんだが、自分にまだ足りない「勝ち切る強さ」を身につけていきたいと考えている。まずはニューイヤー駅伝優勝のレギュラーメンバーに入ること。そしてさらに大きな目標は、マラソンで世界大会に出場することだ。

日本トップクラスの選手が複数在籍する環境で、もまれながら成長していきたい。それが15歳の時に描いた自分の将来像に近づくことになる。たしかに大きく成長した4年間を糧に、藤木はさらなる高みを目指していく。

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