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特集:あの夏があったから2022~甲子園の記憶

近畿大学・米崎薫暉 「恥ずかしいぐらい泣いた」明徳義塾・馬淵史郎監督の言葉

近畿大では智弁学園の同期と競争し、智弁学園の先輩から教えを受ける(撮影・沢井史)

第104回全国高校野球選手権大会が、阪神甲子園球場で開かれています。4years.では昨年2年ぶりに開催された舞台に立ち、大学野球の道に進んだ1年生の選手たちに、高校時代のことや今の野球生活につながっていることを聞きました。第6回は明徳義塾(高知)時代、1年生の夏に大観衆が詰めかけた甲子園も経験している近畿大学の米崎薫暉(くんが)です。

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忘れられない高1のときの熱気

8強まで登りつめた4試合は、これまでの経験や思いが凝縮された試合ばかりだったという。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2年生の時の甲子園は春夏ともに中止。昨夏の甲子園も無観客での開催となった。だが米崎は、1年夏の甲子園で背番号18をつけベンチ入りし、大観衆が詰めかけた甲子園をグラウンドで体感している。特に印象深かったのは2回戦の智弁和歌山戦。自分を包み込むような感覚は「一生の宝」だ。

「あの試合は、観客席が見えないくらい外野の一番上まで人が入っていて……。智弁和歌山の応援の『ジョックロック』を生で聴いて、これが甲子園なんやって感じました。あの試合は細川さん(凌平、現・北海道日本ハムファイターズ)や根来さん(塁、現・國學院大學)東妻さん(純平、現・横浜DeNAベイスターズ)に3ホームランを打たれて負けたんですけれど、今でもあの熱気は忘れられないです」

2年ぶりに開催された昨夏の甲子園で見た景色は当時とは違っていたが、甲子園の土を踏めたことには、心から感謝している。

米崎が1年のときイレギュラーバウンドを捕球できなかった姿をタオルにあしらった(米崎圭子さんが朝日新聞社に提供)

「一つ上の先輩は甲子園がなくて、泣いている方もたくさんおられて、目標を見失いそうな先輩もたくさんいました。それでも僕たちの秋の大会の時に、練習を手伝ってくれた先輩もいました。『甲子園、いいなぁ』とも言われて。そういう先輩のためにも、甲子園には絶対に行かないといけないと思っていたんです」

重視した「今までと同じことをしない」

ただ主将となった新チームは、下級生の頃からレギュラーだった自身の経験を生かすだけでは、チームの躍進につながらないと思っていた。昨春の選抜高校野球大会で初戦敗退後、重視したのは「今までと同じことをしない」ことだった。

「チーム内のミーティングを週に2度は自主的にやって、コミュニケーションを深めることを一番大事にしました。夏に賭ける思いは強かったです。だから夏の甲子園での4試合は……正直、楽しむ余裕はなかったですね(苦笑)」

準々決勝で優勝候補と呼ばれていた智弁学園(奈良)と対戦した。先発はエースの代木大和(現・読売ジャイアンツ)ではなく、2年生の変則左腕・吉村優聖歩(ゆうせふ)だった。「代木は前日の3回戦の松商学園(長野)戦で完封していたのですが、翌日のピッチングですごく調子が悪かったので、吉村が先発することになったんです」

「今までと同じことをしない」ことを心がけ、チームを引っ張った(撮影・朝日新聞社)

上体を大きくねじらせ、いわゆるトルネード投法から繰り出すボールは、強力打線の智弁学園でもとらえにくい。米崎も吉村を送り出すことに関して不安はなかった。

「高知大会の高知商戦で代木が先発して、三回までに7点取られた試合があったのですが、その後に吉村が投げてピシャッと抑えて、そこから逆転できたんです。吉村は自信を持てたようで、智弁学園戦の試合前に、僕らが『思い切っていけ。最後はお前に託すから』と言ったら『分かりました』って答えてくれたんです」

エースに感謝の言葉をかけられ、涙

吉村は三回まで智弁学園を完璧に封じた。明徳義塾が先制した直後、相手4番の山下陽輔(現・法政大)に適時打を許して同点に追いつかれたが、以降は快音を響かせなかった。

「後半勝負に持ち込めば勝機はあると馬淵(史郎)監督も言っていたのですが、その通りの展開になっていたので、いけると思いました。九回に代木がホームランを打って勝ち越して、確信めいたものはありました。ただ裏の智弁学園の攻撃で、山下(陽輔)君には何としても回したくないと思っていました」

明徳義塾のデータでは、プロ注目選手だった前川右京(現・阪神タイガース)よりも、4番の山下が最も良いバッターだという認識があり、チーム内で共有していた。打順は1番から。三者凡退が理想だったが、相手のバスター攻撃もあり、無死満塁。ここで山下を迎えることになった。死球で追いつかれ、続く5番・岡島光星(現・近畿大)の右前安打で幕切れとなった。

3年の夏は主将として甲子園に臨み、8強まで進んだ(撮影・朝日新聞社)

「詰まった当たりでしたが、打った瞬間に打球が落ちると思ったので、『終わった』と思いました。後で聞いたのですが、岡島は最後の最後までタイミングが合わず、苦労したそうです。『金属バットじゃなかったら、バットが折れていた』と。それくらい、吉村の球は、当てるのも大変だったみたいです」

試合後、スタンドへのあいさつを終えてベンチへ歩いていると、エースの代木に感謝の言葉を掛けられた。すると自然と熱いものがこみ上げてきた。「人生であまり泣いたことがなかったんです。でも、自然と涙が出てきて……。野球人生で泣いたのも、あの時が初めてでした」。優勝候補を最後まで追い詰めた。だが、追い越せなかった。

宿舎で開いた最後のミーティングでは、馬淵監督からの言葉が忘れられない。

「ミーティングの最後に、馬淵監督から『この学年はメンバーとメンバー外の温度差がなくて、本当に良い学年やった。もっと試合がしたかった』と言ってくださって。めったに褒(ほ)めてくださらない監督に、そう言っていただいたんです。自分は最前列で話を聞いていたんですけれど、恥ずかしいくらい泣いてしまいました」

高校時代はあいさつに立つ場も多かった(撮影・朝日新聞社)

岡島としのぎを削り、智弁学園出身の先輩から吸収

試合を決めた岡島とは今、チームメートだ。同じポジションでしのぎを削る日々だが、米崎はこの春の関西学生野球リーグ戦で、1年生ながら三塁手として先発出場を果たした。

「大学では1年生から試合に出ることが目標でした。ショートには坂下(翔馬、3年、智弁学園)さんがおられて、いろんなことを近くで学ばせてもらっています。自分は身長が高い方ではないですが、坂下さんも小柄で、守備がすごくうまい。自分にないものもたくさん持っておられて、吸収できることはしていきたいです」

坂下は守備でエラーをした際、「俺は1年のときにもっとエラーしたから気にするな」。1、2打席目で打てなくて落ち込みそうになったときは「打とうって思いすぎんでええねん」と声をかけてくれる。「本当に良い先輩に恵まれたと思います」

試合に出続けることは最低限の条件だ。そのうえで「ベストナインや首位打者を獲(と)れるような選手になりたいです」と語気を強める。

さらに先には、父の姿を見据える。近鉄などで遊撃手として活躍した父・薫臣さんを幼い頃から見つめてきた。「いずれは超えられるような選手になりたいです。社会人野球でプレーする憧れもありますが、いずれはプロへ行きたいです」

夢に向かうための1日、1日を大切にしながら、今も着実に歩みを進めている。

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