明治大・吉田匠吾 寝耳に水だった浦和学院前監督の退任、「あんなに愛情を持って…」
第104回全国高校野球選手権大会が、阪神甲子園球場で開かれています。4years.では昨年2年ぶりに開催された舞台に立ち、大学野球の道に進んだ1年生の選手たちに、高校時代のこと、入場制限や度重なる順延に悩まされたあの夏のこと、今の野球生活につながっていることを聞きました。第5回は、浦和学院(埼玉)の名将・森士(おさむ)前監督の最後の夏を戦った、明治大学の吉田匠吾です。
レベルが高い関東の学校で勝負したかった
子どもの頃から脳裏に刻まれていた名物のスコアボード。そこに自分の名前がある喜びを感じながら打席に向かい、1番打者の吉田はまっさらな打席に入った。「いつも必ず(軸足である)右足の内側からスパイクを入れるんですが、サクッとした甲子園の土の感触が心地良かったです」
最後の夏でようやくつかんだ甲子園への切符。吉田はこう思った。「いつまでもここにいたいな。この素晴らしい場所にずっといたい――」
小学生時代から、野球のエリート街道を歩んできた。小学5年の時は「高円宮賜杯(しはい)全日本学童軟式野球大会」でベスト8。6年時は東北楽天ジュニアに選抜され、NPB12球団トーナメントに主将として出場した。硬式のいわきボーイズに在籍した中学時代も、投手兼遊撃手で全国の舞台を踏んだ。
俊足で肩が強く、大柄ではないが長打も打てる。吉田は数々の強豪校から声をかけられたが、関東の学校で勝負したい、という気持ちがあった。きっかけは2012年夏の甲子園2回戦である。
「福島の野球少年の憧れは地元の名門・聖光学院です。僕の中でも強いチームの象徴でした。ところが、甲子園では聖光学院に(18安打11得点で)圧勝するチームがいた。それが浦和学院だったのです。関東の学校はレベルが高いな、と」
吉田の目には、浦和学院のタテジマのユニホームもカッコ良く映ったという。
憧れを抱いた6年後、浦和学院の森大(だい)監督(当時はコーチ)が勧誘のために、吉田のもとを訪れる。「森監督には『目つきがいい』と言ってもらいました」。福島から埼玉の学校に行く不安もあったが、知らない土地で野球に打ち込む決意を固めた。
コロナ禍で知った本当のつらさ
浦和学院に入ると、厳しい毎日の連続だった。「厳しいとは聞いていましたが、想像以上でしたね。その日を乗り越えるだけで精いっぱいでした」。練習では常にピリピリとした雰囲気があり、ノックでエラーすると、すかさず選手間からも叱責(しっせき)の声が飛んだ。寮生活も含めて、一瞬たりとも気を抜けなかった。
「心に隙があると、森先生(現総監督の森士・前監督は選手から「先生」と呼ばれている)にすぐに見抜かれました。森先生からは常々、そういうのが一発勝負のトーナメントに出る、と言われてました。高校野球は約2時間の試合の中に、それまでやってきた練習はもちろん、私生活での行いもすべて凝縮されている。これが森先生の考えなんです」
全国から逸材が集う中でのチーム内競争も激しかった。それでも吉田は1年夏からベンチ入りを勝ち取る。同秋にはショートのレギュラーとなり、関東大会にも出場した。
一気に環境が変わってしまったのが、2年生になったばかりの春だ。日本中がコロナ禍に見舞われ、春の選抜大会に続き、夏の甲子園中止も決まった。学校は感染対策のため休校になり、野球部の寮も一時解散に。吉田は福島の実家に帰った。
「しんどかったですね。約ひと月の間、外にもあまり出られなかったので……」。確かに、浦学の練習はきつい。でも、本当につらいのはこういうことなんだ。この時、そう思っていたという。
一方で、支えになった経験もあった。吉田は小学1年のとき、東日本大震災で被災した。「幼いながらに、断水するなど不自由な生活が続いた記憶はあります。それとコロナは比べられるものではありませんが」
「貢献できるなら何でもやろう」と投手も兼任
2年秋の大会後には、投手を兼務するようになった。県大会の3回戦で敗れ、翌春の選抜大会出場が絶望的となり、残された甲子園出場のチャンスはあと1回となっていた。「甲子園に行けなかったら、何のために浦学に来たのか……と思ってしまう。勝つためなら、チームに貢献できるなら、何でもやろうと」
最速142キロのストレートに加え、中学時代からカーブとスライダーも投げていたが、これだけでは埼玉を勝ち抜けない。吉田はカットボールとチェンジアップを習得した。
目指したのは、野手の気持ちがわかる投手。「リズム良く、テンポ良く投げて、そのリズムを攻撃につなげたい、と考えていました」
春の県大会で優勝を飾り、「第1シード」で迎えた最後の夏。吉田が公式戦で初めて先発登板したのは3回戦の越谷南戦だった。「1番ピッチャー」で先発すると、3回を無失点に抑え、6奪三振と好投。マウンドを降りると定位置のショートへ。投げて、打って、守ってと「一人三役」をこなした。
圧巻は立教新座との準々決勝だ。浦和学院はここまでの4試合、全てコールド勝ちだったが、この試合は競った展開となり、2-0の辛勝。それだけに先発・吉田の5回3分の1を無失点、11奪三振が光った。「打撃の方が(決勝まで2安打と)不調だったんです。その分、なんとか投げる方で貢献できていたので、気持ちが保てていたところはあります」
決勝では3ランを含む3安打。1番で起用し続けてくれた森前監督の期待に応えた。3年ぶり14回目の夏の甲子園出場を決めると、驚きの一幕が待っていた。森前監督が優勝インタビューで、この夏限りでの退任を発表したのだ。
「本当に寝耳に水の話だったので、みんな、えっという感じでしたね」
ただ退任が決まっても、森監督は甲子園で変わらぬ姿を見せた。「まったくですね。厳しい監督のままでした。普通に怒られましたし(笑)、高校野球を引退するまでは、あくまでも先生と生徒の関係で、世間話的なことをした記憶もありません」
高校野球引退後は後輩たちのサポート役に
日大山形と対戦した甲子園での初戦。吉田は先発を任された。「前日の夜に森部長(現監督)から『先発あるよ』と聞いていたので、気持ちの準備はできていました」。体調も万全で、当日の調子も良かった。しかし2回2失点と、埼玉大会では無失点だった投球を見せられなかった。「実力が足りなかったんだと思います」
打撃では二回、ライト前にヒットを飛ばした。「個人的には1本打てたのが救いですが、初戦負けは無念でした。森先生を日本一の監督にしたいと思っていたので……」。結果的に「いつまでもいたかった」場所とは、早く別れが来てしまった。
吉田はしんみりとした表情でさらにこう言った。
「福島から埼玉の浦和学院に入って、そこで森先生に指導してもらって、本当に良かったです。あんなにも愛情を持って接してくれる監督さんは、他にいないと思っているので」
吉田は高校野球を引退後も毎日、主将だった吉田瑞樹(現・早稲田大)とともに、後輩と一緒にグラウンドで汗を流した。森前監督から「君たちの高校野球はまだ終わっていない。後輩たちを勝たせるのが(大学で野球を続ける)2人の使命」と伝えられていたからだ。
後輩のために打撃投手を務めたり、時に遠征に同行して、ミーティングで話もした。それだけに浦和学院が翌春の選抜大会出場を決めた時は、「自分がまた甲子園に行ける、と思うほど嬉(うれ)しかったです」
「ヒーローになりたい」思いを力に
明大では選手層が厚いチームにあって、1年春から5試合に出場。東京六大学リーグの優勝も味わい、歓喜の優勝パレードも経験した。
「僕自身は(3打数無安打と)まるで貢献できなかったのですが、パレードに加わることができ、優勝はいいものだとつくづく思いました。自分たちの代でもリーグ優勝と大学日本一を目指します」
最後に、甲子園で戦っている高校球児にエールをもらった。
「僕は活躍できませんでしたが、本音の部分では全国の舞台でヒーローになりたかったです。いま甲子園で戦っている選手も、そういう思いを、力を発揮するためのエネルギーにしてください」