野球

慶應義塾大・山本晃大 浦和学院から浪人を経た長距離打者の能力が、ついに開花

慶應義塾大学の山本晃大は、強豪校から浪人生活を経て入学した(高校時代の写真以外はすべて撮影・井上翔太)

慶應義塾大学の山本晃大(4年、浦和学院)は、東京六大学野球春季リーグの初戦だった4月10日の東京大学戦の後、早稲田大学の蛭間拓哉(4年、浦和学院)について、こう印象を語った。「かわいい後輩だなと思います。高校のときは、一緒に右中間を組んでいて、仲のいい関係です」。そう。山本は高校を卒業後、浪人生活を経て、進学した選手だ。強豪校から、スポーツ推薦のない慶大を志した経緯や、今の思いを聞いた。

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「地元をかっこよく背負える」と浦学へ

山本は埼玉で育った。六つ年上の兄が野球をしていており、3歳ぐらいの頃から「兄の背中を追ってきました」。いつしか「兄を超えたい」と思うようになり、小学6年で東京ヤクルトスワローズジュニアに選ばれた。初めてプロ野球のユニホームに袖を通したことで、将来の夢は「プロ野球選手」に決まった。「高校を卒業したら、プロに行くと思ってました」

中学では、大宮リトルシニアに所属。高校進学を決める際は、勉強もそこそこできたために東京都内の別の高校も考えたが、「地元をかっこよく背負って戦える」と浦学を志望した。「高校生活は『野球にかけたい』という思いが強かったんです。そのためには注目される環境、甲子園にいけることが大切だと思いました」

練習のときから、力強いスイングでバットを白球にぶつける

ただ、野球部での厳しさは、想像以上だった。入学当初は家から近かったため、通っていたが、春の埼玉県大会からベンチ入りすることになり、約2週間後に寮生活が始まった。「寮は初めてだし、携帯電話もなかった。食堂の裏にトイレがあるんですけど、1年生の頃は、そこで毎晩泣いてましたね」

埼玉大会決勝の場にいた、誰もが行けないところへ

幼少期は、テレビであれだけ浦学が甲子園で躍動する姿を見ていたのに、山本が入学した後は、その存在が遠いものになっていた。夏は3年間とも、花咲徳栄が優勝。3年の夏は、埼玉大会の決勝で戦い、浦学は敗れた。当時の徳栄はその後、第99回全国高校野球選手権大会を制している。

最後の夏を終えた山本は、自身の進路や将来を考えたとき、こう考えた。「野球にかけてきたことは、すごく素晴らしいと思える。一方で、もし自分から野球を取ったら、何も残らないんじゃないか」。野球で進路を切り開いたのに、けがをして苦しんでいる先輩の姿を見た影響もあった。

そのとき、兄が通っていた慶大が選択肢に挙がった。「埼玉大会の決勝にいた人たちは、プロに進む選手がいるだろうし、大学野球の強豪に進む人もいっぱいいるだろう。なら、その場にいた誰もが行けないところに進んでやろうと」

埼玉・浦和学院時代は野球に明け暮れたが、甲子園に手が届かなかった(撮影・朝日新聞社)

練習の合間や帰宅後に資料作り

兄からは「慶應の野球部は、すごくいい部活だって聞くよ」と告げられた。時間ができたときに、下田グラウンドのバックネット裏から練習をこっそりと見学した。「今までとは、全然違う野球でした。1年生から4年生まで、距離が近くて、本当に家族みたい。こういう環境もあるんだなって」。AO入試で慶大をめざすことに決めた。

浦学の野球部には「引退」がない。最後の夏を終えた3年生も、新チームの後輩たちと一緒に練習する。山本は授業があるとき、午後2時ぐらいから夜まで野球をして、合間を見つけながら慶大の志望理由をまとめた。AO入試に向けた書類作りは、帰宅後も続けた。

書類は志望理由のほか、大学でどんな研究がしたいか、そのために今はどんな活動をしているかなどが求められる。山本は、野球の実績や野球を通じて感じていた問題意識を書いたが、現役での合格とはならなかった。

自分の順番を待つ間も、気づいたポイントを助言される

フィールドワークで、ジュニア時代の監督のもとへ

浪人中は予備校に通い、小論文と英語を学んだ。慶大SFC(湘南藤沢キャンパス)に絞った選択だった。午前8時から午後1時ぐらいまでは机に向かい、その後はAO入試の準備のため、ときにフィールドワークに動いた。

当時は、大学スポーツ協会(UNIVAS)が発足に向けて準備している段階だった。山本はこの会議を聴講したり、ヤクルトジュニア時代の監督が運営している野球塾を訪ねたりして、スポーツ選手のキャリアを取り巻く現状と、自身がめざす姿を擦り合わせた。野球の練習は、夜に1時間ほどできればいい方。現役生時代とは、ガラリと生活が変わった。

2度目の挑戦では、自分にしか語れないことを意識して臨んだ。「僕が賢そうなことを言っても、響かないですよね」。フィールドワークを通じて、物事を多面的に見ることの大切さを知り、見事に合格した。

入部直後に感じた「ブランク」

慶大野球部には、合格直後の2月から参加した。1年間、勉強中心の生活を過ごしたことで、体力面、技術面ともにブランクがあった。

「初日の練習で、シャトルランみたいなランニングメニューがあったんです。高校のときもよく走っていたので、大丈夫かなと思ってました。他のみんなは平気な顔して走っているのに、僕はしんどくて、吐いてしまいました」

春季リーグの初戦で、リーグ戦初となる本塁打を放った

1年の春からベンチに入ったが、本人にとっては、感覚のずれがあったという。「打席の中で、自分としては『とらえた』と思っても、全部ファウルになっていました。送球も、自分の投げた球が、今までの伸び方とは違っていました」。ただ「それも、自分が選んだ道なので、言い訳にしちゃいけないっていうのは、ずっと自分に言い聞かせてました」。

求められるスタイルが変わり、「苦しかった」

1年春は早慶戦に代打で出場し、秋は優勝した明治神宮大会でベンチ入り。「この調子で」と思っていたとき、苦しい時期がやってきた。

チームは大久保秀昭監督(現・ENEOS監督)から堀井哲也監督に代わるタイミングで、山本も求められる打撃スタイルが変わった。「もともと僕は、あんまり長距離を打つタイプではなかったんですけど、堀井監督は長距離、ロングヒットを求めていました」。そのために必要なスイングの強さや軌道について、2年生になった直後から教わるようになった。

打席で構える両足の幅、テークバックの方法、バットを構える位置を一新した。ゼロから作り上げた新しいフォームは、山本に迷いを生じさせた。「2、3年生の時は、本当にちょっと打ち方がわからなくなりました。苦しかったですね」。最終学年を迎えるまで、東京六大学リーグ戦で安打を放ったことはなかった。

監督の指導が「やっと形になった」

こうして迎えた今季初戦の東大戦だった。山本は「5番・ライト」で先発出場し、無死満塁で入った第1打席で、レフトに走者一掃の二塁打を放った。この一打でリーグ戦初安打、初打点をマークすると、六回はライトスタンドにソロ本塁打を運んだ。

堀井監督は試合後、「オープン戦のときから、クリーンアップに座るべくしてきた。うちの左(打者)の中では、ロングが打てることを評価しています」と褒め、山本は「監督が就任してから、指導していただいたことが、やっと形になった」と安心した様子で振り返った。

5月2日の法政大学戦では、球速150キロ台を頻発する篠木健太郎(2年、木更津総合)からアーチをかけた。山本の中に眠っていた潜在能力が、ここにきて開花している。

堀井監督がつきっきりで見てきた才能が、ついに開花した

「中学、高校生の一つのモデルケースに」

1年間の浪人を経験した山本だが、高校時代にめざした「プロ野球選手になりたい」という目標は消えていない。「大学で苦しかった時期も、プロに行きたいと思って、ちょっとずつ練習を積み重ねてきました。今も同じです」。本人の中では、打撃の正確性が「まだまだ」。相手の速球をファウルにせず、一発で仕留めるため、日々練習に励んでいる。

もう一つ、山本ならではの思いがある。

「自分が今後、活躍することによって、高校生の選択肢の幅が広がると思うんです。野球にかけて高校3年間を過ごすことは、きっと色んなリスクがある。中学生の段階では、それがわからない。そういう中学生や高校生とっての一つのモデルケースに、自分がなれたらいいなと思っています。だから、浪人して野球が遅れたということも、言い訳にしたくないですし、活躍した姿を届ける必要があるかなと思っています」

最近、山本がうれしかったのは、「浦学から慶應に行きたい」と練習を見にきてくれる選手が増えていることだ。自身が高校3年で慶大をめざすと決めたとき、周囲からは「やめとけ」とたくさん言われた。「その反応は正しいですし、僕もそう思う。わがままを押し通しましたから」。ただ新しい道を開いたことで、周りの視線も変わってきたと感じている。

4年後にプロ野球の世界をめざす者や、伝統あるユニホームに憧れて門をたたく者ーー。様々なバックグラウンドを持つ選手が集まってくるのが、大学野球の魅力の一つだ。そして、それぞれの選手が様々な思いを背負っていることに、改めて気付かされるインタビューだった。

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