慶應義塾・廣瀬隆太 高校2年春の初先発初本塁打が野球人生の分岐点
2021年春、東京六大学で慶應義塾大学の3季ぶり38度目のリーグ優勝に貢献した廣瀬隆太(2年、慶應義塾)は、昨秋に続き3割を超える打率を残した。34年ぶり4度目の栄冠となった全日本大学選手権でも活躍した。高校2年の春夏と連続で甲子園に出場したが、大型スラッガーへの分岐点はその間にあった春の神奈川県大会だったという。
ホームラン打者になれば試合に出られる
「あのホームランがターニングポイントになりました」
高校2年春の県大会。廣瀬は初戦(3回戦)の相模原戦で初めて、公式戦のスタメンに抜擢(ばってき)される。いきなり4番(一塁)に座ると、2打席目、2015年から監督を務めている森林貴彦監督の期待に応え、3ランを放った。
「ターニングポイント」と言うのには訳がある。慶大では1年秋からレギュラーを張っている廣瀬だが、決して早熟な選手ではない。実は中学時代からこの試合まで控えに甘んじていた。慶應普通部では東京・世田谷の中学硬式の強豪チームに所属し、全国大会も経験したが、「3年生になっても出たり出なかったり。不動のレギュラーではありませんでした」。中学通算本塁打も練習試合を含めて3、4本だったという。
高校でも1年秋の県大会ではメンバー入りしたものの、関東大会ではベンチ外。それでも冬場の練習の成果が認められ、18年春の第90回選抜大会では背番号「15」で甲子園の土を踏む。初戦の彦根東(滋賀)戦で代打出場したが三振に終わった。この試合の最後の打者になったが、力強いスイングが森林監督の目に留まったのも、春の大会での起用につながった。
廣瀬は初スタメンでの活躍を機に、スラッガーとして成長していく。もしここで結果を出していなかったら、野球人生は違ったものになっていたかもしれない。
思えば、先発デビュー戦に強い選手である。大学でも初スタメンとなった1年秋の東京大1回戦、最初の打席で2ランを放っている。次戦の東大2回戦でも2ランを飛ばした廣瀬は「運がいいだけです」と笑うが、もちろん運だけでホームランは打てない。
高校2年に話を戻すと、初先発で森林監督の信頼を得て、以後は4番に定着する。むろん努力も続けた。
「当時の慶應高には、生井惇己(じゅんき)さんと渡部淳一さん(ともに慶大3年)の両左腕がいて、投手力は高かったのですが、打線は強くなかった。ホームラン打者もいなかったので、自分がそういう存在になれば、試合に出られると考えたんです。とにかく長打力を磨こうと、自主練習では重たいバットを振り込みました」
レギュラーになってから、高校時代は全打席、ホームランしか狙っていなかったという。高校通算は41本塁打。「ヒットの延長はありません。ホームランにできなかったのがヒットでした。いま思えばちょっと“自己中”でしたね(笑)」
甲子園の土は持ち帰らず
4番として臨んだ2年夏の北神奈川大会。準々決勝では桐蔭学園、準決勝では東海大相模と、神奈川のライバル校を破ると、決勝では春に苦杯をなめた桐光学園を下した。慶應普通部として第2回大会(1916年)を制した伝統校が100回の節目の全国選手権に10年ぶり18回目の出場を決めた。決勝で横浜スタジアムの左翼席に打ち込んだ廣瀬は北神奈川大会通算で22打数9安打7打点2本塁打と気を吐き、打線をけん引した。
「記念大会(第100回全国高校野球選手権記念大会)で神奈川からは北と南で2校出場できたのもあり、本当に必死でやりました。2季連続出場が決まった時は、春の選抜の時とは全く気持ちが違いましたね。春はただただ子供の頃から憧れていた甲子園に行けたのがうれしく、代打で出た時も、この風景を目に焼き付けよう、という思いでした。夏は主将の下山悠介さん(慶大3年)ら3年生に引っ張ってもらいましたが、チームの戦力として甲子園に行けた自負はあります」
甲子園では勝って塾歌を聞いた1回戦(対中越=新潟)ではノーヒットに終わったが、敗れた高知商との2回戦では甲子園初安打、初打点をマークした。甲子園の土は持ち帰らなかった。「2年生でしたからね。まだ2回来るチャンスがあるので」
慶應の野球部は、毎年3学年合わせると100人以上になる大所帯にもかかわらず、部員間のコミュニケーションがよく取れていたという。慶應幼稚舎の教諭である森林監督が、平日は練習に来られない時が多いため、メニューも部員で決めていた。「グラウンドでも他の選手が何を考えているかよくわかったので、プレーしやすかったです」
3季連続の甲子園がかかる2年秋も順調に勝ち進む。ポジションがセカンドに変更になった廣瀬は、4番にふさわしい打撃でチームを引っ張った。しかし関東大会を目の前にした県準決勝で、横浜にサヨナラ負けを喫する。横浜の投手は県下ナンバー1左腕で、“超高校級”の呼び声が高かった2年生の及川(およかわ)雅貴(阪神)だった。
「同学年で一番意識していたのが及川でした。絶対に打ちたかったんですが、結果はポテンヒット1本だけ。抑え込まれましたね」
高校でも2学年先輩の正木が今も手本に
最後の夏は、春の県大会で3回戦敗退だったため、ノーシードで挑んだ。準決勝まで進出した今夏と同様である。廣瀬はチームの得点効率を高めるため、春から打順が2番になっていた。4回戦で厚い壁が立ちはだかる。東海大相模である。圧倒的な打線の破壊力の前に、2年連続「夏の甲子園」出場の目標は果たせず、廣瀬の高校野球生活は終わった。
「高校野球は本当に楽しかったです。神奈川は高校野球熱が高いのもあり、県大会からたくさんのお客さんの前でプレーができますし。甲子園に出れば、学校の中ではスターなので(笑)」
高校では全打席ホームランを狙っていた廣瀬だが、「投手のレベルも高いので、大学ではさすがに(笑)」。2年になってからはそれまでの引っ張り中心の打撃をあらため、コースに逆らわずセンターに打ち返すことを心がけているという。
廣瀬は一塁手で初のベストナインに選出された昨秋に続き、背番号が「3」になった今春も“攻撃型一番打者”として3割超の打率をマークした。第70回全日本大学野球選手権記念大会でも、上武大学との準決勝では2安打2打点、福井工業大学と対戦した決勝では2安打1打点。「春の大学日本一」の担い手となった。
打撃で手本にしているのは、慶應高でも2学年先輩だった正木智也(4年)が実践している、バットを内から出す「インサイドアウト」だ。「正木さんは高校時代から尊敬しているバッターです。よく一緒に打撃練習をやらせてもらっています」。
慶大には正木をはじめ、慶應高の先輩がたくさんいる。廣瀬は「僕が1年の時から神宮でプレーできているのは、そういう、やりやすい環境だからだと思います」という。
スタンドが超満員の早慶戦でプレーしたい
高校では“自己中”だったという内面も変化した。「1年の時から試合に出させてもらっているのは僕だけ。ふだんの練習の時からチームにプラスの影響を与えられるよう、心がけています」
高校野球は今年もコロナ禍に見舞われている。今夏の甲子園は入場制限して実施されている。廣瀬は「高校野球の魅力の1つは、たくさんのお客さんの前でプレーできることなんですが……」と顔を曇らせると「僕は甲子園で計3試合経験しましたが、いずれも超満員でしたから。今思えば恵まれてました」と続けた。
もちろん、コロナの影響を受けているのは高校野球だけではない。廣瀬が大学入学以来、東京六大学野球も無観客、あるいは上限が設けられて行われている。コロナ前はいつも観衆で埋め尽くされていた伝統の早慶戦も、入場制限で空席が目立つのが現状だ。
廣瀬は慶應幼稚舎に通っている時から、学校のチームで「KEIO」のユニフォームに袖を通し、早慶戦ともなれば、神宮で声援を送っていた。「スタンドが満員の早慶戦で戦うのが小学時代からの目標でした」。早慶戦には1年春より出場しているが、まだ満員のスタンドは見ていない。
それでもきっと元の形に戻ると信じて廣瀬は前を向く。迎える秋は、リーグ戦連覇と、春秋連続日本一がかかる。
「春は大学王者になりましたが、秋も勝てるとは限りません。他校のマークも厳しくなるでしょうから、一度山頂(頂点)からふもとまで下りて、謙虚な気持ちで臨みたいと思います」
目指すは三冠王だ。