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特集:あの夏があったから2021~甲子園の記憶

東海大相模・鵜沼魁斗「史上最強のリードオフマン」が果たせなかった日本一

高校2年の春、県大会相模原戦で先制ホームランを放つ鵜沼(撮影・朝日新聞社)

東海大学1年目で首都大学野球春季リーグデビューを果たした鵜沼魁斗(うぬま・かいと、東海大相模)は、思い切りの良い積極的なバッティングが持ち味だ。高校では2年の春以降、強豪ひしめく神奈川県で負け知らず。目標にしていた甲子園出場も果たした。コロナ禍でのセンバツ中止や指名のかからなかったドラフトなど、悔しい思いも何度も経験したが、それらのすべてを糧としながら、自分の理想を追い続けている。

高校時代に固まった積極的な打撃スタイル

鵜沼が千葉西リトルシニアに在籍していた生浜中2年の秋、のちに高校でチームメイトとなる山村崇嘉(現・埼玉西武)がいた武蔵府中リトルシニアと試合があった。その視察に来ていた東海大相模・門馬敬治監督の前で、鵜沼は山村から本塁打をマーク。「それが監督の目に留まったのでは」と鵜沼は思っている。翌年5月の面談を経て、「最初は選択肢になかったけれど、強いチームでやりたい」という気持ちから東海大相模への進学が決まった。

「中学1年の時に全国制覇した相模を見ていて、縦じまのブルーユニホームがかっこいいなと思っていました。甲子園もテレビでしか見たことがありませんでしたが、ずっと憧れていた舞台でした」

入学してからは、それまでの練習との違いから驚きと学ぶことばかりだった。「普通にきついし、やっている内容が大人というか、質が全然違った。今まで考えたことのない野球を教えられて、引き出しが増えたような感じでした」と、当時を振り返る。そこから鵜沼は、持ち前のガッツとセンスで、入学時に立てた「1年でメンバー入りして、2年でレギュラーを取って、3年生で日本一になる」という目標に向かって突き進んだ。

東海大菅生戦で先頭打者ホームランを放ち、チームを勢いづけた(撮影・朝日新聞社)

1年の夏こそ、大事な時期に風邪をひいて間に合わなかったが、秋からの新チームでセンターのレギュラーを奪取。2年生になると、代えのきかない無二のリードオフマンとして、チームの切り込み役を担った。春の県大会は26打数11安打6打点で、チームは2年ぶりに優勝。関東大会は24打数12安打5打点という好成績を残した。とくに決勝の東海大菅生(東京)戦では、初球に先頭打者本塁打を放つなど、鵜沼の好調ぶりがチームを勢いづけ、東海大相模は初めて春の関東王者に輝いた。

「走・攻・守」の3拍子がそろった鵜沼は、強肩で守備範囲が広く、足も速い。だが、自分の武器を「初球からどんどん打っていくバッティング」と話すように、最大の魅力はその打撃にある。見ていて気持ち良いくらいに積極的なバッティングは、高校時代に固まったスタイルだという。

「中学の頃は自分の気持ちをあまり出せず、ガンガン振っていくタイプではありませんでした。でも、相模に入って2つ上の小松(勇輝、現・東海大3年)さんが、今まで見たことないような気迫で野球をやっている姿に憧れ、その背中を追いかけました。また、コーチにも『お前は小松を超えないとダメだぞ』と言われ続けていたので、今のスタイルになっていきました」

「アグレッシブ・ベースボール」で2年夏に甲子園出場

2019年夏の神奈川大会でも、東海大相模は圧倒的な強さを見せつけた。山村、西川僚祐(現・千葉ロッテ)とともに「強力2年生トリオ」と呼ばれた鵜沼は、「あまり覚えていない」というほどの高い集中力で、7試合32打数13安打。16-3で大勝した慶應義塾戦での先頭打者弾など、3本塁打12打点をマークする活躍で、チームスローガンの〝アグレッシブ・ベースボール〟を体現した。決勝戦は、日大藤沢に24-1。鵜沼の一発を含め、1試合チーム5本塁打の大会タイ記録と、決勝戦最多得点新記録というおまけつきで、4年ぶり11度目の甲子園出場を決めた。

日大藤沢との決勝戦で2ランを放った鵜沼。圧倒的な強さを見せつけた(撮影・朝日新聞社)

東海大相模は、明らかに勝敗が決したと思われる試合でも、最後まで攻撃の手を緩めることはない。これは門馬監督から事あるごとに「甲子園や観客がたくさん入るような試合では、負けているチームを応援する雰囲気になりやすい。だから何点差でも、たとえ100点リードしていても何が起こるかわからない。ゲームセットとなるまで取れるだけ点を取りなさい」と指導されてきた考え方に基づいている。

初めて臨んだ甲子園は、「打球の響き方など他の球場とは雰囲気が全然違って、これが『聖地』か」と楽しさを感じたものの、チームは2戦目の中京学院大中京(岐阜)戦で4-9と敗戦。鵜沼自身も2戦で1本しかヒットを打てず、結果的には悔しさの方が勝った大会だった。

その後、鵜沼はU18日本代表に選ばれ、U18ワールドカップに参加。森敬斗(現・横浜DeNA)や佐々木朗希(現・千葉ロッテ)、奥川恭伸(現・ヤクルト)ら、同世代のトップ選手たちと過ごした数日間は、何にも代えがたい貴重な時間となった。とくに森からは「結果を残せる選手の人間性」を学び、今でもLINEでやり取りする仲だという。

甲子園では期待されながらも思うような働きができなかった(撮影・朝日新聞社)

ただ、秋の県大会途中にチームに戻ったものの、打撃不振で全く打てなかった。そんな時期に、門馬監督から「相模の1番はお前なんだ。ジャパンに選ばれたからって格好つけてプレーする必要はないんだぞ。とにかくガツガツ突き進め」と言われた言葉が今も忘れられない。そこで気持ちが吹っ切れた鵜沼は、再び調子を取り戻し、県大会で優勝。関東大会は準決勝で健大高崎(群馬)に屈したものの、2年ぶりのセンバツ行きを確実なものとした。

センバツ、夏の甲子園中止も「相模が一番だと見せつけよう」

しかし、翌20年は、多くの人の日常を奪った新型コロナウイルスによって、鵜沼も目標や野球をする機会を奪われてしまう。まず3月にセンバツ中止が決まった。

「前年の甲子園で負けた分、やり返したいという気持ちで冬季練習に取り組み、それを乗り切って万全だったので、大会中止が決まってみんな落ち込んでいる感じでした。自粛期間に解散していた2、3ヶ月間は、監督やコーチから課せられた『毎日10スイングと野球ノートを書く』ことや、自主的に素振りやランニング、ウェートトレーニング、バッティングセンターに行くなど、1人でできる練習をするしかなかった。みんなと野球がしたいなと、ずっと思っていました」

「必ず行われる」と信じていた夏の甲子園も中止となり、代わりに県の独自大会と甲子園交流試合の開催が決まる。独自大会は甲子園につながるわけではない。だが、とくに3年生は「後輩たちに示すためにも、相模が1番だと見せつけよう」と、いつも以上の気合いで試合をこなした。5回戦に勝った直後に甲子園に乗り込み、交流試合では強豪の大阪桐蔭(大阪)と対戦。「対戦相手が決まった時は、うれしくてみんなで喜びました。個人的にも前年の甲子園では左投手に苦しめられたので、左投げのエース・藤江(星河、現・明治大1年)から絶対に打ってやるという気持ちでした」

手に汗握る熱戦は、結果的に2-4で敗れ、鵜沼自身もノーヒット。悔しさを感じながらもすぐに切り替えて臨んだ県大会では、準々決勝と準決勝で本塁打をマークし、県大会通算打率は.464と打ちまくった。チームは決勝で相洋を破って優勝するまで、鵜沼が2年生だった春以降、県内では一度も負けなかった。

神奈川県独自大会で優勝し、有終の美を飾った(撮影・朝日新聞社)

失意のドラフトを経て東海大へ

高校卒業後はプロ入りを希望していた鵜沼だったが、山村と西川が指名を受けたドラフトで、鵜沼に声はかからなかった。「自分だけ取り残された感じで、頭が真っ白になりました。1週間ぐらい落ち込みました」。それでも両親や周りの人たちの支えで立ち直り、「大学4年間でドラフト1位の選手になる」という思いを胸に東海大に進んだ。

「大学は良い意味で自由というか、自分がやらないと成長できない環境なので、自分で自分を追い込まないといけないと感じています」

高校の時果たせなかった日本一へ。大学4年間でさらに強くなると誓う(撮影・小野哲史)

質の良い投手や金属から木製に変わったバットの対応にも難しさを感じているが、1年目から春季リーグ戦に出場し、「やっていける」という手応えもつかんだ。高校時代に果たせなかった日本一を目指し、鵜沼の4年間が始まった。

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