野球

特集:あの夏があったから2021~甲子園の記憶

東海大相模・斎藤礼二 「夏の甲子園に行ってみたかった」後悔を力に飛躍を

18年春のセンバツ1回戦、聖光学院戦で投げる斎藤(撮影・朝日新聞社)

首都大学野球リーグ初出場を飾った今年の春季リーグ戦で、先発の柱として7試合に登板し、最多の4勝を挙げてベストナインにも輝いた東海大学の斎藤礼二(3年、東海大相模)。高校は思わぬ形で全国王者の東海大相模に入学が決まり、甲子園は春のセンバツで出場した一方、夏は激戦区・神奈川を勝ち抜くことができなかった。それでも全力で駆け抜けた高校3年間が、現在の斎藤の礎となっている。

不安の中でスタートした高校生活

多くの中学球児が甲子園を夢見るのと違い、斎藤は高校での目標を明確には持っていなかった。実力不足で、甲子園が遠すぎる存在だったからではない。むしろ逆で、国立中央リトルシニアに所属していた府中十中3年の夏には、シニア日本代表に選出され、全米選手権優勝という輝かしい実績を残している。高校の進学先は、シニアチームのコーチが東海大相模・門馬敬治監督の先輩だった縁から、「気づいたら相模に決まっていた」と笑う。

「野球をやるのは好きでしたが、甲子園はあまり見たことがなく、高校野球のことをほとんど知らなかった。東海大相模といえば、ラグビーが強い高校というイメージしかありませんでした。そんな中、自分が来年、相模に行くと決まった後の甲子園で、全国優勝してしまってびっくりしました。やばい所に行くことになったなと(笑)」

入学にあたり、期待以上に大きかったのは、「きっとすごい選手ばかりだろう。自分はレギュラーを取れるのか、投げることはできるか」という不安だった。実際、「もともと好きじゃない」というランニングなどの練習はきつく、たとえば先輩から優先的に使う洗濯機の順番がなかなか回ってこないなど、寮生活でも苦労は少なくなかった。ところが、公式戦に絡むという点では極めて順調だった。斎藤は1年の夏からベンチ入りを果たし、秋の地区大会では出場機会もあった。意識の高いチームに身を置くことで、いつの間にか「打倒、横浜」の精神や「甲子園に行きたい」という思いが胸の奥に深く根づいていた。

2017年、2年生に上がった斎藤は準エース格の投手として、春の県大会優勝や関東大会準優勝に貢献。夏も4試合に登板し、2勝を挙げる活躍を見せた。だが、決勝では春の決勝で競り勝っていた宿敵・横浜に3-9と完敗し、「1つ上の先輩たちともう野球ができないのかと考えると、寂しくて一気に涙があふれた」と振り返る。

決勝で横浜高校に敗れ、選手たちは失意の涙を流した(撮影・朝日新聞社)

その無念さを力に変えて臨んだのが、新チームのエースになって迎えた秋季大会だった。地区と県大会の9戦中、先発6試合を含む7試合に登板。計39回3分の2を投げ、相手に1点も与えなかった。チームは攻守の歯車ががっちりと噛み合い、5年ぶりに秋の神奈川を制したが、斎藤は最後の決勝戦でアクシデントに見舞われてしまう。4回を無失点に抑えたものの、次の回の打撃時に死球を受け、右手甲を骨折。右ひじにも不安を抱えていたことから、翌春の選抜大会を懸けた関東大会には出場できなかった。

横浜がいない組み合わせから生まれた隙

18年の春、斎藤は甲子園のマウンドに立っていた。前年の秋季関東大会でチームメイトが4強入りし、センバツ行きの切符をつかんでくれたからだ。「緊張はしたけれど、楽しかった」というセンバツでは、9回二死まで投げ切った初戦の聖光学院戦を含め、全4戦に登板。5点リードで迎えた終盤に追いつかれ、延長の末に敗れた準決勝の智辯和歌山(和歌山)戦は悔しかったが、全国制覇のためにはさらなるレベルアップが必要と学んだ大会でもあった。

「言い訳になりますが、怪我明けでいつものような調整ができず、コーチからも『まだ本調子じゃなかったな』と言われました。印象深いのは、智辯の林晃汰(現・広島東洋カープ)に2本の特大ファールを打たれた場面で、全国にはすごい選手がたくさんいるなと。智辯には完全な力負けだったので、負けた後はすぐに夏に向けて切り替えることができました」

センバツでは準決勝まで全4戦に登板した(撮影・朝日新聞社)

節目の第100回となる夏の記念大会。2校が甲子園に出場できる神奈川は南北に分かれ、東海大相模が入った北神奈川大会には夏2連覇中の横浜はいない。絶好のチャンスだったが、これが結果的に隙を生んでしまうことになる。「チーム内にも大会前から『絶対に甲子園に行けるぞ』という楽観的な雰囲気が流れていて、もし過去に戻れるならその雰囲気を壊したいです」

4回戦までは圧倒的な勝ちっぷりだったが、県相模原との準々決勝は初回に5点を先制され、いったんは追いつくも2番手の斎藤がつかまり、7回終了時点で5-8。「もう終わったと思った」と諦めかけたところから、チームメイトが劇的な逆転サヨナラ勝ちをもぎ取った。そこで気が緩んだわけではなかったものの、準決勝の慶應義塾戦で4-7と敗れてしまう。先発を任された斎藤が、2回に相手の打球をみぞおちに受けるという不運も重なった。ベンチで応急処置をして再びマウンドに戻ったが、4回途中までに6失点を喫し、チームもそこから巻き返すことはできなかった。「自分の責任で負けたので、みんなには謝りました」

満塁の場面、慶応の生井に走者一掃のスリーベースを打たれた(撮影・朝日新聞社)

東海大相模は翌年、後輩たちが4年ぶりに夏を制した。つまり、夏の甲子園を先輩や後輩たちは経験し、斎藤らの学年だけは手が届かなかった。それをうらやむ気持ちが今も残っているという。「同じ甲子園でも春と夏は全然違うと聞いていましたし、実際に注目度も夏の方が大きい。やっぱり夏の甲子園に行ってみたかったです」

高校3年間で備わった基礎、大学でさらに飛躍を

19年に東海大に進学し、大学野球では「神宮(球場での全日本大学野球選手権)優勝。高校ではできなかった日本一になる」という目標を掲げて、新生活をスタートさせた。東海大硬式野球部の一員として過ごす日々は3年目に突入したが、「相模がいろいろな面で厳しく、かつかつだったので、大学では心にゆとりがあるというか、縛られるようなことはほとんどないので、ゆったりと取り組めています」と、いつも充実感を感じている。

自主性が重んじられるチームの中で、投手としての成長を自身に課してきた。カットボールを覚え、トレーナーから教わったタイミングを重視する意識を持つことで、ピッチングが格段に良くなった。昨年のコロナ禍で約3ヶ月間、実家に帰省していた時期も、「1人でランニングや軽く体を動かすことぐらいしかできず、早く野球をやりたいなと思っていましたが、自分を見つめ直す良い機会になった」。

そうした昨年までの2年間は、斎藤にとって、植物が土の中で養分や水を吸収するような時期だったのかもしれない。それまで公式戦の出番に恵まれなかったが、今年度の首都大学春季リーグ戦ではエース級の働きでチームを支えた。開幕戦の日体大戦での初登板初完投を含む、7試合を投げて4勝をマークし、リーグのベストナインにも選出された。ただ、斎藤自身は「数字的には良く見えますが、自分が投げる時は野手がよく打ってくれた。毎試合、無駄な失点があったので、もっとやれたなという印象です」と、それらの結果には満足していない。

大学では絶対的なエース、そして日本一を目指す(撮影・小野哲史)

絶対的なエースになるために、そして、大学日本一になるために、斎藤のチャレンジは続いているが、今、改めて振り返ると、「自分の野球の基礎が備わったのは高校3年間だった」ときっぱり言い切る。

「中学校まではただ投げて、打って、走ってみたいに全然、野球を理解していませんでしたが、高校でピッチングだけでなく、バッティングや走塁でも、場面を想定したプレーができるようになりました。試合全体の流れが見えるというか、『野球を知れた』と言ってもいいかもしれません」

夏の甲子園出場は果たせなかったが、そのことを悔やんでも過去は変えられない。だからこそ斎藤は、大学野球の舞台で戦う今に全力を注ぐ。

in Additionあわせて読みたい