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特集:あの夏があったから2021~甲子園の記憶

中越・山本雅樹 先発からライトに入りまた登板、大舞台の経験が活躍の土台に

3年の夏、100回大会の先発のマウンドに立った山本(撮影・朝日新聞社)

「高校3年間があったから今の自分がある」
今季の首都大学春季リーグ戦で9季ぶり2度目のリーグ優勝を遂げ、6月の全日本大学野球選手権大会に悲願の初出場を果たした桜美林大学。その原動力になった1人が、リーグ戦7試合と優勝決定戦2試合にいずれも中継ぎで登板し、リーグの最高殊勲選手に輝いた山本雅樹(3年、中越)だ。高校時代は3年の夏に甲子園に出場。惜しくも初戦突破はならなかったものの、自身は「高校3年間があったから今の自分がある」と胸を張る。

1年夏の甲子園で芽生えた「あのマウンドで投げたい」

2016年夏、中越高校の1年生だった山本は、甲子園のアルプススタンドで、「県大会の決勝を行う(ハードオフ)エコスタジアム新潟も広いけれど、甲子園はあそことは比にならないくらいお客さんが多い。この中で試合をしたいな」と思いながら、先輩たちを応援していた。そして、チームは前年と同じく初戦でサヨナラ負け。「今度は自分があのマウンドで投げたい」と強い思いが芽生えたのも、この時だったと記憶している。

2016年の中越アルプススタンド。山本はここからグランドを見て、自分もあそこに立ちたいと誓った(撮影・朝日新聞社)

直江津中学で2年の夏に全中でベスト4に進んだ頃は、4番ファーストが定位置だった。3年生になって投手を任されることもあったが、本格的に投手としての道を歩み始めたのは、高校に進んでからだ。山本にとっては、「打つより投げる方が楽しかった。ピッチャーの出来ひとつで勝ち負けが決まってくることが面白かった」。

2年生に上がると登板機会が増えた。しかし、山本の、そして中越の前に立ちはだかったのが、県屈指の強豪・日本文理だった。16年までの夏の甲子園出場回数は、10回の中越が8回の日本文理を上回っていたが、こと甲子園の実績では09年に県勢初の準優勝、14年に準決勝進出と、日本文理の方が明らかに上だった。
「自分たちは小技をからめて攻めるのに対して、日本文理はバッティングが良かった。スタイルは全然違いましたが、打ってくるという恐怖心があったし、やはり強いなと感じるチームでした」

山本が当時をそう振り返るように、17年も春の県大会は決勝で1-14の大敗。夏も決勝で4-6と競り負けた。さらに新チームが始動した秋季県大会でも、中越は決勝で日本文理に1-3で敗れている。とくに夏は、決勝の出番こそなかったものの、山本は「先発しても短いイニングで代わってしまう形が多く、試合の最後の方は見ているしかなかったのが悔しかった」と、まだまだ力不足だったことを実感している。

それでも新チームの主将となった小鷹葵(現・青山学院大3年)が、常に「甲子園で勝つ」ということを言い続けた。秋から背番号「1」を背負う山本にとっては、女房役でもある小鷹に引っ張られるように、甲子園で勝つことを目標に最後の夏に挑んでいった。

初戦敗退も「楽しく投げられた」甲子園

いよいよ始まった18年夏の新潟大会だったが、中越は初戦の2回戦で三条に大苦戦。9回に何とか勝ち越し、7-6で辛勝したものの、6失点を喫した先発の山本は、「相手がそれほど力があるとは思っていなかったというか、自分の中に気の緩みがあった」と語る。ただ、それがかえって山本やチームを引き締める、良いきっかけになったのかもしれない。

県大会優勝を決め、小鷹(右)と笑顔を交わす(撮影・朝日新聞社)

3回戦以降、中越は危なげなく勝ち上がり、山本も「1人1人を抑える意識だけで投げた」と、準決勝の新潟産大附戦(3-2)と決勝の新発田戦(10-1)で2戦連続完投勝利を収め、エースらしい活躍を見せた。2年ぶり11回目の甲子園行きを決めた瞬間、山本が喜びを爆発させたり、嬉し涙を浮かべるようなことはなかった。ここがゴールではなく、1つの通過点という思いがあったからだろう。

第100回記念大会となった甲子園での初戦の相手は、激戦区の神奈川県で並みいる強豪を退け、春の選抜に続いて「聖地」にやって来た慶應義塾。「万全の準備で臨んだ」という山本だったが、上位に左打者を並べた慶應打線に、初回と3回に1点ずつを献上してしまう。そこで中越の本田仁哉監督は、4回途中からライトを守っていた山田叶夢(現・青山学院大3年)と山本を交互に、かつ小刻みに入れ替えながら慶應の強力打線を封じ込めた。

「あらかじめそういう策で行くと聞いていたわけではありません。本来なら山田がマウンドに上がる時は、自分はベンチに下がる時だと思っていました。でも、『まだ投げるから(ライトに入れ)』と言われ、そういうことかと」

ライトに入っていた山田(右)と3回ずつ交代で投げるという奇策だった(撮影・朝日新聞社)

山本に悔やむ気持ちがあるとすれば、2-2で迎えた9回裏、二死から四球とヒットでピンチを作ってしまったこと。その場面でこの日3度目となるライトの守備につき、「頼むぞ」と祈るような思いを送っていたが、山田が痛恨のサヨナラタイムリーを打たれ、万事休した。中越にとっても、甲子園では15、16年に続き、3大会連続となる初戦サヨナラ負け。「甲子園で勝つ」という目標を果たせず、悔し涙がしばらく止まらなかった。

「3点はすべて自分の責任で取られてしまいましたし、力を出し切れたかと言えば、そうではなかった感じもあります。でも、今になって思えば、甲子園は独特な雰囲気があって、楽しく投げられたかなと。良い経験になりました」

中越・山田叶夢 ライトから3度登板、打たれたサヨナラヒットに後悔なし

リーグ最高殊勲選手と全日本大学野球出場

高校最後の大会が終わり、残りわずかの夏をのんびり過ごしていた山本は、「野球は高校限りで、卒業後は就職するつもりだった」。だが、小学生の頃から続けてきた野球がなくなると、何をしていいかわからない。次第に「野球をやっている方が幸せだな。野球をやりたいな」という思いが大きくなっていった。そして、9月には、本田監督経由で話があった桜美林大学に進み、野球を続けることを決めていた。

19年に入学した桜美林大での目標は、「まずはリーグ戦でベンチメンバーに入ること」だった。1年目の秋季リーグ戦前に背番号はもらえたものの、ベンチ入りは叶わず、「もっと頑張らないと」と気持ちを新たにした。2年目の昨年度は、新型コロナウイルス感染症の影響で春季リーグ戦が中止になったが、10月の秋季リーグ戦・筑波大戦で、山本はついにリーグ戦初出場を果たす。

大学3年になった今年、チームの春リーグ優勝に大きく貢献した(撮影・小野哲史)

中越高校での3年間は、野球の面でも生活の面でも現在の山本の土台になっている。
「中越は県内では注目されるチームだったので、周囲の方の期待やお客さんからの視線など、大舞台でプレーすることに慣れたのは、高校や甲子園でいろいろ経験できたから。本田監督の指導で印象に残っているのは、言葉使いや挨拶などをかなり細かく指導してくださったことです。人として成長することを大事にしている監督だったので、僕たちが社会に出た時のことを考えてくれていたのだと思います」

桜美林大の津野裕幸監督は、加入した当初の山本について、それほど強い印象を抱いたわけではなかった。あれから2年が経過し、「うちの全選手の中でも練習量はトップクラス。コツコツと練習してきたことが今に出てきている」と、その着実な成長ぶりに目を見張る。ひたむきに野球に取り組める姿勢は、いつしかチームメイトや首脳陣から絶大な信頼を勝ち得ていた。

3年目の今年は、春季リーグ戦で中継ぎのエースとして7試合に登板し、計18回を投げて自責点は3。東海大、帝京大との優勝決定戦も2試合連続で好救援を演じ、チームの16年秋以来となる2度目のリーグ優勝に大きく貢献した。さらに山本自身もリーグの最高殊勲選手に輝き、「自分としては、そんな賞をもらえるような成績ではなかったのですが、結果としてそう評価してくださったのは良かった」と自信を深めた。一方で、チームが初出場を果たした全日本大学野球では、「普段の投球スタイルを変えようとして、うまくいかなかった」という心残りもある。

今、秋に向けては、球速アップに重点を置きつつ、体作りやフォームの見直しに取り組んでいる。「春のオープン戦で147キロを出せたので、今後は150キロを目指しています」と山本は言う。「これからも選手として野球を続けていきたい」とも語り、大学卒業後の社会人やプロ入りも見据えるが、そのためにもまずは残り1年半の大学野球で結果を残さなければならない。とはいえ山本は、過度な気負いを見せることなく、大好きな野球を楽しみながら己の道を突き進む。

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