東海大相模・神里陸 それぞれの道で父と兄に続いた「甲子園」
興南が初めて深紅の大優勝旗を沖縄に持ち帰った第92回全国高校野球選手権(2010年)。南風原(はえばる)町の小学2年生だった神里陸(國學院大學1年)がテレビ越しに見入ったのは地元の興南ではなく、決勝の相手だった東海大相模(神奈川)のタテジマのユニホームだった。「相模に2人沖縄の選手がいて、格好いいなと思った」。双子の大城兄弟に憧れた。甲子園で沖縄勢と戦ってみたいと幼心に思った。
兄の和毅は糸満で初出場
翌11年、兄の和毅(横浜DeNA)が糸満(沖縄)で第93回大会に初出場した。甲子園まで応援に行き、球場の大きさ、歓声のすごさに感動したことを覚えている。南星中学1年の時、東海大相模が45年ぶりに全国制覇したこともあり、小さいころからの思いは変わらなかった。「チャンスがあれば、相模に行きたい。そのためにも絶対、全国大会に行きたいというのがあった」。中3の夏、県大会を勝ち抜いて全日本少年軟式野球大会に出場した。横浜スタジアムでの初戦、本塁打を放ったのを東海大相模の門馬敬治監督が見ていたこともあり、強豪校への道が開けたという。
才能豊かな同期にもまれ
東海大相模の野球部に沖縄から来た同期はいなかった。「知り合いがいるところには行きたくなかった」と望んだ環境だったが、「こんなところでやっていけるかな」と感じるほどレベルは高かった。2年の夏にチームは4年ぶりの甲子園出場を果たしたが、メンバーには入れなかった。同期の山村崇嘉(埼玉西武)や西川僚祐(千葉ロッテ)、鵜沼魁斗(東海大学1年)が主力で活躍していた。「焦りは正直ありました。でも、やるしかないな、絶対に競争に勝とうと思っていました」
そんなときに、捕手への転向を勧められた。「中学校で少しやったくらいで、本格的にはやっていませんでした。肩が強かったので、『可能性があるから』と言われてやり始めた。内野手では他の選手に負けているのはわかっていたし、このままではダメだったので、キャッチャーでレギュラーを取ろうと思った」。2年秋の新チームから正選手になった。関東大会で4強になり、20年春の選抜大会出場が決まった。スイッチヒッターから左打席に専念するなど攻守でレベルアップをはかった。
コロナ禍で中止、交流試合で復活した「甲子園」
新型コロナウイルスの感染が広がり、選抜大会は中止になった。「出場が決まって本当にうれしくて、ずっと甲子園で日本一を取るために練習やってきた。それが、一瞬にしてなくなってしまって……」。沖縄に戻り、オンライン授業と自主練習が続いた。夏の甲子園も中止となったが、選抜大会に選ばれていた32校が甲子園に招待され交流試合が開かれることになった。一度はあきらめたが、第60回大会(1978年)で豊見城(沖縄)が3年連続8強に進んだ時のエースだった父・昌二さん、糸満で初出場した兄に続き3人が別々の高校で甲子園を経験することになった。
「ずっとテレビで見ていた世界だった。そこに自分がいて気持ちがちょっと浮ついた部分もあった。でも、楽しめた」。甲子園交流試合での相手は強豪の大阪桐蔭だった。チーム初安打と、七回に一時逆転となる2点適時打で気を吐いた。「日本一になる目標でやっていて、そのためには大阪桐蔭も絶対に倒さなくてはいけない。ずっと意識していた大阪桐蔭と最後にできたのはよかった。相手は強かった」。試合は2-4で敗れた。
その後の神奈川県独自大会の決勝では、本塁打と八回の逆転二塁打で計4打点。相洋を9-5で下し2年連続夏の神奈川王者としてバトンをつないだ。
後輩たちは今春の選抜大会で優勝し、春夏連覇を見据えていた。この夏の神奈川大会途中、コロナ禍に見舞われ出場辞退となった。「3年生には何と言えばいいのかわからなくて……。キャプテンにSNSで一言送ったくらいです」
國學院大學でレベルアップを
糸満高から中央大学へ入った兄から東都大学野球の厳しさを聞かされていた。そういう中で野球をさらに磨きたいと思い、東海大相模を目指した時と同じように、先輩もいない國學院大學へ進んだ。捕手のお手本として横浜高出身の福永奨主将がいたのは幸運だった。
「リードの話や、ブロッキング、スローイングなどを教わっています。朝練では福永さんにつきあってもらい、いろいろ吸収しています」。寮で同部屋の時期もあった。今春、國學院はリーグ優勝した。「簡単には勝てないし、うまく試合が進まない。1戦、1戦に対する準備も徹底していて、1点にかける姿勢が高校野球とは違います」。春は代打の出場だったが、初安打もマークした。さらに上のレベルを目指して精進が続く。
改めて高校野球を振り返り、「自分は甲子園で沖縄勢とやりたかったですが、終わったので沖縄を応援します。沖縄と相模を」と笑った。