青山学院大・脇田幸太朗 中学はソフトテニス部 3代目「山の神」に憧れ、かなえた夢
青山学院大学の脇田幸太朗(4年、新城東)は、最後の箱根駅伝でついにチャンスをつかんだ。「山の神」さえ知らなかった少年が、青学大OBの神野大地の走りに心を動かされて高校から陸上を始め、競技者として最後のレースで憧れの人と同じ山を登った。こんな夢のような話があるだろうか。脇田の4年間は決して順風満帆ではなく、悔しい思いをたくさん経験し、人知れず努力をしてきた。
中学まで箱根駅伝には興味がなかった
中学時代はソフトテニス部。箱根駅伝には全く興味がなかったという。友達に「山の神知らないの!?」と言われたことがきっかけで、動画で見た3代目山の神・神野大地の走りに大きな衝撃を受けた。当時、脇田は小柄な体形がコンプレックスだった。スポーツは身長が大きい人が強いイメージがあった脇田は、小さい体を強みに変える走りに心を動かされ、高校から陸上を始めた。
決して強豪とは言えない地元・愛知の公立高校、新城東(現・新城有教館)に進学。入学当初は5000mに17分かかっていた。高校1年の冬に初めて14分台を出すと、当時は無名校に14分台で走る選手はなかなかいなかったため、周りから高く評価され、注目を浴びるようになった。そういった経験が今までになく、すごくうれしかったと語る。これがモチベーションになり、高校2年で14分30秒まで記録を伸ばした。
順調だった高校時代とは対照的に、大学入学後は度重なるけがに苦しんだ。脇田には大学4年間の中で、印象に残っているレースが二つある。一つ目は、2年生の6月に行われた学内のタイムトライアルだ。青学大には1軍寮と2軍寮があり、年に3回の入れ替えがある。それを決める重要なレースで、脇田は故障のため応援していた。2軍寮にいた同期が好走する姿を見ているだけの自分が、情けなかった。結果的に脇田が1軍寮から2軍寮に移ることになり、非常に悔しい思いをしたという。悔しさを糧に練習に励み、箱根駅伝16人のエントリーメンバー入りを果たした。
二つ目は、4年生の3月に大分合宿で行われた3000mのタイムトライアルだ。3年時は練習を積めていたものの、11月に故障をしてエントリー漏れとなった。その後は全く走れずに腐りかけていたが、このレースで自信を取り戻した。青学大に入って初めてのチームトップ。故障が明けて1カ月しか経っておらず、脇田自身はそこまで走れると考えていなかった。結果が出たことで、3年目の練習で本物の力がついたと、最後のシーズンに向けて気合が入った。
突然決まった箱根5区出走、懸命に駆け抜けた20.8km
今年の箱根駅伝、脇田は思わぬ形で憧れの5区を走ることとなった。当初は、前回大会で区間3位と好走した若林宏樹(2年、洛南)を予定していたが、元日の朝練習で体調不良を訴えたため、6区予定の脇田が急きょ5区に回った。3大駅伝初出場となった脇田は「今まで一度も走ることができず悔しい思いをしてきたため、緊張よりも走れるうれしさのほうが大きかった」と話す。
憧れの神野大地からペース配分などのアドバイスを受け、2区を走り終えた近藤幸太郎から電話をもらった。近藤からは「最初焦らないで良いから、自分のペースで行け。登りに入ったらおまえが一番強いから」と言われた。この言葉のおかげで無駄なことを考えず、リラックスできたという。
脇田が待つ小田原中継所には、先頭から20~30秒ほど遅れて来ると予想していた。「4区の太田蒼生(2年、大牟田)も練習があまり積めていなくて、まとめてくるとは思ったが、まさか先頭で並んできたのでびっくりした」と語る。予想と違う展開にプレッシャーは感じたが、良い位置で持ってきてくれた太田に「ありがとう」と声を掛け、襷(たすき)を受け取った。
良いチームメートに恵まれて幸せ
駒澤大学の山川拓馬(1年、上伊那農)は実力があり、平地では置いていかれると考え、無理してついていくことはないと原晋監督からも言われていた。登りから巻き返せると考えていたが、2km辺りにある軽い登りで動きがあまり良くないと感じた。タイム差が開いて内心焦る部分もあったが、監督車からの声掛けでリラックスした。ラスト2km辺りで「明日の復路の選手のためにも1秒でも稼ぐぞ」と言われ、最後の力を振り絞った。登りで苦戦した脇田だが、得意の下りではペースを上げて区間9位、トップの駒澤大と2分3秒差の3位で往路を終えた。
大学で陸上競技を引退する。実業団に行きたかったが、故障などの影響で実績を残すことができなかったため、一般企業への就職が決まった。脇田の学年は、誰一人欠けることなくここまでやってきた。それは簡単なことではなく、一人ひとりが強い思いを持っていたからだという。「本当に良いチームメートに恵まれて幸せだった」と何度も口にしていた。
「青学の神野さんに憧れて、最後は自分も青学で山を登れたのは夢みたいな話。幸せな陸上人生だった」と振り返る。4年間どんなときも諦めずに努力してきた脇田だからこそ、夢を実現することができた。これから先、どんな山が立ちはだかっても越えていけるだろう。