青山学院大・西川魁星 後輩から慕われる「努力家」、チームのどん底から夢の箱根路へ
第99回箱根駅伝は駒澤大学が総合優勝を勝ち取り、出雲駅伝、全日本大学駅伝の優勝を合わせて「三冠」を達成した。大学陸上界のエースと言っていい吉居大和(3年、仙台育英)を筆頭に、確実に力をつけてきた中央大学が2位。前回覇者の青山学院大学は3位に終わった。
当日変更される予定が、急きょそのまま出走
駅伝シーズンの青山学院大は、故障者が出た影響で、足並みが思うように揃(そろ)わなかった。出雲駅伝は4位、全日本大学駅伝は3位で思うような結果とはならなかった。そして迎えた「最強世代」最後の箱根駅伝。12月下旬に行われた壮行会には「昨年よりもいい。期待しておいてください」と自信をのぞかせる原晋監督の姿もあった。
前年は従来の大会記録を1分41秒更新し、今回も「箱根駅伝こそは」と監督、選手ともに闘志を燃やしていた。だが、ふたを開けてみるとまさかの3位。一時は8位まで順位を下げた。箱根駅伝連覇を狙っていた青山学院大に何が起こったのか。実はレース前日の1月1日、アクシデントが発生していた。もともと5区の山登りを予定した若林宏樹(2年、洛南)が体調不良を訴え、6区を走る予定だった脇田幸太朗(4年、新城東)を急きょ5区に変更。そして当日変更される予定だった西川魁星(4年、市立太田)がそのまま6区を走ることになった。これが歯車を狂わせた。
心の準備が間に合わず
1月1日午前、西川は原監督から、エントリー通りに6区を走ることを伝えられた。12月末に行われたミーティングで、すでに当日変更の方針を伝えられていたため、もう箱根を走れることはないのだと、心の片隅で諦めかけていたという。急きょ6区を任されたことに走る実感が湧かず、イメージすらつかめない状態で走った箱根路は甘くなかった。
最初5kmの登りでペースが上がらなくても、下りで巻き返す予定だった。だが緊張とプレッシャーで、下りに入ってからも体が思うようについてこなかったという。体の調子が良かったがゆえに、焦りが出てしまったのだろう。レース前、原監督からは「自分の走りを心がけること」を伝えられたが、「できずに『やばいやばい』と思いながら走り続けた」と20.8kmを振り返る。
今季の関東インカレ1500mで5位入賞、全日本インカレ1500mでも10位と大健闘した西川。普段の大会では、緊張しないタイプだという。関東インカレも全日本インカレもチーム戦ではあるが、個人戦という側面も強い。これがトラックレースと駅伝の大きな違いだった。これまで箱根駅伝のみならず、学生3大駅伝にも出場経験がなかった西川にとって、最初で最後の大舞台だった箱根の6区は、背負うものが大きすぎた。連覇を目指しているチームであるということ、人々から注目を集めているチームであること。緊張に慣れていなかった西川は、ここで初めてチームを背負うプレッシャーを味わった。
強い仲間に囲まれ、4年間やり通した
高校時代は朝練がなかったため、大学1年時は授業と部活動の両立に精一杯だった。記録も伸び悩み、マネージャー候補として選手生活を送っていたという。その中でも、競技を続けられたのは、やはり同期の存在が大きかった。西川は真面目な性格で、後輩からも尊敬されるほどの努力家。強豪の青山学院大で、強い仲間に囲まれながら4年間、練習に励み続けた。だからこそ、その努力が実り、箱根駅伝への出走が叶(かな)ったのではないか。
西川はチームについて「みんなが本当に仲良く、和気あいあいとしたチームです」と語ってくれた。楽しいこともたくさんあるけど、厳しいところは厳しく、お互いが指導し合えるのだという。また、一人ひとりの箱根駅伝に懸ける思いが強く、1年に2日しかないレースに向けて、残り363日の練習に励む。これがチームの底上げにもつながり、一人ひとりの高い意識が芽生えている。
故障にも悩まされ、最後の箱根駅伝では結果がついてこなかった。「決して順風満帆な4年間だったとは言えないけれど、いい仲間に恵まれて、4年間やり通すことができた。このチームに入ってよかった」と西川。大学を卒業したら、陸上競技を引退する。青山学院大で培った努力は、きっと新たな道で花開く。