後輩たちへ「1年間走りきる工夫を」 主将・選手・HC兼任、広島大・山本草大(下)
広島大学で主将・選手・ヘッドコーチ(HC)と「三足のわらじ」を履いた山本草大(そうた、4年、福岡大大濠)は、常人には理解し難い、ある能力を持っている。
「チームとか選手のオーラが、たまに炎として見えるんですよ。グループごとに練習しているときに『あそこのグループ、炎が小さいな』って思って5秒くらい見たら、問題点が見つかる。後輩に言ったらポカーンとされましたけど(笑)」
聞いた当初はとんでもない能力者だと思ったが、山本は「100パー感覚ではなく、経験や情報が合わさって見えるものだと思います」と説明する(それでもすごい能力であることは間違いない)。
振り返れば、洞察力は幼い頃から山本の大きな武器だった。
中学時代からロールプレーヤーとして腕をふるった。仲間に点を取らせるにはどうすればいいか。大きい選手を守るにはどうしたらいいか。観察、思考、実践の繰り返しでその精度を高め、チームに必要不可欠な選手となった。高校時代は監督の眉毛の動きだけで言いたいことを察し、先回りして部員たちに檄(げき)を飛ばせるレベルになっていたという。
リーダーシップや行動力も突出したものがある。大学入学後の取り組みは、前編で紹介した通り。山本が高校3年生時のインターハイ3回戦、主力4人抜けという圧倒的不利な状況で「俺たちの目指すものは変わらないし負ける気はしない」と仲間を引っ張り、最後まで勝敗のわからない試合に持ち込んだ彼の姿は、筆者の20年来におよぶ高校バスケ取材の中でもとりわけ印象深いものだ。
そんな山本でも、4年時に経験した”選手兼ヘッドコーチ”は、想像を超える一大事だった。
やむを得ない事情が発端も「両方やりたい」とHCを兼任
山本が三足のわらじを履くことになったのは、やむを得ない事情がきっかけだった。
広島大には元々専任のヘッドコーチがおらず、大学院に進学したOBが1〜2年ごとに持ち回りで務める慣例があった。ところが山本が最上級生になるタイミングで、これを引き受けられるOBが見つからなかった。
同期たちと話し合った。外部コーチや学生コーチの登用も考えた。しかし、最終的には山本が「俺が選手とヘッドコーチを両方やりたい」と宣言した。
「今後も同じような事態になったとき、僕らなら踏み台になれる自信があったし、僕自身もチームコンセプトやシステムのアイデアを持っていたので、僕が両方やったほうが手っ取り早いと思ったところもあります」
コーチに専念するという選択肢は、あくまで行き詰まったときの最終手段とした。
「プレーヤーとしての目標があったし、みんなにもそれを宣言していたのに、それをあきらめてコーチになるのは前向きな選択じゃないなと。まずはやってみて、チームにとってデメリットが大きいと判断した時はプレーヤーをやめると伝えました」
自分のプレーに集中しながら、試合の展開も読む……
以降、山本の生活はそれまで以上にバスケ一色になった。授業やアルバイトの合間にその日の練習メニューや中長期的なチームの展望を練り、午後6時半からの練習に選手兼コーチとして参加。午後11時ごろから練習の映像をチェックし、反省や課題を取りまとめたら、たいてい朝になっている。
「睡眠って本当に大切なんだなって実感しましたね」と山本は苦笑交じりに振り返る。4月は原因不明の発熱に悩まされ、卒業論文と進路の正念場が重なった6月は、ほぼ1カ月間、仮眠でしのいだ。頭を占めるのは常に「寝たい」という思い。練習前の準備の時点で「疲れた」と感じる日も少なくなかった。
選手としての自分とヘッドコーチとしての自分を使い分けるのにも苦労した。
山本はスタメンのポイントガードとして長く試合に出ながら、ヘッドコーチとして采配を振るうポジションにいた。自分のプレーに集中しつつ、ヘッドコーチとして客観的に試合の展開を読み、適切なタイミングで選手交代やタイムアウトを行い、対応策を提示する。想像しただけで頭がこんがらがりそうだ。
初陣となった5月の中国大学選手権優勝大会は、”選手の自分”が前に出た。ヘッドコーチとして試合の流れを読むことを必死で意識しようとしたが、選手としての『目の前の勝負にやられて悔しい』という思いにとらわれ、タイムアウトを要求するタイミングが大きく遅れた。
夏休みの練習試合期間は、反省を生かしてヘッドコーチの意識を強めた。すると今度はプレーの積極性が奪われ、パフォーマンスが激しく落ちた。
睡眠不足は夏ごろに改善したが、この課題は10月のインカレ予選中もなかなか解消できなかった。最後のインカレが迫る中、山本は決断した。「自分が出ている時はプレーヤーとして最大のパフォーマンスを出して、コーチとしておろそかになるところは全員でカバーするのが最適だなと」
選手交代は山本が責任を持って行ったが、点差が開いたとき、山本が冷静でないときなどといった一定の基準を設けた上で、ベンチのメンバーが誰でもタイムアウトを取っていいことにした。スカウティングしていないセットプレー、やられているポイントといった現状把握も全員で担い、山本はプレーが止まるタイミングでその報告を受けた。
引退した今は、もっと早く助けてもらえばよかったという思いがある。自分たちと同じ体制をとることを決めた後輩たちには、自らの経験と反省、そして「まずは1年間走りきれる工夫をしてほしい」という思いを伝えた。
「最高に楽しかった」4年間
最後のインカレは、初戦の九州産業大学に64-58で勝利。山本いわく「30年近く女子部の部長をされている方が『知る限りでは初勝利だと思う』と言っていました」という快挙だった。
「九州産業大戦は、たくさんの課題をみんなで話し合って乗り越えてきた、この1年間のすべてが詰まった試合でした。代々の先輩方がつないでくださった、広大のひたむきにまじめに頑張る姿勢が、やっと報われたのがうれしかったし、友達から『隣で見てた人がめっちゃ応援したくなるチームって言ってたよ』と聞いたのもうれしかったですね。1年を通じて『このチームにはプレーを通じて伝えたいものがある』って言い続けてきたので」
続く北陸大戦は、長身の留学生を擁する相手に互角の勝負を展開したが、最終クオーターに突き放されて71-87で敗戦し、山本の最後のインカレは閉幕した。
試合後の片付けを終え、会場を出る間際、山本の両目から涙がこぼれ落ちた。
物静かながら、随所で「こいつら、すごいな」と感心する聡明(そうめい)さを発揮した同期たちは、さりげない気遣いや助言で山本を助けた。山本が選手兼HCを提案したときも、悩むそぶりもなく「いいと思う」と言ってくれた。「信頼関係がちゃんとできていたのかなって、うれしかったです」
後輩たちは山本の厳しい要求にポジティブに立ち向かいながら、それぞれの役割を果たし、コートを離れれば山本を大いにいじった。睡眠不足で心身ともに追い込まれた時期も、練習で彼らのエネルギーに触れると不思議と体力が回復し、頭が回りだす感覚を覚えた。
体調不良に悩まされていた4月の練習後、疲労のあまり床に座り込んだ山本の隣に、副キャプテンの小原優斗(4年、川内)と川畑颯太郎(3年、川内)が並んだ。2人とも何を言うでもなく、ただスマホをいじっているだけだったが、山本は彼らの不器用な愛情表現に救われたと話した。
「後輩は本当に可愛かったし、同期も僕の足りないところをたくさん補ってくれました。試合が終わった直後は何のこっちゃよくわかってなかったんですけど、会場を出るときに『このチーム、もう終わったんかあ』ってぶわーっと感情がこみ上げてきて、涙が出ました」
広島大で過ごした4年間は楽しかったですか?
そう尋ねると、山本は「最高に楽しかったです」と即答した。
春から母校の福岡大大濠で選手を指導
山本はこの春から、教員として母校の福岡大大濠に戻る。受け持つ部活はもちろんバスケットボール部。片峯聡太監督、山本草大アシスタントコーチ、くしくも「Wソウタ体制」だ。
「お話をいただいたときはすごく驚いたし、けっこう悩んだんです。でもこんなチャンスは誰にでも与えられるものではないと思ったし、自分にしかできないことでもあると思ったので、『頑張りたいです』とお返事しました。片峯先生のイエスマンになってもしょうがないので、チームや先生の弱点を見つけてやるくらいの気持ちでいます。クソ生意気ですけど(笑)。でも、それくらいやらないと面白くないと思うし、先生も僕のそういうところに期待してくれてるんじゃないかな」
教員と生徒という立場では、今まで培ってきた経験がそのまま生かせるとは考えていない。それでも、山本がすでに自らの使命だと確信していることがある。
「本当の熱さと、その先にある楽しさを伝えることです。僕らの代は最後のウインターカップには出られなかったですけど、とにかく熱く熱く、いつも120%の力を出し切ることを心がけていて、寮の自習時間も寝たりふざけたりするやつがいたら『点数どうこうでなく姿勢を見せろ』とブチ切れてました(笑)。生徒たちには、熱く、そして本当の意味で楽しくやるからこそチームスローガンの『かっこよくて素敵なチーム』になれるんだと伝えたいし、そこの面では誰より貢献するつもりでいます」
本稿に際して行ったリモートインタビューは、予定していた1時間を大幅に超え、3時間近くにおよんだ。その最中に山本が発する言葉は、そのどれもが真っすぐで、強く、エネルギーに満ちていて、ディスプレー越しにも関わらず、その熱にうかされて多少くらくらした。
山本のほとばしる熱量は、日本屈指の人材と環境がそろう福岡大大濠というチームをどのように変えていくのか。今からとても楽しみだ。