青山学院大・渡部海 中谷仁監督から教わった「気付き」、分岐点となった高校2年の春
この春、東都1部リーグで17年ぶりの優勝を果たし、全日本大学選手権も制して18年ぶりの日本一に輝いた青山学院大学。原動力となった強力投手陣、常廣羽也斗(大分舞鶴)、下村海翔(九州国際大付)、松井大輔(県岐阜商)の4年生とバッテリーを組み、見事なリードで力を引き出したのがルーキーの渡部海(1年、智弁和歌山)だ。
先輩との競争に勝ち、つかんだレギュラー
高校時代は2年夏に甲子園優勝を果たし、当時から高校通算38本塁打の大型捕手として注目されていた。大学でもデビューシーズンから公式戦で全試合先発出場を果たし、リーグのベストナインを獲得した。本人の能力が高いとはいえ、経験が重視されるキャッチャーというポジションでは異例のことだろう。
「もちろん1年目から試合に出てやるんだという気持ちでいましたけど、こんなふうにずっと出られるというのは、正直、考えていませんでしたね」。渡部は大学最初のシーズンを振り返り、素直な気持ちを口にした。
決して与えられたポジションではなかった。安藤寧則監督は「先輩との競争に勝って、渡部がつかんだものですから」と言う。昨年まで正捕手を務めた佐藤英雄(4年、日大三)から勝ち取ったレギュラーだった。
今年の春先、渡部は大学や社会人の強豪チームを相手にしたオープン戦でマスクをかぶった。試合に出場しない時も、ベンチで監督やコーチの横に座って配球を教わったり、ネット裏で常廣や下村といった先輩投手と一緒に試合を見てそれぞれの性格を知ったり、考え方を聞いたりする努力をしてきた。「なんでも一生懸命やる男なんです。入学以来、練習でもアップから手を抜くのを見たことがない」と安藤監督。それだけに春先は疲れから体重も落ちた。
「大学生もそうですが、社会人の主力打者の方はレベルが高くて簡単には打ち取れない。追い込んで勝負球のサインを出しても、打たれたり、カットされたりするし、カウントを悪くしたくないからって安易にストライクを取りに行くと狙われる。配球が難しいなぁと悩みました」と渡部は言う。そこでの勉強がリーグ戦で生きた。
「試合前に相手チームの打者の特徴、データはしっかり見るのですが、それに頼りすぎない。トーナメントの高校野球では、初めて対戦する打者がほとんどですから、試合の中で投手のボールの状態や打者の反応なんかを見て自分が感じること、そういうライブ感を大事にしてきました。そこは大学のリーグ戦になってもあまり変わっていないですね」
細かいことを常に意識し、信頼されるキャッチャーに
キャッチャーとしての基礎を作ったのは智弁和歌山での3年間だった。地元・大阪の強豪校からの誘いもあったが、「中学2年生くらいの時、中谷(仁)監督が就任されて、自分がキャッチャーとしてプロを目指す上で、指導を受けたいと思ったんです」と当時を振り返る。
高校2年生の春が「自分の中での分岐点」だったと言う。それまでは漠然と投手のボールを受けていた。中谷監督から何か言われても、あまり影響を受けずにいた。
「自分は出来ていると思っていたんです。でも、結果が全然出ていない。試合に外されて、ピッチャーからもあまり信頼されていないことに気付いて。現実を突きつけられて、『変わらなきゃいけない』『自分をどう表現していけばいいんだろう』と本気で考えました。そこからピッチャーの話をよく聞いたり、技術面でも細かいことに気を配ったり、キャッチャーとしての立ち振る舞いみたいなことも考えるようになりました」
ショートバウンドはしっかり体で止めにいく。ブルペンでポロポロとボールをこぼさない。ピッチャーにはいいボールを返す。そういう「細かいこと」を常に意識することで、信頼されるキャッチャーになろうとした。
ルーキーとは思えないほど絶妙な「間の取り方」
大学入学後のオープン戦、走者がいない場面でショートバウンドを後ろにそらしたことがある。その次のボールでホームランを打たれた。即座にベンチの安藤監督から「ほら、こうなるだろう。相手のレベルが上がれば、見逃してはもらえないんだ」と厳しく指摘された。記録の上でエラーはつかない。だが、そういう小さな隙が勝負を左右する。「再確認できました」と渡部は言う。
リードやスローイングなどの技術もさることながら、見逃せないのが「間の取り方」。タイムを取ってピッチャーのところに行くタイミングが、1年生とは思えないほど絶妙なのだ。「ベンチから指示が出ることもありますが、基本、自分で判断して行っています。それは高校時代からそうですね」と渡部。ボールをこねながらマウンドに向かい、穏やかな顔つきでピッチャーに声をかける。「それは中谷監督に教わったことです。審判に新しいボールをもらった時には、こねてロウを落としてからピッチャーに渡す。それも思いやりなんだ、と」
キャッチャーにとって一番大事なことは? と尋ねると「気付き」と答えた。それも中谷監督に教わったことだ。
「ピッチャーのささいな変化。表情だったり、投げ方だったり、そこから何かに気付いて、自分が声をかけることで、修正して、立て直していく。そのためには、まず『気付き』がないと始まらないので」
3年間、それぞれがまったく違った甲子園の風景
智弁和歌山では3年間とも、夏は甲子園で試合を経験した。それぞれがまったく違う甲子園の風景だった。1年生の時はコロナ禍で大会が中止となり、同じく中止となった春の選抜大会出場チームで行われた交流試合で甲子園の土を踏んだ。背番号19番を背負い、ベンチから先輩たちのプレーを見つめた。
2年の夏は、決勝で奈良・智弁学園との兄弟校対決に勝ち、チームとしては21年ぶりとなる優勝。この大会では全ての試合でマスクをかぶり、中西聖輝(現・青山学院大2年)や伊藤大稀(現・日本体育大2年)らタイプの違う5投手をリードした。それを見た青山学院大の安藤監督が「来てくれるかどうかは別にして、取りに行こうと決めました」とほれ込んだ。
3年最後の夏は、國學院栃木との初戦で敗退。それでも3年間で一番思い出に残る大会は? という質問には「3年の夏ですね」と答える。
「優勝した年も印象には残っていますが、やっぱり自分たちの代で行った3年の夏の方が、記憶が一番新しいというのもあるかもしれませんけど、印象は強いですね。初戦で負けたからこそ、悔しさとかも含めて、逆に心に残ってるのかもしれません」
2年秋の和歌山大会で敗れ、翌春の選抜大会には出場できなかったが、その選抜大会で優勝した大阪桐蔭とは春の近畿大会決勝で対戦し、3-2で勝利。大阪桐蔭の公式戦連勝を29で止めた。
「ピッチャー陣に関しては、優勝した2年生の時のチームの方がそろっていましたが、打つことについては遜色がない、むしろ上回っていたと思います。何が足りなかったんでしょうね? 周りの人に聞きたいです。あえて言えば、夏の連覇を目指してやってきた中で、初戦の難しさというか、みんな『一戦一戦』と言ってるんですけど、どこかで先を見てしまっていた気がします。『大阪桐蔭とどこで当たるんだろう?』というのも、やっぱり考えてしまいましたし」
「全シーズン、ベストナインを取り続けたい」
大会後は高校日本代表に選ばれ、U-18ワールドカップに出場した。この世代を代表するキャッチャーであることは間違いない。プロを考えなかったのだろうか?
「高卒でプロに行きたいと思って智弁和歌山に入ったんですが、進路を決める高2の冬、いざプロに行くのかと思って自分の実力を見直した時に、何か突出した能力というか、肩であったり、バッティングであったり、飛び抜けたところがなかったんです。この状況で背伸びしてプロに行っても、チャンスは少ないだろうな、と。それなら大学で4年間努力して、ドラフト上位で指名されて、プロでも1年目から1軍で起用されるような選手になった方がいいのではと考えたんです」
中谷監督も同じ意見だった。「プロは飛び抜けたものが何かないと難しい」と、何度も渡部に言っていた。自分自身のプロ野球人生を重ね合わせていたのかもしれない。
「もし僕が行けると思ったら、監督は絶対に勧めてくれたはずです。だから、自分でも自信を持ちきれない面がありました。2年生の夏に優勝したといっても、自分の代では成績を残せていなかったし。技術でもメンタルでも、高校生の中で上の方であっても、プロはレベルの違う世界ですから。今も、自分の選択は間違っていなかったと思います」
いくつか誘いがあった中で青山学院大は「プロに行くにはどこが一番良いのか」という判断基準のもと、選択した。
「いろんな人から『東都はレベルが高い』と聞かされて、そういうところでやることで自分のレベルも上げられると思いました。それと、青学大の少人数制というのが魅力でした。智弁和歌山もそうだったのですが、少ない人数だと選手間のコミュニケーションがしっかり取れるし、ピッチャーとも話がしやすいじゃないですか」
入学した時には「4年間で1度は優勝してみたい」と考えていた。しかし1年春からリーグ優勝、そして日本一。勝ち点を落としたこともなく、公式戦では連勝が続いている。喜びがある半面、今後のハードルは一気に上がり、この先チームの成績や個人記録が下がると、周りからは厳しい評価をされることもあるだろう。
「ずっと試合に出続けなきゃいけない。そこは責任感を持って、気を抜くことなくやっていきます。でも、ずっと勝ち続けるというのは現実的ではないので、負けた時のこともある程度覚悟して。今はなかなかイメージできないんですけどね」
大学4年間で、どんなキャッチャー像を確立するのだろう。目標は上方修正され、「卒業まで全シーズン、ベストナインを取り続けたいですね」。渡部は本気で狙っている。