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特集:あの夏があったから2023~甲子園の記憶

立教大学・西川晋太郎 5季連続安打、中でも「成長が凝縮された」奥川恭伸からの一打

智弁和歌山時代は5季連続で甲子園に出場した立教大の西川(撮影・井上翔太)

高校球児なら誰しもが夢見る甲子園に5季連続で出場したのが、立教大学の主将・西川晋太郎(4年、智弁和歌山)だ。2年春の第90回選抜高校野球大会では準優勝も経験した。加えて5季連続で安打も記録。この偉業を成し遂げたのは他に、PL学園のKKコンビ(桑田真澄と清原和博)や智弁和歌山で西川と同学年だった黒川史陽(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)ら他に4人しかいない。

5季連続出場に5季連続安打。甲子園の歴史に名を刻んだ西川に高校時代を振り返ってもらった。

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小学生のときに甲子園で試合を見て、智弁和歌山に憧れ

西川が智弁和歌山高のユニホームを着たいと思ったのは小学校時代だ。

「4年生の時に甲子園で試合を見まして。強いし、赤を基調としたユニホームがかっこいいなと。地元・和歌山のチームですし、僕も智弁和歌山に入って、甲子園で活躍すると心に誓ったんです」

中学では強豪の紀州由良シニアでプレー。中心選手として2度全国大会に出場した西川は、甲子園で3度の優勝(春1回、夏2回)に導いた名将・高嶋仁監督(当時)に評価され、智弁和歌山の一員となった。

子供の頃から憧れていたユニホームに初めて袖を通したのは、入学して少し経った頃だった。1年生ながら練習試合でスタメンに抜擢(ばってき)された。だが、そのチャンスを生かすことはできなかった。守備ではミスを、打席では凡退を繰り返してしまった。

各学年の部員が10人程度と、少数精鋭の智弁和歌山はチーム内の競争が厳しい。巡ってきたチャンスをものにできなければ、「次」はなかなか訪れない。もしこのまま夏の大会を迎えていたら、西川の5季連続甲子園出場はかなわなかっただろう。

立教大では今季の主将を務める(撮影・上原伸一)

ゴロを一つさばくまで、足の震えが止まらなかった1年夏

「次」はやって来た。6月に行われた愛知・中京大中京との練習試合で、2試合目に起用された。1年夏からの甲子園出場を目指していた西川にとっては、これがほぼ最後のチャンスだ。必死に食らいついた。ショートでの守りも無難にこなし、ヒットも放った。

3年生ショートのレギュラー選手が調子を落としていたのもあり、西川はこれを機にレギュラーへの階段を上っていった。和歌山大会で優勝に貢献すると、甲子園でも背番号「17」でメンバー入り。1年生では他に、黒川と東妻純平(現・横浜DeNAベイスターズ)もベンチに入ったが、その中で唯一、全2試合に先発出場し、計3安打をマークした。

「1年生から出たいと思っていた甲子園でしたが、初めての試合で一つゴロをさばくまでは足の震えが止まりませんでした。応援の迫力にも圧倒されてましたね」

甲子園で全国レベルを経験するたび、自身も成長した(撮影・小林一茂)

高嶋前監督にたたき込まれた野球の厳しさ

1年夏から甲子園で試合に出たものの、以降もレギュラーの座が確約されたわけではない。秋からは背番号「6」を付けたが、「高嶋先生の信頼を得られたとは思っていませんでした。いつ外されるかわからない。とにかく結果を出し続けるしかない。その一心でしたね」

信頼を得るため、徹底的に磨いたのが守備だった。「守れる選手は使うと、聞いていたので」。全体練習が終わると、グラウンドに残ってボールを追った。「打球の入り方と、送球につながるステップを体に覚え込ませました」

ノックを打ってくれたのは、当時は部長で元プロ野球選手の中谷仁監督だ。

「中谷さんは僕らの入学と同時期に部長に就任したのもあり、監督になってからも話しやすかったです。『こういう打ち方をしたいのですが』と相談すると、そのメリットとデメリットを具体的に教えてくれました。野球人としてのベースを作ってくれた方ですね。大学に入ってからもよく連絡をさせてもらってます」

守備にも自信がつき、2番ショートで臨んだ2年春のセンバツ。西川は準優勝を経験した。これが全5度の甲子園で最高成績になったが、この大会、準決勝の神奈川・東海大相模戦でエラーをしたことしか覚えていないという。

「自分の横を打球が抜けていった瞬間、そのシーンがいまも脳裏に浮かびます。強い打球ではありましたが、グラブの出し方が良くなかった。失点にもつながり、次の守りから、ベンチに下げられました。途中交代は初めてでした。幸いにも(延長10回で)試合には勝てたんですが、野球は甘くないと、甲子園に教えられました」

「野球は甘くない」。甲子園での学びを神宮でも生かす(撮影・井上翔太)

第100回記念大会で大きな盛り上がりを見せた2年夏は初戦敗退。この夏限りで勇退した高嶋前監督は、西川にとっては近寄りがたい名将だった。普通の会話をした記憶はほとんどなかったが、1度だけ、いつもとは違う顔を見たことがあった。

「(2018年)春のセンバツ出場が決まった日のことです。屋台のラーメンをみんなに振る舞ってくれたんですが、食べている僕らを見つめる表情が好々爺(こうこうや)のようで……。高嶋先生の別の一面を感じました」

打撃好調の時は応援曲も大声援も聞こえない

自分たちが最上級生になった2年秋、西川は全国制覇を狙えるチームだと感じていた。「同期には高卒でプロ入りした黒川と東妻がいて、投手は大学でも同期になった池田陽佑が大黒柱に成長していた。下級生にも好選手がそろっていましたから」

そんなチームを主将として引っ張っていたのが、黒川だった。

「黒川は『ザ・キャプテン』で、同期のなかでも別格でしたね。1年の時から野球に対する向き合い方が僕らとは違いました。野球になると顔つきが変わるんです。ものすごく刺激を受けましたし、黒川に負けたくない気持ちが、自分を高めてくれたと思います」

西川はいまも黒川を意識している。「戦っている世界は違いますが、すごく気になります。アンケートで「好きな選手」の項目があると、黒川史陽と書きますから(笑)」

4度目の甲子園になった2年春のセンバツはベスト8で終わったが、西川は15打数7安打とよく打った。「2年の夏あたりから打撃練習にも力を入れるようになりました。1年時にたくさんノックを受けたことが、バッティングでも大事な下半身強化につながったところはあると思います」

甲子園で打撃好調の時は、構えた瞬間に応援曲も大声援も聞こえなくなったという。「集中できている時はそうでしたね。逆に聞こえてくるときは、結果も良くないことが多かったです」

5季連続出場は「仲間とともに甲子園を目指した結果」

西川にとって甲子園のハイライトは、3年夏に石川・星稜と戦った3回戦だ。優勝候補同士の一戦。相手投手は同世代でナンバーワン投手と呼ばれていた奥川恭伸(現・東京ヤクルトスワローズ)だった。「その奥川から打ったヒットに、高校野球生活での成長が凝縮されていた気がします」

最後の夏は星稜の奥川から一時同点に追いつく適時打を放った(撮影・田辺拓也)

最後の夏、2回戦の明徳義塾戦で2安打していたものの、自分の中ではしっくりきていなかった。そこで「タイミングの取り方を変えてみよう」と奥川との対戦を前に思い立った。「奥川が投げている動画を見ながら、そのタイミングで打つイメトレをひたすら繰り返しました」

成果は出た。0-1で迎えた六回2死一、二塁、ライト前への適時打。同点に追いつく値千金の一打だった。「ここで打ってほしいところで、あの奥川から打てた。鳥肌が立った1本でした」

試合は延長14回の末に敗れ、5度目の甲子園は終わった。「目標だった全国制覇には届きませんでしたが、やり切った感がありました」

5季連続ヒットは全く意識していなかったという。

「5季連続出場も、5季連続ヒットも、自分1人で達成できるものではないので。チームの仲間とともに甲子園を目指してきた結果だと思ってます」

5季連続出場も5季連続ヒットも「1人で達成できるものではない」(撮影・長島一浩)

黒川をはじめ、東妻、池田の同期3人と切磋琢磨(せっさたくま)したから、成長できたとも思っている。黒川と東妻は一足早くプロ入りしたが、西川も社会人野球を経由して、同じ世界に行くつもりだ。

まずは秋に控えている最後のリーグ戦で完全燃焼する。「勝ち点1」で終わった春の悔しさをバネに、心技体で「セントポール軍団」の先頭に立つ。

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