野球

特集:駆け抜けた4years.2023

立教大・山田健太 指名漏れの後、8社からオファー 必要とされ「ありがたいの一言」

ドラフト会議から約3カ月が経ち、当時の心境を語った(撮影・上原伸一)

昨年のドラフト会議で、ある意味一番話題になったのは、立教大学の山田健太(4年、大阪桐蔭)が指名されなかったことだった。あれからおよそ3カ月。内定している日本生命での野球継続が決まり、すでに「2年後」に向かっている山田に、いまだから話せることや、ドラフト後に母校で教育実習をした経験などについてじっくり聞いた。

初めて味わった大きな挫折

「さすがにこたえましたね。初めて味わった大きな挫折だったかもしれません」。山田は静かにあの日を振り返る。
ドラフト上位候補だった「右のスラッガー」は、最後まで名前が呼ばれなかった。絵に描いたような野球エリートがまさかの指名漏れ……。ネット上はざわつき、ツイッターのトレンドにも自身の名前が上がった。

高校時代は2年春、計12安打8打点の活躍で第89回選抜高校野球大会の優勝に貢献。三塁手から二塁手に転向した3年時は、同期の根尾昂(現・中日ドラゴンズ)や藤原恭大(現・千葉ロッテマリーンズ)らとともに、春(第90回選抜高校野球大会)夏(第100回全国高校野球選手権記念大会)甲子園連覇の一翼となった。立教大でも1年春からレギュラーを張り、4年春終了時までに現役最多となる75安打をマーク。侍ジャパン大学日本代表でも主将を任された山田は、間違いなく昨年の大学野球の「顔」だった。

立教大では1年春からレギュラーとなり、昨年は主将を務めた(撮影・井上翔太)

ドラフトで味わった大きな悔しさとともに、本人にはこんな思いもあったという。

「ドラフト上位候補とは報じられていましたが、それを発信していたのはメディアであって、球団のスカウトがそう公言していたわけではないので。考えてみると、周りが言っていただけなのかな、と。ドラフト(の評価)は本当にわからないですね。ただ自分としては4年間、精いっぱいやってきたのは確かです」

ドラフト終了直後から続々とオファー

気持ちを切り替えるきっかけになったのは、社会人チームから続々と舞い込んだオファーだった。1本目の電話はドラフト会議が終わると、すぐに寮にかかってきた。「山田君と話がしたい」。大阪桐蔭の西谷浩一監督にドラフトの結果報告の連絡を入れ、今後の相談をしていた矢先だった。

ドラフトで名前が呼ばれないのは、その時点ではプロから必要とされていないことを意味する。ドラフトに限らず、必要とされていない現実ほど、人の気力を失わせるものはない。自分は必要とされている――。計8社からあった打診は、うつむきかけた端正な顔を再び上向かせた。

「(8社から必要とされたのは)ありがたい。ありがたいの一言です」

ドラフトの翌週に行われた東京六大学リーグ、明治大学との試合では、いつもの山田に戻っているように映った。

「ドラフトから1週間以上経っていたので、だいぶ気持ちの整理はできてました。平静を装っていたところもありますが(笑)、これが現実だと受け止めるしかなかったですし……。それに主将としての責任、東京六大学で4年間やってきた責任もあったので、私情を持ち込むわけにはいかないと。大学最後となる明大戦をいい形で終えたい。それだけを考えてました」

ピンチのときは積極的に投手を励ました(撮影・井上翔太)

様々な価値観に触れられた教育実習

大学時代、最も印象的な試合として挙げるのが、4年春、明大とのカードだ。2勝して勝ち点を奪えば優勝だった。だが、1回戦は延長12回の末に引き分け、2回戦は1点差負け。勝負の3回戦は延長11回にサヨナラ負けと、2017年春以来となる栄冠には惜しくも届かなかった。

「優勝をかけての対決は高校以来で、緊張感があった中、自分のプレーができませんでした(山田は2回戦では3安打を放つも、3試合で計14打数4安打)。悔しい思い出として残ってますね。もっと自分に自信を持てれば、結果が違っていたかもしれません。どこか自信がなかった。その理由はわからないのですが、確固たる自信がなかったんだと思います」

はたから見ると意外な言葉のように聞こえる。山田は計3度の優勝した高校時代も、リーグ戦で5回も3割以上をマークして2度のベストナインに選出された大学時代も、順調だったとは思っていないという。「誰一人、全てがうまくいって成功した人はいないと思います」。周りの見方と本人の考えが異なるのは、世の常なのかもしれない。

山田は昨年、11月初旬から3週間にわたり、母校の大阪桐蔭で教育実習を行った。大学進学を決めた時から、野球と学業を両立し中学高校の教員免許(保健体育)を取ることを決めていたという。

「母親が小学校の先生をしている影響もありますが、野球しかしてこなかったので、もう一つ、自分の中で武器と言えるものがほしかったんです」

教育実習は得難い経験になったようだ。

「僕は野球関係の人脈はありますが、それ以外の人とは、接することもほとんどありませんでした。教育実習では、いろいろな先生や生徒と話す機会があり、様々な価値観に触れることができました。自分の視野を広げる意味でも、とてもプラスになったと思います」

母校での教育実習は新しい価値観に触れる貴重な機会となった(撮影・上原伸一)

教育実習では「自由に使っていい」という時間をもらい、担当したクラスの生徒たちに、自分のこれまでについて話した。ドラフトでの心の揺れ動きも、包み隠さずに伝えた。話し終えると「(指名漏れの時は)どうやって気持ちを切り替えたんですか? という質問もありました」。山田の経験談は、母校の後輩でもある高校生の良き教材になったに違いない。

「支えてくれている人たちを喜ばしたい」

今年から、日本生命硬式野球部でプレーする。日本生命は都市対抗優勝4回、日本選手権優勝3回を誇る社会人野球の名門だ。プロ野球選手を数多く輩出していることでも知られる。

「自分がレベルアップするための環境が整っていると思い、日本生命さんにお世話になることになりました。社会人では全てを一から鍛え直すことを大前提に、その上で二塁手としての守備も成長したいです。もちろん、打撃もです。今年から特別コーチに就任された日本生命OBの福留孝介さん(中日、阪神、大リーグなどで活躍し、昨季限りで現役引退)から指導を受けるのも楽しみにしています」

大学の特に3、4年時は、ドラフトを意識するがあまり、空回りしていたところもあったという。「2年後、大卒選手のドラフト指名が解禁となる年に、自分ができることを出し切り、それを評価してもらえたら」。今回の経験で学んだことを糧に、スケールの大きい選手になるつもりだ。

目標としていたプロ入りはかなわなかったが、大学では自分を高めてくれる機会にも恵まれた。中学時代以来となる主将を務めたこともそうだ。「自分から手を挙げて主将をやらせてもらい、これまで頭の中になかったことも考えながら野球をすることができました」。ピンチの場面では、主将が不安そうな顔をするとチームも伝わると、あえて笑みを浮かべていたのが記憶に新しい。大学日本代表で主将を担ったのも、なかなかできない経験だった。

大学日本代表でも主将を務め、高校日本代表との試合では一塁を守った(撮影・井上翔太)

つきものが落ちたように、すっきりした表情になっていた山田。振り向くことなく、前だけを見つめている。取材の終わり、こんな言葉で締めくくってくれた。

「ドラフトが終わってから、僕はこれまでいろいろな方に支えられて野球をしてきたんだと、しみじみ感じました。あらためて周りの方の大切さがわかりました。今後はそういう方たちに喜んでもらえるような活躍をしたいです。山田健太という人間を、選手を、応援してもらえればと思います」

「2年後」に向けて、赤を基調とする日本生命のユニホームに袖を通し、活躍を誓った。

【特集】2022年 大学球界のドラフト候補たち

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