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特集:あの夏があったから2022~甲子園の記憶

立教大学・小畠一心 今だから語れる、エースを争った西村王雅とのライバル関係

春季フレッシュトーナメントで初めて神宮のマウンドに上がった(提供・立教大学野球部)

第104回全国高校野球選手権大会はベスト4が決まり、大会も佳境です。4years.では昨年2年ぶりに開催された舞台に立ち、その後、大学野球の道に進んだ1年生の選手たちに、高校時代のことや、悪天候に悩まされた昨夏のこと、今の野球につながっていることを聞きました。「あの夏があったから2022~甲子園の記憶」と題して、大会の期間中にお届けしています。今回は立教大学の小畠一心(智弁学園)に高校3年間の思い出や、エースを争った西村王雅(現・東芝)とのライバル関係について語ってもらいました。

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「足が震えた」初めての甲子園

小畠は高校時代、4度の甲子園出場を経験している。まだコロナ禍になる前で、多くの観衆が詰めかけた2019年の第101回全国高校野球選手権大会、翌夏の甲子園交流試合、そして昨年の春と夏だ。

4度のうち、一番思い出に残っている場面は?

本人に尋ねると、意外な回答が返ってきた。てっきり準優勝した昨夏のことだと思っていたが、高校1年だった頃を挙げたからだ。「一番は、入学してすぐに夏の甲子園に出て、自分が初戦に先発して、ホームランを2本打たれて、三回ぐらいで代えられた試合ですね。武岡(龍世)選手(現・東京ヤクルトスワローズ)にバックスクリーンにホームランを打たれて、現実を見ました」

名門校で1年のときから先発マウンドを任された(撮影・朝日新聞社)

入学直後の春季大会から、公式戦で登板していた。奈良で行われた近畿大会では、準決勝の近江(滋賀)戦で好投し「これぐらいで抑えられるんや、と調子に乗っていたところがあった」。ところが甲子園の先発マウンドに立つと、「足が震えましたね」。チームは後攻だったため、足跡もなく整備されたマウンドに最初に立ち、ぱっと周りを見渡すと、見たこともない数のお客さんが入っていた。「つい半年経たないぐらいのときは、中学生ですよ。すごすぎて、全員が敵に見えたんです」

最初の夏を終えた後は、「自分の実力を思い知らされて、落ちるところまで落ちました」。練習試合も本来の実力を出せない試合が続いた。

成長曲線がまた上向き始めた転機は、秋の近畿大会だった。準々決勝の智弁和歌山戦でエースの西村がつかまり、乱打戦となった。「最後は自分が投げるしかなかったんです。それまではベンチにいるだけの存在でしたけど、『しゃあない、いけ』みたいな」。試合は17-13で勝ち、小畠は試合を締めた。ここからまた歯車がかみ合い始めた。「練習の意識も高いつもりだったんですけど、うまいこといかへんなというのが続いていました。でもここから冬を越えて良くなった感じですね」

「いつでも行くで」「出てくんな」

当時のチームと小畠を語るときに欠かせないのが、西村の存在だ。ともに1年から甲子園のマウンドに立ち、新チームからは背番号1の座を争ってきた。2年夏の甲子園交流試合は、西村が中京大中京(愛知)を相手に1人で投げきった。「そのときは西村がめちゃくちゃよかったです」

西村(手前)とは常に「背番号1」を争ってきた(撮影・田辺拓也)

2人の間には、お互いを強く意識し合っているような緊張感が流れるときがある。先発した西村が守備を終えてベンチに帰ってくると、小畠が「もうしんどいやろ。いつでも行くで」と話しかけ、西村から「出てくんな」と返されるやり取りもあったという。2人とも我が強く、それぞれに自分の意思があるから、自分の領域に入ってこられることをお互いに好まない。「投げる球種も、自分たちで決めてました。キャッチャーは大変だったと思うんですけど、しっかりしていたので、言うことを聞いてくてました。もう終わったんで今だから言えますけど」

小畠が「野球の話」を一番交わしたのも、西村だった。「試合中の相手の癖とか、審判の癖とか、試合中はお互いに情報共有してましたね」。普段はライバルでも、試合に勝つという目的が一致しているときは、協力し合える相手でもあった。

一緒に修学旅行に行った相手との決勝戦

最後の夏となった昨年の甲子園は、相手チームの特徴に合わせて「打線がある程度、点を取ってくれるはず」「ここは締めていかないと」と戦い方を変えていった。最もチームが引き締まっていたのは、準々決勝の明徳義塾(高知)戦だったという。「絶対にロースコアになると分かっていたんで、自分も西村も『ここは気合を入れるところやな』と。隙を見せたらいかれるんで」。1点を追う九回に逆転サヨナラ勝ち。続く準決勝は、小畠が投打にわたって活躍し、決勝の舞台に進んだ。

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高校3年の夏、準決勝の京都国際戦では本塁打を放った。「最初は野手で智弁に入ったんです」(撮影・白井伸洋)

決勝は智弁和歌山との「兄弟校対決」となった。普段から交流があり、2年のときには一緒に四国へ修学旅行に行った。もともと北海道の予定だったが、コロナ禍の影響で行き先が変更になったという。「自分と西村、和歌山の宮坂(厚希、國學院大學)、徳丸(天晴、NTT西日本)の4人でご飯を食べました。近畿大会は自分たちが優勝してるんで、ちょっと上から目線な野球の話をしていたんですけど(笑)、まさか甲子園の決勝でやるとは思わなかったです」。

大会前半は悪天候による順延が相次いだことで、後半は「2連戦をして1日空けて2連戦」という窮屈な日程になった。チームも疲れ気味で「決勝の日は、朝5時ぐらいに起きて、ホテルの廊下でストレッチをするんですけど、みんな『今日は無理』とか言ってました」。決勝は本調子からは程遠く、2-9で敗れ、準優勝となった。

最後の夏は決勝の舞台までたどり着いた(撮影・田辺拓也)

今の先輩たちは「雲の上の存在過ぎる」

小畠が立教大を志したのも、智弁のつながりが大きく影響している。「まず太田(英毅)さん(現・東芝)がいて、和歌山の池田(陽佑)さん(3年)、西川(晋太郎)さん(3年)もいて『いいなあ』と思っていました」。この春季リーグからベンチに入り、荘司康誠(4年、新潟明訓)や島田直哉(4年、龍谷大平安)といった先輩たちのマウンドさばきを間近で見てきた。

「雲の上の存在過ぎて、手も足も出ないですけど、荘司さんたちがいる1年間は、いいところをすべて盗めるようにしたいと思っています。抜けてからは『次は自分や』という気持ちで、池田さんに並ぶぐらいまでにはいきたいです」

春季フレッシュトーナメントでは、初めて神宮で登板した。マウンドは「めっちゃ硬かった」というが、それも経験。慌てずに、じっくりと大学レベルに追いつこうとしている。

今季は「いいところを盗む」1年。4年間で飛躍となるか(提供・立教大学野球部)

野球よりも苦しんでいるのは……

大学生活で「野球以上に苦しんでいる」というのが勉強だ。「野球も必死なんですけど、まず勉強についていくのが必死です」。特に第2外国語の中国語は「日本語も怪しいのに……」と自信なさげ。授業を優先して、合間に練習の時間がある環境は「うまいこと切り替えをしないと、練習中に勉強の頭になったら良くない」

効率よく時間を使うこと。そのためにここまで頭を使うことは、想像していなかった。昨夏の頂点を争った投手はいま、さらなる成長を遂げるために、新鮮な時間を過ごしている。

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