野球

特集:2023年 大学球界のドラフト候補たち

青山学院大・常廣羽也斗の「分岐点となった試合」 ドラフト候補のスイッチが入った日

大学3年の秋から急成長を遂げた青山学院大の常廣(撮影・佐伯航平)

この春の東都大学野球リーグで、全チームから勝ち点を挙げる完全優勝を成し遂げた青山学院大学。2006年春以来、17年ぶりとなる優勝の原動力になったのは、下級生の頃から主戦として経験を積んできた4年生の投手陣だ。中でも優勝を決めた國學院大學戦で先発を任された最速153キロ右腕・常廣羽也斗(つねひろ・はやと、4年、大分舞鶴)には、秋のドラフト上位指名候補として、注目が集まっている。

直接大学に問い合わせ、練習会に参加

「僕はプロに行くために、ここ(青学大)に来ました」

常廣ははっきりと口にする。フォア・ザ・チームが優先される学生野球では誤解を招きかねないが、チームを率いる安藤寧則監督は「私はそれでいいと思っています。全然、口に出して構わない。そういうモチベーションを持って、結果を出してくれることがチームへの貢献ですから」と牙を折ることなく育ててきた。

高校卒業後も野球を続けると決めたときから、「レベルの高い東京六大学か東都リーグでやりたい」という希望を持っていた。だが全国大会への出場経験がなく、大分県のベスト4が最高成績では実績が足りず、スポーツ推薦で進める大学はなかった。そこで「自分で(進路を)選べるんだ」と発想を転換。大学に問い合わせて練習会に参加し、指定校推薦で青学大に入学した。部員数の枠が少なく、少数精鋭の方針を取っている青学大だが、大分舞鶴からは3学年上の先輩が在籍していたこともあって、常廣も入部を許された。安藤監督は「こちらが声をかけた選手ではありません。自分から来てくれた。それだけに覚悟もあったと思います」と言う。

大学に問い合わせて練習会に参加し、入部を勝ち取った(撮影・矢崎良一)

当時、青学大は2部。常廣は「ピッチャーは4学年で20人足らず。試合に出るチャンスが多い」と考えていた。だが、その20人はえりすぐりの20人だったことを思い知らされた。入学早々、同じ新入生の下村海翔(4年、九州国際大付)の投げるボールのすごさに圧倒された。「速さも、ボールの力も、その時点で僕が見てきた右投手の中で最高のピッチャーでした」と常廣は振り返る。

青山学院大・下村海翔投手 手術から1年ぶりの復活のマウンドで更なる飛躍誓う

当初は力任せに投げていた

入学した春のシーズンはコロナ禍でリーグ戦が中止となった。秋は下村と松井大輔(4年、県岐阜商)の1年生コンビが先発を任されて2部で優勝し、1部へ昇格。常廣は「僕はボールボーイしてました」と苦笑する。

「松井は松井で、スピードは140キロそこそこなのにストレートで空振りを取れる。ボールの質が良いんです。自分が試合で投げるには、こいつらを抜かなきゃいけないのか、と。勝てる気がしなかったですね」

初めての1部で迎えた2年生の春、開幕戦の東洋大学戦に八回からリリーフとして公式戦初登板。2イニングを無安打、2奪三振と無難なデビューを果たした。その後もリリーフで起用され、ストレートは140キロ台後半を計測するのだが、痛打を浴びることも多かった。シーズン防御率は7.36だった。「ただストライクゾーンに力任せに投げていただけなので、ちょっと調子が落ちれば抑えられない。でもどうして調子が落ちているのかが自分でわからないし、修正の仕方もわからないという状態でした」

視野に入っていたのは、相手打者ではなく、球場のスピードガンとネット裏のスカウトたちの姿だった。「とにかく速い球を投げることだけ考えていました」と言う。

「高校まで無名だったし、リリーフで投げているから勝敗とかの記録がつくわけでもない。そしたらスカウトの人たちに目を向けてもらうには、下級生のうちから球速を出してポテンシャルを評価されるしかないと思っていたんです」と当時の気持ちを正直に明かした。

当初は「とにかく速い球を投げることだけ考えていました」(撮影・佐伯航平)

ピッチャー陣の指導を担当する中野真博コーチから、試合のたびに「それじゃダメだよ」と諭された。中野コーチは「力を入れなくても良いボールは投げられる。もっと体のひねりを使いなさい」とピッチングのメカニズムを根気強く説き続けた。それでも常廣は「その時はまだ、中野さんの言われていることが全然理解できなかったんです」と、自己流のフォームで投げ続けた。

理にかなっていないフォームからでも140キロを超える球速を生み出せるのは、「地面の使い方がうまいから」と自己分析する。子供の頃から足が速く、ジャンプ力もあった。地面を蹴る力が強いので、その反発力がボールに伝わる。だから細身でも、しっかり腕を振って投げれば球速が出た。

とはいえ、力任せのフォームは負担がかかる。続く秋のシーズンは、右腕の痛みを発症し登板ゼロに終わる。腕がしびれるような症状で、高校時代から何度かあり、大学1年の秋にも経験していた。病院で検査をしても関節や靱帯(じんたい)に異常はなく、そのたびに痛みがなくなるまでピッチングを控えるしかなかった。医師の説明では、力任せに投げていることで腕の筋肉に負担がかかり、それが神経を圧迫しているのではないか、ということだった。

故障の一方、投げ方は間違っていなかった

ようやく投げられる状態になった3年生の春。開幕戦は大分県(別大興産スタジアム)で開催された。「地元だし、そこで投げるためにオープン戦でも必死にやっていたんで」と心に期すところがあったが、調整が間に合わず、大分入りして試合前日のミーティングで、ベンチ入りメンバーから外れることを告げられた。

当日は裏方として、朝から球場前の駐車場で交通整理をした。試合中はバックネット裏の観客席で、データ班の一員としてスコアをつけた。そこに家族や高校、中学時代の指導者、同級生たちが観戦に訪れた。顔を合わせれば、「どうしたんだ?」と声をかけられた。安藤監督は「悔しかったと思いますよ。あそこから取り組みが変わったように私には見えました」と言う。

そして常廣自身が「自分にとって分岐点となった試合」と言うのが、大分開催の次のカードとなった中央大学戦。四回1死からリリーフで登板し、公式戦では自己最多の5回3分の2を投げて、2安打6奪三振。試合は延長タイブレークの末に敗れたが、自己最速となる152キロを計測した。この試合、常廣は登板中に右足内転筋の肉離れを起こしていた。ただこれは「良い故障」だった。

中野コーチと取り組んだ、上半身の力に頼らない、下半身を使った理想の投球フォーム。「そこ(内転筋)が痛くなったということは、今まで使えていなかった箇所が使えていたからこそ、張りが出てしまったわけですから、故障はしたけど、投げ方としては間違っていなかったということなんです」と常廣は言う。中野コーチからも試合後、「今日の投げ方でいいんだよ」という言葉をかけられている。

「あそこで吹っ切れました」と言う常廣。春は故障の影響もあって登板機会は少なかったが、秋はリリーフでフル回転。8試合に登板し、リーグ戦初勝利を含む2勝1敗の成績を残す。ストレートも自己最速を更新する153キロをマークした。

球速が、高校3年間で128キロから142キロに14キロアップ。大学では142キロから現時点で153キロと11キロアップした。この成長の要因を聞くと、「高校時代は身長も体重も大きくなって、身体能力が上がったから。大学では周りにレベルの高いピッチャーがいて、毎日見て、一緒に練習をする中で自然にそうなった」と言う。

上半身の力に頼らないフォームを身につけ「吹っ切れました」(撮影・佐伯航平)

アップデートされた「納得いくボール」のイメージ

4年生になった今季は、ドラフト上位指名候補として注目が集まる中、開幕戦の先発を任された。2カード目の日本大学戦では初めての完投。何よりも昨秋、あとアウト二つが取れずに逃した優勝を、今季は勝ち取った。「優勝って経験したことがなかったんで、こういう感じなんだな、と。最後のマウンドに自分がいられなかったことは、ちょっと悔しいと言えば悔しいんですけど」と笑う。胴上げ投手となったのは松井。下村と常廣の3人が、それぞれ3勝ずつを挙げている。

「僕は何勝何敗とか、個人の成績にはまったく興味がなくて。こんなこと言っちゃいけないけど、チームの勝敗もあまり気にしていない。僕自身が良いピッチングをすることしか考えていないんです。自分が納得のいくボールを投げられたら、監督から信頼してもらえて、大事な試合を任されることも増えてくるわけですから。そこで結果を出すことが、自分の評価につながる」

出てくる言葉は入学した当時と変わっていない。でも、「良いピッチング」や「納得のいくボール」のイメージが4年間でアップデートされている。

「もちろんスカウトにアピールしたいのですが、だからといってスカウト受けするボールを投げようとは思っていないんです。自分が追い求めるボール、中野さんに教わっているピッチングができて、それをスカウトに評価されてプロに行きたい。速い球だけでなく、打たれない球、良い球を投げるピッチャーにならなきゃいけないと思っています」

大学選手権から秋のシーズンに向けて。常廣はまだ進化を続けている。

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