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國學院大時代に経験した「チーム存続の危機」 B1川崎U15女子・関彩未コーチ前編

U15川崎ブレイブサンダース女子の関彩未アシスタントコーチ(撮影・井上翔太)

バスケットボール・Bリーグの川崎ブレイブサンダースは、未来のトップ選手輩出などをめざして2020年4月、U15女子チームを設立した。ここでアシスタントコーチとして、日々子どもたちと向き合っているのが関彩未さんだ。自身は選手だった國學院大學時代、「チーム存続の危機」を味わった。東京都の強豪・実践学園高校で培った経験や、部員不足に悩んだ大学時代について聞いた。

強豪校でバスケを続けることに決めた母の一言

小学4年生のとき、競技を始めた。二つ上の兄やいとこも全員バスケをやっており「練習試合を見に行ったときに監督から誘われて、練習してみたら楽しくて、入っちゃいました」。当時は「仲のいい小学校の友だちと楽しくバスケをやる」感覚だったが、徐々に元来の負けず嫌いな性格が顔を出すようになった。中学は「同じチームの子たちより、うまくなりたい」と思い、中高一貫の実践学園に進んだ。

実践学園中には東京都内だけでなく、他の地方からも有力な選手が集まってきていたという。そこで関さんに任されたのは、試合の途中から出場してチームにいい流れを呼び込むシックスマン。「中学3年のときも、後輩がスタートで出ていました」。試合の最初からコートに立てない悔しさをほんのりと感じつつ、自分の役割に徹した。

中学校のときからスタートで出られないのなら、高校では試合にすら出られないのではないか――。進路についてそんな悩みを抱えているとき、母親から「ずっとベンチでもいいなら、そのまま実践に上がってもいいんじゃない」と言われ、負けず嫌いに火が付いた。「ずっとベンチなのか、やってみないと分からない」。進路を内部進学に絞り、夏に中学の部活動を引退すると、夏休み中は高校の練習に参加した。授業が再開されても朝練を行い、ランニングやシューティングをして能力向上に努めた。

子どもの頃からバスケ中心の生活を送ってきた(本人提供)

AO入試締め切り1週間前「スポーツ推薦なくなりました」

高校では自身が1年でチームがウインターカップに出場したときにベンチ入りを果たし、2年からスタートで起用された。当時から「オフェンスよりもディフェンスの方が好き」だったと振り返る。「24秒オーバータイムを取ったり、スチールしたりしたときは『楽しい!』って感じます。相手の動きを先読みするのが好きなのかもしれませんね。1個上の先輩たちはオフェンスが上手だったので、そこでディフェンスを評価されたというのもあると思います」。試合に出ることでディフェンスの楽しさを知り、ディフェンスを持ち味にすれば、さらにプレータイムをもらえた。

高校時代の夢は「体育教師になること」だった。進学先には日本体育大学を希望したが、「体育の先生になれるのは本当に一握り」と説得され、夢を諦め、勧められた國學院大學を受験することになった。國學院大とは練習試合をすることもあった。「アピールの場とずっと思いながら、試合に出ていました。東京成徳大高校とか明星学園とか強豪出身の選手が多くて、フィジカルもスピードも全然違うので、入るのは心配でした。大学でバスケをしても『試合に出られるのかな』と」

スポーツ推薦での進学をめざしたが、思わぬところで水を差されることとなる。「AO入試の締め切り1週間前ぐらいに、國學院の監督とヘッドコーチが地元に来たんです。何かと思ったら『スポーツ推薦がなくなりました』と言われて……。急きょAO入試で受験することになったんです」

AO入試に必要な課題図書を踏まえた小論文を残りの1週間で仕上げ、面接も何とかこなし、「どうにか受かりました」。ただ本来ならスポーツ推薦で同期となるはずだった強豪校出身の選手たちは、別の大学に進んでしまった。「結局、同期もあんまり集まらなかったんです」。これが後々、自身を苦しめることとなる。

体育の先生にはなれなかったが、図らずも今は選手を教える立場となった(撮影・井上翔太)

大学で初めて取り組んだウェートトレーニング

大学では初めてウェートトレーニングに取り組んだ。「たぶん東京の選手ってあんまりやってなかったんですけど、神奈川の選手は結構やってたんです。同期は神奈川の選手ばかりで、ベンチプレスで50kgぐらい平気で上げてるんです。私はバーだけでヒーヒー言ってて、持ち上げ方も分からなかったです」。高校時代に練習試合で感じた「フィジカルの差」を図らずもここで痛感することとなった。

ベンチプレスにスクワット、デッドリフトなどを専門のトレーナーから教わることで、少しずつトレーニングの成果が現れるようになった。「もともとシュートは得意な方で、実践学園も結構ジャンプシュートを打つチームなんですけど、トレーニングのおかげでシュートがさらに安定して入るようになったなって思います。あとトレーニングをすることで、それなりに大学の当たりにも慣れてきました」

選手個人としては着実に力をつけていったが、チームはこの後、スポーツ推薦がなくなった影響を色濃く受けてしまう。

「大学に入ったときチームは関東大学女子リーグの1部で、先輩たちもインカレに出て、私もベンチに入っていました。それが2年生のときに東京医療保健大学との入れ替え戦に負けて1部から2部に落ちてしまったんです。3年ではインカレにも出られず、3年から4年になるときは、チーム存続の危機でした」

部員不足が最も深刻な時期だった。

國學院大学時代は上級生になると少数精鋭でリーグ戦を戦った(本人提供)
3部降格の責任感じ、引退後は國學院大も指導 B1川崎U15女子・関彩未コーチ後編

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