陸上・駅伝

日本体育大・漆畑徳輝 普段は温厚な主将、伊勢路を逃した後に示した「危機感」の共有

大学3年の箱根駅伝では3区に出走。奮闘する走りを見せた(提供・saya)

10月14日の箱根駅伝予選会で、日本体育大学は76年連続76回目の本戦出場を決めた。チームの主将は漆畑徳輝(4年、山梨学院)だ。幼少期から負けず嫌いで「トランプで負けたら大泣きするほどだった」。普段は優しい笑顔で話すが、陸上になると表情が一変。目標に挑戦する情熱が人一倍強い。中学時代から数々の大舞台を経験してきた。そんな漆畑の陸上人生を追った。

柏原竜二さんや服部翔大さんを目標に

漆畑は、静岡県で生まれた。小学生の頃から体力づくりの一環として陸上を始め、地元の陸上教室に所属。最初は短距離を始めたが成績に満足できず、長距離へ転向した。地元の「島田・中日駅伝」への出場を目指し、そこで長距離の面白さと適性を発見したという。並行して水泳も習っていた。

中学から陸上競技に専念。当時東洋大学の柏原竜二さんや日本体育大の服部翔大さんといった選手たちの活躍を見て、「箱根駅伝に出たい」という目標ができたことが背景にある。

全国中学校体育大会(全中)を目標に、同じ静岡県出身で同学年の鈴木芽吹(現・駒澤大学4年、佐久長聖)の活躍にも刺激を受け「追いつきたい、勝ちたい」と練習に励んでいた。中学3年時、1500mと3000mの2種目で全中に出場したが、予選敗退。「戦える場所まで来たが、まだまだ上のレベルがいた」という実感を得て、同世代との競争を通じ、成長を遂げた3年間だった。学校生活では生徒会長を務めた。

高校は全国高校駅伝(都大路)での活躍を目指して県外の強豪・山梨学院に進んだ。寮生活をしながら、陸上競技と学業の両立に励んだ。

高校1年の12月に行われた日体大記録会で5000m14分台を記録し、高校生ランナーとして一つの基準をクリアした。「うれしいよりも、ここからがスタート」という気持ちで、さらなる高みを目指した。都大路ではルーキーながら2区で出走。躍動の1年になった。

高校時代は3年間、都大路を走った(本人提供)

翌年は自己ベストを更新するのに苦労したというが、関東高校駅伝で4区区間5位。12月の日体大記録会で5000mの自己ベストをマークし、都大路は主要区間の4区を走った。「長い距離だと苦手意識があったが、安定して走ることができた」と地道な努力で成長を遂げていった。

高校ラストイヤーは「積極的に挑戦する」ことを目標に設定。9月に雨中のレースで実業団選手たちの集団に食らいついて5000m14分10秒台と自己ベストを大幅に更新。「強い気持ちでいくことができた」と振り返る。最後の都大路では「戦える自信を持って迎えられた」と1区を任されたが、区間39位。「途中で集団からこぼれ後方に下がってしまった」と反省を口にした。その後は山梨県代表として全国都道府県駅伝に出場し、高校では集大成となる走りを披露した。「専門的な練習を学ぶことができ、全国レベルで戦える力を身につけることができた」

キーポイントとなった2年時の夏合宿

日体大に進んだのは「箱根駅伝で走りたいのと、自分にない力を身につけたい」という二つの理由からだ。

1年時は、新型コロナウイルスの影響で練習が自粛となる期間があり、制約がある中で取り組んだ。全日本大学駅伝では補員としてエントリーされ「力強さや速さが全然違う。この姿まで追いつかないといけない」と実感。3月の新潟ハーフマラソンで大学生の上位に入り「思うように走れなかった時期が続いたが、今後につながる良いレースになった」と話した。

2年では、5月の関東インカレで5000mに出場したが、脱水症状で苦しみ1部のレースで最下位に終わった。1カ月後の全日本大学駅伝関東地区選考会は、悔しさを味わった関東インカレと同じ舞台で出走。「緊張で吐きそうでしたが、関東インカレの借りを返す」と強い意気込みで臨み、10000m29分59秒の自己ベストをマーク。「最低限まとめる走りができて良かった」と困難を乗り越えた。

積極的に前を目指して走ることが持ち味だ(提供・saya)

この年「キーポイント」と語ったのが夏合宿だった。選抜チームから外れ「甘えや慢心があった」と言い「打倒選抜」の気持ちを持って練習に励んだ。「何がなんでも勝つんだ」と誰よりも距離を踏み、大きな成果となって表れたのが9月の日体大記録会。5000mで13分台をマークし「本当にうれしかった。結果に結びついて良かった」。10月の箱根駅伝予選会にも初出走し、チーム9番目でフィニッシュ。「先輩の力を借りて走れた。上級生のおかげです」と力を発揮した。

11月には全日本大学駅伝で3区を走った。初の3大駅伝で「襟付きの日体大のユニホームで走れることがうれしかった」と新鮮な気持ちをかみしめた。そして「テレビで見ていた、憧れの舞台」と話す初の箱根駅伝は7区。しかし区間19位に沈み「チームの足を引っ張ってしまった」。この悔しさを晴らすべく、残りの大学生活を過ごすと誓った。

チームメートに頼もしさを感じた箱根駅伝予選会

3年目の前半はケガの影響で走れなかったが、その分補強や体幹トレーニングで強化に充て、夏合宿から練習を再開した。11月の日体大記録会で5000m13分50秒の自己ベストをマークし「久しぶりに走れて楽しいレースだった」と感慨深げに語った。

大学3年の日体大記録会で自己ベストをマーク、レース中は楽しくて笑みもこぼれたという(提供・saya)

2年連続の箱根駅伝で任されたのは3区。区間10位となり設定した目標タイムもクリアした。「昨年の反省を生かせた」と漆畑。大学1年から学年主任を担当していたことも評価され、箱根後に日体大の主将として選出された。同期からは「お豆腐メンタル」と言われるほど、先頭に立って話す性格ではないというが「嶋野太海コーチや信頼できる同期、主務の赤池(陸、4年、大牟田)、副キャプテンの水金(大亮、4年、報徳学園)、多くの人に頼っていた」。周りのサポートを受けながら「全員とのコミュニケーションを重視して、選手の努力を観察してアドバイスしていた」と漆畑なりのリーダーシップを発揮していった。

ラストイヤー。6月の全日本大学駅伝関東地区選考会は、最終4組目で出走した。29分10秒台でゴールしたが、チームは15位に終わり、7位までがつかめる伊勢路への切符を逃した。

大会後は主将としてチームのメンバーに「選考会に全力で取り組んだ者は何人いるのか」と問いかけ「このままでは箱根駅伝予選会は通らない」と力強い言葉で危機感を共有した。チームの意識を変えるため、そして目標に対して真剣になるために伝えたという。チームメートたちは「まだできたことがありました。チームや4年生の力になれるよう頑張ります!」と声をかけてくれ、漆畑の言葉が多くの選手に伝わったと実感した。

8月の夏合宿では、玉城良二監督から「月間1人1000km走破する」という課題を与えられた。漆畑は走りで見せるだけでなく「元気よく声を出したり、練習の目的を確認したり」とチームが強くなるための姿勢を示し続けた。「着々と成長している姿を見られた」とチームの雰囲気も次第に良くなっていったという。

大学4年間同期とは、苦楽をともにした(漆畑は2列目右端、本人提供)

そして迎えた今年の箱根駅伝予選会。漆畑はチームに「いつも通り」と伝えた。

漆畑が集団走を引っ張り、仲間には「後ろについてきてくれればいい」と伝え、「最後の5kmまで力をためてそこから爆発させよう」という戦略を描いた。個人としては「引っ張ることで体力を使ってしまい、最後に上げきれなかった」というが、「みんなは最後まで積極的に、前へ前へという走りをしてくれて本当に頼もしくなっている」と感じたという。チームは4位に入り、76年連続76回目の本戦出場を決めた。全日本大学駅伝関東地区選考会後の漆畑の言葉から「勝利への執念」が芽生え、箱根駅伝への切符をつかみ取ったことは間違いない。その後、漆畑は11月の日体大記録会に出場し、10000m28分42秒の自己ベストをマーク。調子の良さをうかがわせる。

箱根駅伝予選会では集団走を引っ張り、チームに勢いをもたらした(提供・saya)

集大成に向け「結果で恩返しを」

最後の箱根駅伝は「チームに貢献できるように主要区間を走り、シード権を狙う」と目標を語った漆畑。集大成に向け「一番の応援者である両親に感謝の気持ちを表せるように頑張りたい。監督・コーチやお世話になった方にも結果で恩返しをしたい」と意気込む。

主将として走りでチームを引っ張り、時には言葉でも鼓舞するなど、ストイックな姿勢で競技に真剣に取り組んできた。最後の箱根路も果敢に攻めていく走りを期待したい。

in Additionあわせて読みたい