陸上・駅伝

玉川大学・山田桃愛 富士山女子駅伝で区間賞めざすインカレ覇者 白血病を乗り越えて

慢性の骨髄性白血病を乗り越え、競技と向きあう玉川大の山田(提供・saya)

「私の走りで、元気を多くの方に届けたい」

そう話す玉川大学の山田桃愛(ももあ、4年、川口市立)の笑顔は優しく、力強い。小学6年の時、慢性の骨髄性白血病を発症し、車椅子生活でスポーツどころではない日々もあった。健康を取り戻した現在、大学ラストイヤーの今年は3000m障害(SC)で関東インカレ2位、日本選手権6位。全日本インカレでは優勝を果たした。学生アスリート生活の最後を飾る富士山女子駅伝を前に、見る者の心に勇気をもたらす山田の競技人生に迫った。

小学6年で発症、中学1年でまた運動できるように

埼玉県で生まれた山田は、幼少期から体操、水泳、バレーボール、ピアノとたくさんの習い事に通う活発な子どもだった。当時から父や兄とランニングを楽しみ、小学2年の頃、地元のランニングクラブに入って本格的に陸上を始めた。

小学生の時から長距離でずば抜けた成績を残していた(本人提供)

続けるうちに勝負の楽しさを知り、小学4年の時にはちびっ子健康マラソン群馬大会で優勝。翌年には連覇も遂げた。だが小学6年の夏、突然病に襲われた。

38度の熱が約1週間収まらず、2013年9月17日に受けた検査の結果は「骨髄性白血病」だった。ちびっ子アスリートの元気な日々は一転、日々の服薬と車椅子が離せない生活に。図書館で漫画「はだしのゲン」を読み、そこに登場する白血病の描写に「死ぬ病気なのかな」と不安になったこともあったという。

それでも「病気に勝つ思いで諦めなかった」という山田。中学1年の10月にはまた運動できる日々が帰ってきた。入部したバスケットボール部では選抜メンバー入りも果たし、3年時にはキャプテンとしても活躍した。「チームを引っ張るために声を誰よりも出し、プレーでも誰よりも走り動いていた」

バスケ部ではキャプテンとしてチームをまとめていた(本人提供)

3000mSCに出会い「なんだこのキツイ種目は」

進学先の川口市立高校では、今につながる陸上部に入部し、3000mSCに出会った。「全国大会に出場したい」と高い目標を掲げてスタートした競技の最初の印象は「なんだこのキツイ種目は……」だったという。しかし、必死に障害の跳び方や走り方を学んで食らいつくと、大会に出る度に自己ベストを更新。それがモチベーションとなり、高3では女子長距離ブロック長を任され、仲間を引っ張る立場になった。

駅伝との出会いもこの頃。ルーキーイヤーから埼玉県高校駅伝に1区で出場し、3年連続で自己記録を更新する成長を見せたが、「上位で戦うことができなくて悔しかった」と振り返る。

全体として「うまく走れないことが多くて、勝つ楽しさを忘れてしまった」と消化不良な高校時代を送った山田は、「学校の先生になりたい」と玉川大学教育学部に進学。そして陸上の目標は次の舞台でも高く、「全国大会出場」を掲げた。

チームや多くの人に支えられた陸上人生だったと振り返る(前列右端、本人提供)

思いとどまらせてくれた母の一言

入学した年は、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた2020年。暗い雰囲気が社会を覆う中、山田自身も「けがの日々だった」。疲労骨折を繰り返し、シーズン通してうまくいかない日々が続いた。

だが翌年、ようやく山田は陸上の楽しさを感じ始めた。4月には大学初のレースとして日体大記録会に出場し、5月には関東インカレに出場。大きな舞台を経験して一回り大きくなった山田はその夏、自分より速い選手と走ることができる選抜合宿に選出された。「真摯(しんし)に陸上に向き合える時間だった」

3年の6月には埼玉県選手権に参加し、3000mSCで10分49秒60をマーク。日本インカレのB標準(10分55秒00)を突破した。念願だった「全国大会出場」を手にし「すごくうれしかった」。9月の日本インカレでは、終盤に水濠で転倒しながらも最後まで諦めない走りで9位に。後に骨折していたことが判明したが、「アドレナリンで走れました」と振り返る。

実はここで、山田の競技生活は終わっていたかもしれなかった。「全国で9番に入れたことで満足していた」上に、骨折というハンディも背負ってしまい、本人は陸上を辞めようと思った。しかし母親から「本当にそれでいいの?」と言われ、「限界はこの位置ではない」と思い直した。

決意にさらに後押ししたのが、メンバーに選ばれなかった昨季の富士山女子駅伝だ。「絶対来年の富士山では結果を残す」。山田は毎日「30分以上走ること」を目標に、「雨が降っても熱が出ても、毎日走り続けた」と継続。4年生になり、この努力が結果になって表れ始めた。

日本選手権で、自己ベストを更新するレースを見せた(提供・saya)

教育実習で「優勝」を宣言し、有言実行

4月の日本学生個人選手権は3000mSCで3位。関東インカレ1部では10分19秒78の自己ベストをマークし、日本選手権の申込参加資格(10分25秒00)を突破して準優勝。そして迎えた6月の日本選手権は「めっちゃ緊張して泣きました」と言うものの、再び自己ベストを更新する10分11秒85で6位に食い込んだ。

好調なトラックシーズンを送る山田は、自分にプレッシャーをかけることも忘れなかった。9月の日本インカレ前には教育実習で小学校に出向き、子どもたちに「優勝するから見てね」と宣言。言葉通りに10分6秒30の自己ベストで優勝を果たした。「良い報告が子どもたちにできて良かった」

最後の日本インカレでまたも自己ベストをマークし優勝を果たした(撮影・井上翔太)

9月には大学初の駅伝レースとなる関東大学女子駅伝に1区で出走し、10月には全日本大学女子駅伝にも3区で出場。それぞれ区間4位、2位と好走し、学生時代最後の富士山女子駅伝(12月30日)に向けて調子はいい。

チームの山下誠監督には「私に合った練習を考えてくれて、大事に育ててくださったのが、記録が伸びた要因」と感謝を忘れない。また両親に対しては「病気やけがで多くの心配をかけてしまって……。ここまで育ててくださったことや多くのレースを見にきてくれたことへの感謝、ありがとうの気持ちが大きいです。結果で恩返しできるようになってきたのでこれから楽しみにしてほしい」と思いを寄せる。

富士山女子駅伝では「走りでチームを入賞に導けるように、区間賞の走りをめざしたい」と力強く決意を語った。最高の笑顔で、襷(たすき)リレーが見られることに期待したい。

家族思いで仲が良く、感謝の思いが強い兄と(本人提供)

in Additionあわせて読みたい