玉川大学OGの田中智美さん 五輪代表から指導者としての新たなスタート!
今回の「M高史の陸上まるかじり」は田中智美さん(33)のお話です。玉川大学では全日本大学女子駅伝(杜の都駅伝)、全日本大学女子選抜駅伝(富士山女子駅伝)にも出場。第一生命グループ入社後は横浜国際女子マラソン優勝、名古屋ウィメンズマラソン日本人トップ、リオデジャネイロオリンピック女子マラソン日本代表など活躍されました。今年から第一生命グループ女子陸上競技部のコーチとして新たなスタートを切られました。
県大会止まりも「走るのだけはずっと好き!」
千葉県成田市出身の田中さん。「兄がサッカーをやっていて、ずっとボールを追いかけていました。小学5年生の時に運動部、合唱部、吹奏楽部のうちどれかを選ぶことになって、体を動かすことが好きで運動部に入りました」。運動部では陸上とミニバスをやっていたそうです。
中学でも陸上部に。「校内マラソンでは速い方でしたが、他の中学校から速い選手たちが集まってくる大会では全然勝ったこともなかったです。3年生で初めて県大会に出場しましたが、ダントツのビリでした。一緒に走っていたメンバーはまさか私が将来オリンピック選手になるとは誰も思っていませんでしたね(笑)」
千葉英和高校に入ってからも目立った成績はありませんでした。「県大会出場レベルでしたし、3000mも10分27秒がベストでした。それでも走るのが好きで、私は練習をすれば速くなれると信じて続けていましたね」。決して高校時代は目立つ存在ではなかった田中さん。現在の高校生の皆さんに対しても「高校時代であきらめてほしくないです。自分が速くなれると信じて努力を続ければ記録も上がっていくので、あきらめないで続けてほしいですね」という思いも抱いています。
コツコツ積み上げた玉川大学での4years.
「将来、教員の道も考えていました」ということもあり、教員の勉強もできて駅伝も強い玉川大学に進みました。
「周りの同期はインターハイや全国高校駅伝に出場していた選手ばかりで、全くついていけなくて、みんなが練習している周りを長めにJOGをしているような選手でした」
最初は全くついていけなかった田中さんでしたが、コツコツ続けていくうちに徐々にタイムも上がっていきました。記録会に出るたびに自己ベスト更新が続き、練習も試合も楽しくて仕方がなかったそうです。
2年生で初めて杜の都駅伝に出場。「初めての全国大会でした。高校時代、駅伝は楽しんで出場するようなレベルの高校だったので、すごく緊張したのを覚えています(笑)。嬉(うれ)しさもありましたが、周りのメンバーに迷惑をかけたらどうしようという気持ちの方が大きかったです。実際、無我夢中で前の選手を追いかけることだけしか考えられなかったですが、自分が思っていたよりもいいタイムで走れてホッとしました」。シード権もかかっていたのもより緊張したと振り返ります。
さらに、3年生になって大きくタイムも伸ばしていきました。「5000mで40秒近く自己記録を更新したんです。それまで16分40秒くらいだったのが一気に15分台に突入しました。それまでは実業団の道も厳しいかなと思っていたのですが、15分台が出た瞬間に『実業団に行きたい! マラソンを走りたい!』と強く思うようになりました」。練習でしっかり距離を踏めるようになってきたことがタイムの飛躍にもつながっていきました。
また、勉強の面でも、小学校教諭、中学・高校の保健体育の教員免許も取得しました。
「単位も相当取りましたね! 大学4年生になると授業が少なくなって時間に余裕ができるイメージがありましたが、授業もパンパンで実習もあって4年生まで忙しかったです(笑)」。陸上と勉強に明け暮れた4年間となりました。
3年生から4年生にかけて半年ほどけがもしていたそうですが、「それでも『絶対治して頑張るぞ』と思えたのは山下(誠)先生(玉川大学監督)が何度も遠方の病院や治療院に長時間付き添って下さったり、みんなとまた一緒に走りたいという想(おも)い、同期が常に明るく接してくれたおかげですね。同期やチームメート、先生方に恵まれて本当に楽しい大学生活でした」。ちなみに、同級生の山口遥さんはその後、市民ランナーながら活躍。東京パラリンピックでは西島美保子選手の伴走も務めました。
マラソンでオリンピックを目指す!
大学卒業後は第一生命グループに入社。「実業団に行くからにはオリンピックを目指そうと思いました。髪も長かったのですが、バッサリ切ってショートにしました!」と気合いを入れて実業団入り。
入社当初は朝練習からキツかったそうですが、徐々に環境にも適応。入社2年目の全日本実業団女子駅伝ではアンカーを走って9年ぶりの日本一に貢献しました。
その後、初めてのマラソン挑戦となったのが2014年3月の名古屋ウィメンズマラソン。
「中学の時にシドニーオリンピックで高橋尚子さんが金メダルをとられて、自分もマラソンを走ってみたいと思っていました。初マラソンは嬉しくて、フィニッシュした瞬間笑ってしまって、もう次を走りたいと思っていました(笑)。マラソンは自分に向いているって思いましたね! 40km過ぎてパタっと足が止まりましたが『これがマラソンか!』と楽しいって思えたほどでした!」と心身ともに楽しさを感じる初マラソンとなりました。
2度目のマラソンとなった2014年の横浜国際女子マラソンでは、2時間26分57秒でマラソン初優勝を飾ります。
「世界陸上を決めるぞ、と思って気合いを入れて練習をしてきました。なかなか調子が上がってこなかったのですが、試合が近づくにつれてやっと調子も上がっていきました。最後の最後まで競っていた海外の選手のスピードには負けるかなと思ったのですが、最後の直線で応援がとにかくすごかったので、たくさんの方々に背中を押していただき優勝することができました!」
ところが、優勝は飾ったものの世界陸上代表はまさかの落選となりました。
「優勝して選ばれないというのが今までなかったみたいなので、ルンルンで楽しみに発表を待っていたのですが、まさかの落選でさすがにショックを受けましたね(笑)。そこでもいろんな方に応援していただいたので、こんなに応援してくださる方のために今度こそオリンピック代表を決めたいと思いました」
世界陸上落選を糧に五輪代表の座を!
選考レースまでは苦しい練習ばかりでしたが、どんな練習でも耐えることができたそうです。「本当にきつかったですね。思い出すだけでよくあんな練習ができていたなと(笑)。監督とも今では笑い話になるくらいです」。オリンピックを目指す猛練習を支えてくださったのは山下佐知子監督の指導力と人柄でした。「いつも明るくて、練習でうまく走れなかった時も『次頑張ろう! 気持ち切り替えよう!』とポジティブに声をかけてくださって大好きな監督です。監督がいらっしゃらなかったら、オリンピックは絶対なかったですね!」と絶大な信頼を寄せていました。
15年3月の名古屋ウィメンズマラソン。「名古屋までは練習も順調で、もうこれだけやってだめなら仕方がないかという気持ちでスタート地点に立って『やっとスタートだ!』とニヤニヤしてしまいました(笑)」。思わず笑顔になるほど準備をしてスタート地点に立つことができたんですね!
レース後半、大会2連覇中だったキルア選手(バーレーン)が30km以降で前に出たのも想定通り。迷いなくついて行きました。「ついて行ったのが私だけでした。あとから(天満屋・小原怜選手に)追いつかれましたが、焦ることはなかったです。フィニッシュ間際で大接戦でしたが、(優勝した)横浜国際女子マラソンもこの展開だったので、また私このレースしてると思いました(笑)。『オリンピックに行くという気持ちは誰にも負けない! 今度こそ皆さんの笑顔をみたい!』と思い、出し切れるところで出し切れました!」。日本人トップとなる2位となり、念願のオリンピック代表の座を射止めました。
迎えた2016年8月のリオデジャネイロオリンピック本番。「やっぱりオリンピックといえばメダル! メダル獲得を目標に無事にスタートライン立ったのですが、スタートした瞬間にびっくりしたほど足が動かなかったんです。ゆっくりなペースだったのに、速く感じるくらいでした。練習通りの走りを試合でも結果を出せるタイプだったのですが、オリンピックという舞台で初めて体感しました」。結果は19位ということで今でも思い出すくらい悔しいレースだったそうですが、「本当に今までサポートしてくださった方のおかげ。感謝の気持ちでいっぱいでした」と周りの方に支えられてのオリンピック代表となりました。
その後は「東京オリンピックを目指すか目指さないか悩みました。メダルを目指すとなると、リオの時よりももっと練習をしなければいけない。それに自分は耐えられるのか、頑張れる覚悟はあるのか、競技進退も含めて自問自答しましたね」。オリンピックでメダルを目指すというのはそれだけの覚悟を持って壮絶なトレーニングに挑むということで、生半可な気持ちではできないというのが伝わってきますね。
再びオリンピックを目指し、マラソン挑んだもののけが続く日々でなかなかうまくいかず、MGC出場を目指したマラソンで2時間29分03秒の7位。「なんとか行けるかなと思っていましたが、やっぱりマラソンは甘くなかったです。応援に応えることができず悔しかったですね」
昨年の全日本実業団ハーフが現役ラストレースとなりました。「たくさんの方にサポートしていただいて、サポートのおかげで頑張れた実業団生活でした」。何度も皆さんのおかげと感謝を口にされました。
指導者として新たな道
引退後は1年間社業に専念したあと、今年からコーチに就任。指導者として新たなスタートを切りました。
「選手一人ひとり全然違うので、自分の経験だけではなく、まずは自分がしっかり勉強をすることですね。今まで感覚でやってきたタイプなので、一から陸上の勉強もしています」
指導で心がけていることは「(現役時代)指導者の一言で安心したり、『頑張るぞ!』って思った経験があるので、言葉かけや声をかけるタイミングが大事だなと思っています。少しでも選手の力になれるようコミュニケーションをとっていきたいですね! 第一生命グループは若いチームなので、これからが楽しみです!」
高校時代は県大会止まりながら、その後、オリンピック代表にまで上りつめた田中さん。田中さんが現状打破してきた経験談は、きっと選手の皆さんにも勇気や希望となり、道標となるのではないでしょうか!