東農大・並木寧音 ラストチャンスで突破した箱根駅伝予選会、盟友・高槻芳照とともに
2023年度、東京農業大学は古豪復活を印象づけた。14大会ぶりに全日本大学駅伝に出場し、10年のときを経て箱根駅伝の舞台にも復帰。これは一朝一夕にできるものではない。1年時から主力として牽引(けんいん)してきた並木寧音(4年、東京実業)が、苦難を乗り越えてきた4年間を振り返る。
学生時代にしか味わえない時間
第100回箱根駅伝を終え、すでに3週間が過ぎた1月下旬の平日。リラックスした表情の並木は静かな選手寮の一室に入ってくると、ゆっくりとパイプ椅子に腰をかけた。大きなホワイトボードが置かれた広い部屋をぐるりと見渡し、しみじみと話す。
「この場所では、よくミーティングをしていました。寮では仲間たちとワイワイがやがやと話をして、学生時代にしか味わえない時間を過ごせたと思います」
帰省を終えて寮に戻ると、4年生の半分以上は寮を出ていた。出会いがあれば、別れもある。退寮を間近に控えた並木は少し寂しさを感じつつも、柔和な笑みを漏らした。
「ここでの生活は、本当に楽しかったですよ」
最も感慨深い瞬間だった、高槻芳照との襷リレー
東京農大で過ごした時間は濃密だった。主将の高槻芳照(学法石川)と箱根路で交わした最初で最後の襷(たすき)リレーは、最も感慨深い瞬間だったという。1年時から二枚看板としてチームを引っ張ってきた仲である。下級生の頃から2人でジョグをしては、まだ見ぬ夢の舞台についてよく話した。
「『いつか箱根で農大の襷をつなぎたいね』って」
そして迎えた今年の箱根駅伝。往路の鶴見中継所で盟友の汗が染み込んだ襷を受け取ると、思いが込み上げた。1区の高槻からは「4年間、ありがとう」と言葉をかけられたという。横浜市内で生まれ育った並木は、幼少期からずっと見てきたコースを気持ちよく駆け抜けた。権太坂では「並木寧音」と書かれた段ボール製の手作りボードを持つ家族の姿が目に入り、難所もすいすいと上れた。時折、笑顔を見せて区間7位の好走。チームの順位を11位から6位に押し上げた。1時間7分03秒のタイムは、2区の東農大記録。2年前に関東学生連合の一員として走ったときよりも1分以上縮めている。
「高槻が走りやすい位置で渡してくれましたから。走り終えたあと、すぐに高槻に電話したんです。『一緒に襷をつなげて楽しかった。これからも頑張っていこうな』って。高槻本人は11位で『良い位置で渡せなくて申し訳ない』と謝っていましたが、『謝罪なんていらないから。前を追いやすい場所で渡してくれてありがとう』と言いました。これまでの苦労が報われました」
箱根駅伝予選会の中で「一番悔しかった」3年目
最後の言葉には4年分の思いが詰まっている。東京実業高校時代に東農大の小指徹監督から直接スカウトされ、遠ざかっていた箱根駅伝出場への熱意を感じて入学。古豪復活を誓って伝統校の門をたたいたものの、1年目から苦難の連続だった。コロナ禍の影響で先が見えず、将来への不安を感じたという。
「寮が閉鎖されて解散になり、あのときは『このまま4年間やっていけるのかな』と思いました」
感染対策を施した上で練習を再開し、初めての箱根駅伝予選会は17位。同期の高槻に次いで、チーム2番手となる1時間2分48秒の好タイムを出したが、本戦出場ははるか遠かった。2年目もチームは18位。ただ、個人として関東学生連合のメンバーに選出され、箱根駅伝に初出走。2区で区間13位相当(1時間8分16秒)の走りを見せ、本戦への思いをより強くした。
高いモチベーションで臨んだ3年目。気持ちとは裏腹にシーズン初めからアキレス腱(けん)の痛みに悩まされ、夏合宿は1日も参加できなかった。さすがに心が折れそうになった。弱音を吐きそうになったとき、同期や4年生たちから声をかけられた。
「焦らずにゆっくり治してほしい」
沈みかけた気持ちはすっと和らいだという。2年目の箱根駅伝2区の権太坂に応援へ駆けつけてくれた家族、地元の友人たちも支えになった。
「『また箱根路を走るのを見たい。楽しみにしている』と言ってくれて……。こんな僕でもまだ信じてくれている人たちがいるんだ、それならもう一度走る姿を見せたいと思ったんです」
予選会まで1カ月を切るなか、9月半ばに復帰。本番の10月15日にぎりぎりで間に合わせ、チームとしても綿密に作戦を練り、これまで採用していなかった集団走にもトライした。しかし、現実は厳しかった。ボーダーラインの10位とは6分6秒差の17位。並木は喜びの声を上げる大学のそばで悔し涙をこぼしながら、すぐに顔を上げた。
「『来年はここでうれし涙を流し、予選を突破します』とみんなの前で言ったんです。4年生たちを箱根に連れていけなくて、3年目が一番悔しかった。自分のふがいなさが歯がゆくて……」
「俺たちの代で絶対に農大を箱根に戻そう」
失意のまま予選会が行われた立川から東京都内の寮に戻ると、3年以下全員が1階のミーティングルームに集まった。新キャプテンの高槻を中心に良かった点、改善すべき点をホワイトボードに書き出し、前向きな議論を交わした。
「涙をのんだ予選会は、収穫もあったんです。5kmごとのラップを見れば、あまり落ちていなくて。新主将の高槻は『自分たちは絶対にやれるんだ』と言っていましたし、僕も可能性があるなと思いました。能力を持った選手たちは、そろっていましたから。それをうまく引き出せていなかっただけなので」
その後、並木たちの学年ミーティングで何度も確認した。
「俺たちの代で絶対に農大を箱根に戻そうって。そのためには、まず最上級生が背中で見せようと」
話し合いを繰り返すたびに、みんなの目の色は変わっていった。チームの士気の高まりとともに、並木自身も一皮むけた。2022年12月の日体大記録会10000mで28分16秒30の自己ベストを更新し、翌年4月には5000mでも13分51秒74と自己最高をマークした。
「いま思えば、3年目の故障が良い意味で自分を奮い立たせてくれたと思います。何もできなかった1年を取り返そうと、結果にこだわりました」
全日本選考会で「最後まで何があるか分からない」と実感
自信を持って臨んだ4年目の全日本大学駅伝関東地区選考会では、高温多湿の悪条件にも負けず、最終4組目で力走して大逆転劇に大きく貢献。伊勢路行きの切符は格別だった。
「3組終了時点で12位からの5位。勝負は最後まで何があるか分からないなと実感しました。その前年は最下位ですよ。『1年でこんなに変わることができるんだな』って。僕自身、全国大会に勝ち進むのが初めての経験で、心がふわふわしていたんです。勝者だけが味わえるものとは、これなのかと。それでも、僕らのなかでは全日本はあくまで通過点でした。箱根の予選会へ良いきっかけになったと思います」
最終目標に向けて、気が緩むことはなかった。あれから1年――。悔しさばかりがこみ上げてくる立川で歓喜する姿だけを想像していた。いざ迎えた本番ではチーム全員が落ち着いてレースを進め、それぞれが役割を果たした。スーパールーキーの前田和摩(1年、報徳学園)が日本人トップに立ち、並木も1時間2分35秒の自己ベストを出し、チーム2番手でフィニッシュ。結果発表を待つテント前で「11位、東京農業大学」のアナウンスが聞こえてくると、言葉にならないような雄たけびを上げた。
「4年目で初めて大学名が聞こえてきたときは、体全体で喜びを表現していました。人生であれほどうれしかった瞬間はないです。これから生きていくなかで、もっと大きなことがあるかもしれませんが、一生忘れないと思います。3年目までは17位、18位、17位。予選落ちでも15位くらいまではアナウンスされますが、それすらなかったので……」
誰よりも早くうれし涙を流し、ふっと力が抜けて芝生の上に転がった。4年目で念願の出場権を手にすると、多くの人たちに「農大に来て良かったね」と言われたが、「まだ終わっていない」と自らに言い聞かせた。11月に伊勢路の4区で区間5位と力走して弾みをつけ、胸を躍らせて箱根路のスタートラインに立った。
「すべて走り終えてから、みんなで『良かったね』と言い合える瞬間があるだろうなって思っていたんです。やっぱり、そうでしたね。1月3日の大手町でフィニッシュを見届け、『農大に来て本当に良かったな』と改めて思えました。目標のシード権には届かなかったですが、繰り上げスタートすることなく、1本の襷をゴールまでつなげたので」
小山直城の活躍も刺激に、世界を目指す
思い残すことなく、次のステージへ進める。卒業後は実業団のスバルでマラソンにチャレンジし、世界の舞台を目指していくという。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で優勝し、パリオリンピックのマラソン日本代表に内定したOBの小山直城(現・Honda)からは大きな刺激を受けた。
「いつか僕も小山さんのような結果を残し、農大の後輩たちに自分たちもやればできるんじゃないかな、と思ってもらえる存在になりたい。僕自身、MGCで小山さんの走りを見て、そう思いましたから」
声を弾ませ、夢を膨らませていた。並木の新たな挑戦が、また始まる。