白鷗大学・三浦舞華 恵まれない環境の小中学校時代から、インカレMVPに輝くまで
2023年12月に幕を閉じた第75回全日本大学バスケットボール選手権(インカレ)の女子で、MVPを獲得したのは白鷗大学の三浦舞華(4年、精華女子)だった。その原点は「誰も知らない遠くでバスケットをやりたい」。恵まれない環境から、国際試合で真価を発揮する選手にまで成長したこれまでを振り返る。
「走るセンター」を父に持つ、バスケ一家
インカレ閉会式。会場の代々木第二体育館には、白鷗大学と東京医療保健大学の顔合わせとなった決勝の熱気がまだ漂う中、個人賞の最後にMVP選手が発表された。「MVPは……」。一瞬の間のあと、白鷗大のエース、三浦の名前が告げられ、真っ先にチームメートたちからどよめきと歓声が上がった。
「やっぱりね!」「レオ(三浦のコートネーム)しかいないでしょ」
そんなささやきが聞こえてきた。コートネームは大草原をしなやかに走りまくるレオパード(ヒョウ)のイメージが由来。三浦にはまさにぴったりで、コートを縦横無尽に走り回り、準決勝の拓殖大学戦では6本のスリーポイントシュートを沈め、7年ぶり2度目の優勝を引き寄せる原動力となった。
三浦の父と母は、ともに指導者。妹は日本体育大学の1年生で、弟は仙台大附明成高校の1年生というバスケットボール一家だ。
とりわけ父の三浦祐司さんは能代工高校(現・能代科技)から日体大、NKKと名門を渡り歩いた名選手。能代科技の校庭にあるモニュメント〝栄光の像〟や漫画スラムダンクに登場する河田兄弟の兄・河田雅史のモデルとも言われている。ウインターカップでは3回もベスト5に選出され、走るセンターとして名をはせた。そんなDNAを受け継いでいる長女の舞華だが、決して順風満帆なバスケットボール生活ではなかった。
基礎から学べるという理由で、精華女子へ
宮城県富谷市で生まれた三浦は、小学1年のときにバスケットボールを始めた。学校で配られていたチラシを見て、練習に参加したことがきっかけだった。ところが人数が足りず、初めて大会に出られたのは小学6年のときだった。助っ人をかき集め、県3位に。富谷中学でも状況は変わらず、男子バスケ部の練習に参加させてもらい、クラブチームで経験を積んだ。中学2年のときに女子バスケ部ができたが、半年経たないと公式戦に出ることができなかった。小学生時代と同じく、最終学年で初めて公式戦に出場、県3位になった。
「舞華は宮城を出たほうがいいかもしれないね」。不遇だった小、中学時代を知る父の友人が、三浦に声をかけた。たまたま白鷗大の佐藤智信監督が宮城に来ることになり、話をする機会を作ってくれた。
三浦と初めて会ったときのことを、佐藤監督が振り返る。
「中学で部活をしていなくて、クラブチームだけだったんです。『能力のある子なので、ちょっと見てあげてくださいよ』と言われて、中2の舞華のプレーを初めて見ました。キャリアが積めて基本も学べるところがいいかな、と考えて、パッと浮かんだのが福岡の精華女子でした。大上(晴司)監督に連絡したら、三浦の父と日体大の合宿所で同じ部屋だったんです。『よく知っています』と。それなら話が早い。3年になって部活ができ、試合に出たら40点、50点は取っていたんじゃないかな」
「基礎からしっかり教えてくれる、福岡の精華女子という高校があるよ」と三浦に勧めた。三浦は中3の夏に練習を見学し、とにかく走って、元気もよくて、明るいチームという印象を受けた。すでに宮城を出る決心は固まっていた。
「とにかく遠いところに行きたかった。中学で部活がなかったから選抜選手に選ばれることはなかった。悔しかったんです。宮城にも強い高校はありますが、私なんか知られていない。強い中学にいた人が優先されるのではないか、と思って。それなら誰も知らない場所で頑張りたいな」と、三浦は当時の心境を振り返る。
宮城から福岡へ。バスケットボールのためなら、家から遠いところでの生活も苦にならなかった。ホームシックにもならなかった。
白鷗大進学の決め手となった、林咲希の存在
精華女子1年の時、白鷗大のチームメートでキャプテンを務めた樋口鈴乃とともに異彩を放っていた三浦を取材している。バスケットに真摯(しんし)に向き合う姿勢はもちろん、何より2人とも瞳の輝きが群を抜いていた。
「精華では基礎からいろいろ教えてもらいました。一番は礼儀とか、人間性。目標に対する行動、姿勢。それが今に生かされています。本当に感謝しています」
全国大会での最高成績は、インターハイ、ウインターカップともに2、3年時にベスト8。そして大学は、佐藤監督が率いる白鷗大に進んだ。樋口とは高校のコースが違ったため、再びチームメートになることは知らなかったそうだ。進学の決め手は佐藤監督の人柄もさることながら、精華の先輩にあたる林咲希(現・富士通)の存在が大きかった。インカレ初優勝時のメンバーで、現在は日本代表のキャプテンも務める。東京オリンピックで見せたスリーポイントシューターとしての活躍は、記憶に新しい。
「キキさん(林)を尊敬しています。林さんのような選手になりたいから、進路を白鷗大に決めました」
20mシャトルランで驚異の145回
精華女子時代、U16日本代表メンバーに選出された。U16アジア選手権、U17ワールドカップと国際試合を経験する中でポテンシャルが開花。そのきっかけとなったのが、U15代表合宿中の体力テスト。20mのシャトルランで145回という驚異の記録を出した。ちなみに男子は125回、女子は88回で最高値の10点となる。145回に達した時点で、これ以上続けても意味がないという理由でストップになったそうだ。
父の祐司さんは「走力と根性だけはありました。中1の時1500mを4分44秒で走って宮城県の記録を作りました。リバウンドやプレースタイルは妹の瑞貴が自分にそっくりですが、走力は舞華が受け継いだのかもしれません」と言う。高校生になってからは「オリンピアンになりたい」と口にするようになり、祐司さんは「なれるかどうかはわからないけど、目標を立てて頑張ることはいいことだ。頑張れ!」と励ました。
抜群の走力を生かして、昨年のFISUワールドユニバーシティゲームズでは準決勝でフィンランドを破り、銀メダルを手にした。アンダー世代でヘッドコーチを務めた萩原美樹子さんは「国内より国際試合で活躍できる、日本人としては珍しいタイプ」と、驚きを隠せなかったという。三浦自身も「国際試合は相手の体つきやフィジカル、身体能力がすごく高くて、日本で試合する時とはまったく違った感覚になります。しかし、ディフェンスの強度やスピード、トランジションの速さなどは通用するので、やっていてとても楽しいです」と国際試合の楽しさを口にする。
ラストチャンスで初の全国制覇
大学での4年間、常に目の前には東京医療保健大の存在があった。特に4年生になってからは、春のトーナメント、秋のリーグ戦ともに白鷗大が優勝していたが、三浦は「最後のインカレで勝たなくては意味がない」と考え、チームは79-69で東京医療保健大を下した。
「3年間インカレで負け続けていたので、ラストは絶対優勝するぞという気持ちでした。練習の強度もめちゃめちゃ高かったし、今年こそはという気持ちで臨んでいたので、それが報われてよかったです。トーナメントとリーグも優勝して、インカレも勝つだろうと周りから見られていたかもしれないですけど。インカレに関しては負け続けているので、挑戦するんだという気持ちでいました」。勝因には「気持ちの面とチームの一体感」を挙げた。
「東京医療さんに勝つためにはリードし続けること。だからこそ、出だしが重要でした」と三浦。得点が取れないときはディフェンスを頑張り、リバウンドに集中した。自分がエースだということを4年になって初めて意識し、佐藤監督からは「パスを探すのではなく自分で行け。ゲームをコントロールするより、思い切って好きなようにやれ」と言われ続けていた。
「マッチアップした林(真帆、4年、岐阜女子)さんとは同じポジション。『負けてらんない』と思っていました。絶対決めるぞというのと、相手にやらせない。フェイスガード的に守られた時、それでも自分で行ったのですが、逆にそれを利用して周りをもっと生かせたらよかったと課題も見えてきました」
最終学年では、それまで以上に自主練習に取り組んだ。朝が早くて眠い時もあったが、トレーニングを1年間継続してきたことが最後に報われた。食生活も野菜とたんぱく質を取るため、夏にも鍋をする機会が増えた。
「インカレで勝つイメージを持てなかったんですが、人生初の全国優勝。今までずっと負け続けていたので、最後に4年でコートに立った時こういう面白さがあるのかと感じることができました」と笑顔で語る。
決勝の日、父は白鷗大のチームカラーである青を意識したジャケットをはおり、母、妹と一緒に応援席で観戦。全国優勝を見届けた。「唯一ウルっときたのは、インカレMVPで名前を呼ばれた時です。MVPだからという意味ではありません。4年間よく努力して頑張ったね、と」
念願のインカレ優勝を果たしたが、三浦は直後のインタビューでは冷静な表情だった。3日後には皇后杯でWリーグのENEOSと対戦することが決まっていたからだろうか。その皇后杯でチームは第4クオーターまで一歩も引かず、74-84と破れたとはいえ、学生らしい奮闘を見せた。
アーリーエントリー選手として、Wリーグデビュー
年末はさらにあわただしかった。アーリーエントリー選手としてトヨタ自動車アンテロープスの一員となった。栃木から愛知に引っ越し、トヨタの練習に参加。年明け1月3日の試合で、Wリーグデビューを果たした。
最後にトヨタに決めた理由と、今後の目標を聞いてみた。
「トヨタに決めた理由は、明るくて楽しそうにバスケをしていて、ルーズボールなどを必死に追っていて、応援したいと思えるようなチームで、とても素晴らしい環境でバスケができると思ったからです。目標は変わらず、オリンピアンになること。そのための課題は圧倒的なディフェンスと、身長を言い訳にせずにリバウンドを取る力、高確率で決めるシュート、コミュニケーション能力、状況判断です」と、明確な答えが返ってきた。
バスケット人生の序盤こそ、不安な日々を送ってきたが、もうその瞳に不安はまったくない。要所要所で、人の縁に恵まれピンチを打開してきた強運もある。基本的な練習を積み重ね、大学4年間で自らを輝かせる術を身につけた。卒業後も自分の夢を追い続ける。