亜大・黒木陽琉 長くつらかった神村学園時代のリハビリ生活、踏みとどまれた母の応援
鹿児島大会を2年連続で制し、7回目の甲子園出場となった神村学園。ベスト4まで進出した昨夏は、1回戦から3試合連続2桁得点の強力打線が注目された一方、リリーフとして全5試合に登板した左腕・黒木陽琉(現・亜細亜大学1年)も、強いインパクトを残した。高校3年春までほとんど公式戦の登板記録がなく、最後の夏に突然現れた左腕は、どんな3年間を送ってきたのだろうか。
決勝に進んだら、先発マウンドを踏む予定だった
鹿児島大会で最速146キロをマークし、26の登板回数を上回る32奪三振を記録していながら、甲子園の開幕前、黒木の注目度はそこまで高くなかった。背番号10でリリーフが多かったから「控え投手」と見られていたのかもしれない。しかし、甲子園で投げるたびに周囲の評価が上がっていった。
1回戦の立命館宇治(京都)戦で九回2死から初登板を果たすと、続く2回戦の市和歌山戦では、一回途中からマウンドに上がり、九回途中まで114球を投げるロングリリーフ。3回戦の北海(北北海道)、準々決勝のおかやま山陽(岡山)戦でも試合の中盤から投入され、いずれも3イニング以上を完璧に抑え込んだ。ここまで4試合で16回と3分の1を投げて、わずか1失点。準決勝の仙台育英(宮城)戦では二回2死からの登板し、守備のほころびもあって2-6で敗れたが、神村学園の快進撃は黒木の存在なくして起こらなかっただろう。
今だから話せるが、もし決勝に進出していたら、先発のマウンドに上がる予定だった。仙台育英戦の前、小田大介監督から「勝ったら、決勝はお前で行くぞ」と伝えられていた。連日の快投については「出来過ぎです」と手厳しかったが、状態が良いことはわかっていたので、どんな場面でも自信を持ってマウンドに送り出せた。
市和歌山戦のロングリリーフも、経験が少ない2年生投手が先発だったことから、「四球を出したら初回からでも行くぞ」と指示されていたので、ブルペンで万全の準備をしていた。複数投手制を確立した神村学園だからこその起用法だったが、普通のチームであればエースとして先発を任されていたはずだ。
「自分の感情だけで諦めてはいけない」
これほどの好投手であれば、下級生の頃から実績を残していても不思議ではない。しかし、黒木は3年の夏まで公式戦ではほとんど投げていない。左ひじを故障していたためだ。
「甲子園に行ける可能性が高い」という理由から、地元の宮崎県を離れて神村学園に入学した。しかししばらくすると、ひじに強い痛みを感じ、曲げ伸ばしも不自由に。福岡県内の大きな病院で精密検査を行うと、左ひじ靱帯(じんたい)の部分断裂、尺骨神経の損傷、および疲労骨折、慢性的な野球ひじと複数の障害が見つかる重傷だった。中学時代からの蓄積ではなく、「高校に入って練習が毎日になり、投げる球数も増えたことで、負担がかかったのでは」と黒木は言う。
医師からは、再建手術を行うか、保存療法とリハビリで回復を待つかの二者択一を迫られた。手術した場合、高校3年の夏に全力投球できるまで戻すのは難しいという見通しを聞き、一日も早い回復に懸けて保存療法を選択した。
先が見えないリハビリは苦しく、何度も投げ出しそうになった。監督に提出する野球ノートには、毎日「野球をやめたい」と書き込んだ。踏みとどまれたのは、ひとり親で苦労して育ててくれた母親の応援があったからだ。
つらくなって電話をすると、「まだ野球ができる可能性が残されているのに投げ出してしまうのは、賛成できない。親として、頑張ってまた投げられるようになる姿を見たい」と何度も諭され、週末になると鹿児島まで足を運んでくれた。黒木が帯同しない遠征にも、チームのサポートについて行った。小田監督からは「お母さんの思いに応えてあげよう。お前ならできるよ」と声をかけられた。黒木は「自分の感情だけで諦めてはいけないと思いました」と、再び野球に向き合う決意を固める。
まったく投げられない状態から、リハビリをして、少し投げられたら、また痛くなって……。医師からは「ちょっとやめとこう」とストップがかかり、ブランクを空けてまたリハビリからやり直し。そんな一進一退の状況が1年以上続いた。ようやく実戦で投げられるところまで来ても、「また故障することが怖いから、思い切り腕を振らずにボールを置きにいってしまうんです。それでもコントロールが安定しなくて、不安ばかりでした」と当時を振り返る。
もともと小田監督は黒木の育成方針について、「時間をかけよう」と考えていた。黒木は3月生まれということもあって、故障に関係なく、体の成長が遅かった。神村学園はオフシーズンになるとトレーニング中心の練習メニューが組まれる。「冬場を2度越せば、きっと体もできてくる。仕上がるのは3年の夏でいい」と、回復してきても、焦って試合で使うことはなかった。だから、公式戦の記録がない。
カーブは投げられない時期からイメージして研究
2度の冬を越した3年春、入学時に66kgだった体重は76kgに。左ひじの不安もなくなっていた。ようやく本格的に投げられるようになり、5月の関西遠征で自己最高の143キロを計測。しかし小田監督からは「大事なことは球速じゃない。2度とケガをしない、バランスの良いフォームを身につけよう」と言われ、マウンド上での立ち姿や胸の張り方など身体の使い方を細かく指導された。
昨夏の甲子園でさえ渡ったカーブは、投げられない時期から、常に投げ方をイメージしてきた。実際に投げ始めると「いつでもストライクが取れる」と手応えを感じた。カーブを高低に投げ分けてカウントを整え、最後もカーブで打ち取る。もともと角度があるところに鋭く曲がるので、相手の左打者は特に、お手上げ状態だった。
「でも僕は、ストレートあっての変化球だと思っているんです。ストレートのキレが上がれば、変化球のキレも上がる。だから質の良いストレートを投げることを意識してトレーニングしていく中で、球速も上がっていくというのが理想なんです」
黒木は自身のピッチングスタイルについて、そんな風に考えている。甲子園は初戦こそ少し緊張感があったが、その後は球場の雰囲気で自然とテンションが上がり、「いくら投げても疲れを感じることはなかった」と言う。実現しなかった決勝戦の先発も、「準決勝から1日空くし、100球とか120球とか、全然投げられたと思いますよ」と笑う。
それだけに準決勝の仙台育英戦、スクイズで失点すると「え、アウトじゃなかった?」と心の揺れが出て、リズムを崩し、失点を重ねた。「マウンドでは常に冷静でいないと。いつも言われていたことを忘れていました」と今でも悔やんでいる。
「亜大ツーシーム」習得にも励む
卒業後は、早くから亜細亜大への進学で固まっていたが、甲子園の後「できれば、プロに行きたい」と方針転換を表明。プロ志望届を提出し、ドラフトを待った。その真意とは?
「急に気持ちが変わったわけではなく、子どもの頃からプロを目指していて、母親のことを楽にしてあげたい気持ちもあるので、チャレンジできる時にチャレンジした方が良いと思ったんです。でも、ドラフトで指名がなかった時に、すぐに切り替えられました。もともと亜大で厳しい環境の中に身を置いて野球に取り組んで、成長して、4年後にプロへ行こうという考えだったので、その原点にもう一度戻しました」
今春の東都大学リーグ戦では、ベンチ入りを果たせなかった。黒木は「まだ先輩たちと力の差があると実感しています」と謙虚に言う。それでも恵まれた練習施設で鍛えられ、体がまた一回り大きくなった。体重は現在84kg。「90kgくらいまで増やして、それでも体をうまく使いこなしていけば、今よりも球威のあるボールを投げられると思うので」と構想を口にする。
歴代、亜大の先輩投手が武器にしてきた「亜大ツーシーム」の習得にも励んでいる。「高校時代同様、高低というのは自分のピッチングの生命線だと思っていますが、横も使えるようになると、ピッチングの奥行きが広がります」と黒木。入学以来、特に故障もなく、チームの紅白戦でも好投している。貴重な左腕でもあり、何度かチャンスもあったが、他の投手とのバランスもあってベンチ入りは見送られた。
モチベーションが落ちているかと思いきや、神村学園の小田監督から「試合で投げられるから頑張るんじゃなくて、投げられない時期にどれだけ準備できるかが大事なんだ」と厳しいメッセージが届き、黒木は姿勢を正した。