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特集:2024年 大学球界のドラフト候補たち

青森大学・哘崎新 入部直後に退部→2年後に異例の再入部、腐らないため選んだ遠回り

青森大の哘崎は2年間も部を離れた異例の経歴を持つ(撮影・川浪康太郎)

2年連続で育成ドラフト指名選手を輩出している青森大学は今年、投手の哘崎新(さそざき・しん、4年、青森山田)がプロ志望届を提出する予定だ。身長182cm、体重80kgで、最速150キロの直球と鋭いフォークが武器の右腕。1年春に硬式野球部を退部し、3年春に再入部した異色の経歴を持つ。「空白の2年間」はなぜ生まれ、どう過ごしたのか。

【特集】2024年 大学球界のドラフト候補たち

高校時代は主将を経験、けがに悩まされ「不完全燃焼」

哘崎は青森県七戸町出身。小学2年生から野球を始め、青森山田中、高で硬式野球をプレーしたのち、系列校である青森大に進学した。

青森山田高では主将を務め、新型コロナの影響で甲子園が中止となった3年夏に青森独自大会で優勝を経験。哘崎自身は肩やひじの故障が相次いだ影響で「本職」とするはずだった投手として思うような活躍ができず、主に野手として試合に出場していた。

「高校生の頃は楽しみながら野球をやっていたんですけど、不完全燃焼でした。もっと野球に真剣に取り組めばよかったと今になって思います」。プロを目指したい思いは当時から胸に秘めていたが、「今の自分では100%無理。人前で『プロにいきたい』と言える立場ではない」と考え大学進学を選んだ。

高校野球は不完全燃焼、プロをめざすために大学へ進んだ(提供・青森大学硬式野球部)

野球塾に通うため、青森大東京キャンパスへ

大卒からのプロ入りを見据え、4年間かけて徐々に実力を磨くのがいわゆる既定路線。しかし、哘崎は入部直後の4月中旬、「退部」の決断を下した。当時を次のように振り返る。

「自分の中で大学野球は伸びる選手は伸びるけど、腐る選手も多いイメージがあった。当時の投手コーチと合わなかったこともあり、このままではまたけがをして自分も腐ってしまうと思ったんです」

退部の決断と同時に頭に浮かんだのが、高校野球の引退後に足を運んだ東京の野球塾だった。そこへ通うため、同じタイミングで退部したチームメート3人とともに青森大東京キャンパスに籍を移した。

青森大は2019年度に東京キャンパスを新設した。文部科学省の規定により、東京23区内に所在する地方大学のキャンパスにおいては「一般学生(日本人)は2年間の在籍までとする」と定められているため、日本人学生は1、2年生の間、最長2年間の在籍が認められている(留学生・社会人学生は4年間の在籍が可能)。哘崎は独自のアプローチで才能を伸ばすべく、この制度を利用することにした。

入部から間もなく退部、東京で腕を磨くことに決めた(提供・青森大学硬式野球部)

再現性を高め「良い球」を追い求めた2年間

東京では約半年間野球塾に通い、その後は別のトレーニング施設で基礎を固めた。「いくら野球の技術練習をやっても、それを再現する体がないままだと、またけがをしてしまう」。再現性を高めるためのコンディショニング方法を学び、「自分の体を自分が使いたいように使う」コツをつかんだ。

一方、実戦の機会からは長らく遠ざかった。当初はクラブチームなどでのプレーを視野に入れていたが、時間の制約もあってかなわなかった。授業を受け、大学のグラウンドで元チームメートとキャッチボールをし、トレーニングとアルバイトに励む日々。哘崎は「その頃は『プロ野球選手になりたい』という思いは漠然としていました。それよりも自己満というか『自分が良い球を投げたい』という思いでした」と回顧する。

3年春に青森に戻ってからは、再びクラブチームで実戦の機会を探るつもりでいた。だが一転、硬式野球部への「再入部」が決定。哘崎の東京での挑戦を知った当時の青森山田学園理事長の計らいで、硬式野球部の三浦忠吉監督とも面談した上で異例の出戻りが認められた。

昨年はトレーニングの効果もあり、140キロ台後半の直球を投げられたものの、公式戦のメンバーには入れなかった。それでも4年生になった今春、富士大学戦でリーグ戦デビューを果たし、2回無安打無失点と好投。秋は初先発を含む4試合に登板して計8回、9奪三振2失点と持ち味を発揮しており、八戸学院大学戦ではチームのスピードガンで自己最速となる150キロを計測した。

4年春にリーグ戦デビューを果たし、秋は自己最速の150キロをマーク(提供・青森大学硬式野球部)

ドラフト指名を恩返しの第一歩に

「再入部して一番に『いろいろ遠回りしたな』と感じました。いくら自分の納得のいく良い球を投げられても、150キロが出ても、打たれるんだったら140キロでも抑えられる球の方がいい。自分に足りない部分に気づけたので、再入部させてもらえてよかったです」

球速だけでなく変化球の質やフィールディング、カバーリングなど細かい技術もイチから鍛え直し、「抑える」術を身につけた。「自分勝手に好きな時間に好きなことをやるのはやめて、チーム、組織での動きを大事にしよう」と、グラウンド整備や練習の準備には率先して取り組み、チームメートへの声かけも積極的に行っている。

哘崎は「自分は2年間のブランクがあるので、人一倍やらないといけない。自己満のピッチングではなく、試合で生きるピッチングをしないと投げさせてもらえないし、ほかのメンバーも納得しないと思う」と話す。再入部が野球との向き合い方を見つめ直すきっかけになった。

「2年間のブランクがあるので、人一倍やらないといけない」(撮影・川浪康太郎)

一方、退部の決断も後悔していない。結果的に大学4年間で一度も腐ることはなかった。「遠回り」したからこそ、野球人としても人としても、大きな成長を遂げた。

「再入部を認めてくれた青森山田学園の理事長、青森大硬式野球部の監督、メンバーのことは卒業してもずっと、絶対に忘れないし、感謝しかありません」と哘崎。約1カ月後に迫るドラフトに向けては「野球をやっている以上はプロにいきたい。最後の最後まで状態を上げて、挑戦するつもりで(プロ志望届を)出す」と意気込む。ドラフトで名前を呼ばれることが、恩返しの第一歩になるはずだ。

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