陸上・駅伝

特集:第101回箱根駅伝

帝京大学・福田翔「鬼のモチベーション」で大学記録樹立、最初で最後の箱根駅伝に挑む

余裕を持って練習をこなす帝京大の福田翔(撮影・小林寛拓)

学生3大駅伝の出雲駅伝、全日本大学駅伝が終わり、帝京大学はいずれも8位入賞という結果を残している。そんな今年のチームを支えている一人が福田翔(4年、世羅)だ。2年時の出雲で3大駅伝デビューを果たし、最上級生となった今年は出雲、全日本ともに終盤の重要区間を任された。ただ、箱根駅伝の出走経験はまだない。「箱根だけは譲れない」と意欲を燃やしている。

もともと高校で陸上をやめるつもりだった

出身の世羅高校は、言わずと知れた陸上の名門校である。高校3年時に全国高校駅伝で優勝を果たしたが、福田自身は出走することができなかった。当時のことをこう振り返る。「走れない悔しさよりチームが優勝した喜びが大きかった。登録メンバーに入れてうれしかった記憶があります」

福田はもともと高校で陸上をやめるつもりでいた。当時はコロナ禍ということもあり、大学のスカウトが例年よりも早く動き始めていたという事情もあった。5000mのタイムが15分台だった福田にはなかなか声がかからず、高校卒業後は就職するつもりでいた。しかし、秋以降に記録を大きく伸ばしたことで、高校3年の12月、帝京大に進学することが決まった。

ポイント練習で先頭を引く(撮影・小林寛拓)

入学から1年間は3度の疲労骨折を経験するなど、故障に苦しめられてきた。ただ「練習に参加すれば意外とこなせていた」と本人が話すように、もともとのポテンシャルはあった。大学2年生になると、主要大会にエントリーされることも多くなり、この年の出雲駅伝で3大駅伝デビューを果たした。「駅伝自体が中学生ぶりで新鮮だった。全国規模の大会も初めてだったので、緊張もあったが、楽しかった」と当時を語る。

出走漏れを経験した2年目からの奮起

福田はその年、箱根駅伝エントリーメンバーの16人に選ばれた。直前の合宿でも調子が良く、周囲からは期待の声も多かった。しかし、箱根を走ることはできなかった。「なんとなく外れる気はしていました。実際に伝えられるとショックが大きかった」と福田。チームは総合13位で6年ぶりにシード権を落とし、チームとしても個人としても悔いが残る箱根駅伝になった。

箱根が終わってからは帰省することもできたが、福田はチームに残り練習を続けていた。本人の言葉を借りると「鬼のモチベーション」で練習に取り組んでいたそうだ。そして、2月の丸亀国際ハーフマラソンで1時間2分3秒の好タイムをたたき出した。この記録は小野寺悠(現・トヨタ紡織)に並ぶハーフマラソンの帝京大学タイ記録。箱根に出場できなかった悔しさをここにぶつけた。2年生にして大学記録保持者となり、次の箱根に向けて好スタートを切った。

3年時には、箱根駅伝予選会があったが、危なげなくレースを進めて総合3位で本戦への出場権を獲得。福田はチーム内トップ、全体21位という好結果を残した。

大学3年時の箱根駅伝予選会ではチームトップの走りだった(撮影・帝京スポーツ新聞部)

約3週間後の全日本大学駅伝で1区を走り、トップと11秒差の9位。スターターとしての適性も見せ、箱根駅伝に向けても順調のように思えた。しかし、福田の体は限界だった。夏前に捻挫した影響で、走り込むことができていなかった。箱根予選会までに急ピッチで仕上げたことで、その反動によって不調に陥った。箱根駅伝では16人のエントリーメンバーには名を連ね、最後まで準備をしていたが、「調子が全く上がってこなかった。他のメンバーの調子も良かったので外れる覚悟はできていた」。念願の箱根出場はこの年もかなわなかった。

箱根駅伝を見据えて監督に後半区間を直訴

今年の箱根駅伝で帝京大学は2年ぶりにシード権を獲得した。6月の全日本大学駅伝関東地区選考会も通過し、今シーズンは3大駅伝すべてに出場することが決まった。福田は夏合宿の練習をほぼパーフェクトにこなし、4年間で一番の手応えを感じていた。

3大駅伝初戦となった出雲駅伝では最長区間の6区で区間8位。一人を抜いてチームの8位入賞に貢献した。全日本大学駅伝では全8区間の中で2番目に長い7区に登場。襷(たすき)をもらった時に9位だったこともあり、中野孝行監督からは「前を追え」という指示があった。最初の1kmを2分41秒で入ると、シード権争いをしていた中央大学のエース吉居駿恭(3年、仙台育英)をとらえた。一度追い抜いた日本体育大学と、猛追してきた立教大学に追いつかれ、4人による7位集団が形成された中、福田は攻めの走りを続けた。

「僕が引っ張るのをやめて前に出させてみてもペースが上がらなかった。引っ張ったら離せると思った」と確信し、前で集団を引っ張り続けた。10km前後で集団は大きく割れ、立教大には追いていかれたが、シード圏内の8位でアンカーの小林大晟(4年、鎮西学院)に襷を渡した。そのままチームは8位でフィニッシュし、チームは4大会ぶりにシード権を獲得した。

11月の全日本大学駅伝でチームを逆転シードへと導いた(撮影・帝京スポーツ新聞部)

福田は二つの駅伝の前、中野監督に「後半区間を走らせてほしい」と伝えていた。「箱根を考えたときに、復路の可能性もあると思って」と福田。実際に後半区間を2回走ったことで「良いイメージを持つことができた」と自信をつけた。全日本が終わり、監督からは「故障と体調不良に気をつけて。箱根に向けて合わせてくれ」と言われている。

年明けに友と交わした約束、思いも背負う

福田は今年の箱根駅伝で、ある約束をしていた。相手は世羅高校の同級生で明治大学に進学した新谷紘ノ介(4年、世羅)。2人はプライベートでも会うような間柄だが、ともに箱根駅伝の出場経験がなかった。「来年こそは2人で箱根を走ろう」と読売新聞東京本社前で言葉を交わしていた。しかし、今年10月の箱根駅伝予選会で明治大学は総合12位。本戦に進むことはできず、新谷と一緒に箱根駅伝へ出場することはかなわなかった。2人はこのときも電話をして、福田は新谷から「約束を守れず申し訳ない」と謝られるとともに「応援してるから頑張れよ」とエールをもらった。

いよいよ来月に迫った箱根駅伝。福田は「とにかく走りたい。走りたいしか頭にないです」と意欲を燃やしている。「現実的には平地区間になると思いますが、アクシデントがあっても良いように、5区や6区の準備もしています。監督に任された区間を走るだけです」と力強く意気込みを語った。〝世界一諦めの悪いチーム〟の中でも、福田は誰よりも諦めずに取り組んできた。様々な思いを背負って、4年間待ちわびた新春の箱根路を駆け抜ける。

世羅高校OBが集まる通称「世羅会」の様子(本人提供)

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