日体大・齋藤みう 全日本の苦い経験を糧に富士山で快走、3000m障害を軸に世界を
高校時代は全国の舞台で目覚ましい活躍ができなかった。しかし2021年、日本体育大学に入学した齋藤みう(4年、伊豆中央)は、佐藤洋平監督からの「埋もれない選手になってほしい」という言葉を胸に、コツコツと努力を重ねた。やがて最強世代の一人として、3000m障害で頭角を現すとともに、駅伝でもチームに欠かせない存在となった。強いチームメートたちの中で、どのような4年間を過ごしてきたのか。
脱水症状に見舞われた全日本「走り切ってくれてありがとう」
昨年12月30日の富士山女子駅伝。立命館大学の村松灯(4年、立命館宇治)や大東文化大学の野田真理耶(2年、北九州市立)ら、学生の女子長距離界を代表するメンバーがそろった2区(6.8km)で、会心の走りを披露したのが齋藤だった。
トップと21秒差の9位で襷(たすき)を受けると、「後の区間には後輩もいたので、自分が少しでも貯金を作ってあげたい」という一心で前を追った。2.8kmまでに2位集団に追いつき、3.3kmで単独トップへ。そこからはじわじわとリードを奪い、2位の大東文化大に9秒差をつけて中継所に飛び込んだ。
齋藤が初めてつかんだ区間賞は、2カ月前の全日本大学女子駅伝で味わった苦い経験が糧となった。駅伝の流れを決める重要な1区を任されたが、スタート後に脱水症状に見舞われ、まさかの区間23位。チームも9位に沈み、6年ぶりにシード権を失った。
齋藤自身は落胆したが、チームメートは「走り切ってくれてありがとう」と温かい言葉でねぎらってくれた。そんな仲間に対し、齋藤も「チームに恩返しをしたい」と気持ちを切り替え、富士山に目を向けていった。
11月は体調の回復に努め、12月に入ると5000mで2024年の日本人学生最高記録となる15分27秒45をマーク。3000m障害でも24年日本人最高記録の9分45秒62と、高水準で自己ベストを連発した。齋藤は「日体大として最後の駅伝というのもありましたし、スタート前は不安よりも楽しみの気持ちの方が多かったです」と、完全に自信を取り戻して、富士山のスタートラインに立っていた。
高校から陸上に専念、「駅伝をやりたい」と日体大へ
小学1年から中学3年まではバスケットボールに力を注ぎ、静岡県選抜チームに選ばれるなど活躍した。清水中学校では兼部だった陸上部で、全中や全中駅伝に出場。ジュニアオリンピックの800mで優勝したこともある。
陸上に専念するようになった高校では、全国大会に出場する機会はなかった。だが、伊豆中央高校の恩師・小林一幸先生の母校であり、「駅伝をやりたい。個人種目でも強い日体大で頑張りたい」という思いから、齋藤は日体大への進学を決めた。
入学当初は「まず駅伝のメンバーに入ること。そして、地元の富士山女子駅伝で恩返しができるように走りたい」というのが目標だった。ただ「練習量が高校とは違っていて、初めの頃は1回1回の練習についていくのでいっぱいいっぱい。質の高い練習では、自分の思う走りがなかなかできませんでした」と振り返る。しかも1年目は故障が多かった。
それでも富士山女子駅伝では、静岡県学生選抜の一員として大学駅伝デビューを果たした。1区に起用され、日体大の同期・尾方唯莉(4年、東海大学熊本星翔)と競うことになり、区間3位だった尾方には16秒及ばなかった。
「(日体大のメンバーとして走れず)悔しかったので、どうせ走るなら勝ちたいと思っていましたが、やっぱり強かった。でも、『今はこれだけ力に差がある』という目安になりましたし、これから頑張る上で強い同期がいることを身近に感じられたのは良かったです」
自信つかんだ昨年の兵庫リレーカーニバル
2年目から本格的に取り組み始めた3000m障害は、高校の時に何度か走った経験から「自分の脚力なら水濠で蹴って、あまり水につからずに跳べる」という確信があった。さらに練習では「誰にも負けないくらいやらないと、みんなには追いつかない」と、決められたメニューだけでなく、プラスアルファの量や質を自身に課した。
そうした努力が実を結び、齋藤は3000m障害で日本インカレ優勝。駅伝でもレギュラーの座をつかみ、全日本2区区間3位、富士山4区区間2位と好走した。
3年目は3000m障害で関東インカレを制した後、初出場の日本選手権は10位。同じ大学生3人に先着され、「大学生はもちろん、社会人に勝っていくにはどうしなければいけないか」をより深く意識するようになったという。駅伝シーズンでは、得意の富士山で1区2位と力を発揮した。
齋藤が転機になったレースに挙げるのは、4年生で臨んだ昨年4月の兵庫リレーカーニバルだ。3000m障害で大幅自己新となる9分47秒76で制し、「自分はここまで走れるんだ」と大きな自信をつかんだ。「これなら世界とも戦えるようになるかもしれないと、そこからより『上へ、上へ』という気持ちになっていきました。強い選手に勝てたから、あまりひどい走りはできないという自覚も芽生えてきた気がします」
2カ月後の日本選手権でも、「状態が万全ではなかったので、本当ならもっと前に食らいついて先頭争いをしたかった」と言いながら、粘りの走りで2位に食い込んだ。3000m障害で世界を見据えつつ、駅伝でも安定感がある齋藤は、男子で言えばオリンピック2大会連続入賞の三浦龍司(SUBARU)のような存在に近づきつつある。
大きかったのは同期の存在
昨年の富士山女子駅伝で日体大は、後半区間で順位を落として3位でフィニッシュした。齋藤ら4年生が入学時に誓い合った「自分たちが在学中に駅伝で絶対に日本一になろう」という目標は、実現できなかった。
しかし、4年間で得られたもの、学べたことは、レースの結果以上の価値がある。齋藤が真っ先に思い浮かべるのは、「同期の存在です」と笑顔で話す。
「先頭でどんどん結果を残して頑張っている同期を見て、自分も頑張らなきゃいけないと思えましたし、常に『このままじゃいけない』という気持ちでいられました。駅伝でも、自分が足を引っ張らないように、少しでも楽に走ってもらえるように頑張れたのは、みんながいたから。高校の時は自分が引っ張っていく立場だったので、なかなかそういう心境にはなれませんでした」
近年の日体大を牽引(けんいん)してきた強力な4年生が抜け、3年生以下の選手たちは不安を感じているかもしれない。だが、齋藤は「一生懸命、地道に頑張っている後輩が多いので、私のようにそれまで実績がなくても、しっかり頑張っていけば結果が残ります。最終的には『悔いがなかった』と思ってもらえるように過ごしてくれればいいなと思っています」と温かいメッセージとともに、自分たちが果たせなかった駅伝日本一の目標を後輩たちに託した。
齋藤は春から実業団のパナソニックで競技を続ける。「3000m障害を軸にまずは世界陸上を目標にして、その延長上にオリンピックがあると考えています。タイムもどんどん上を狙って、最終的に世界で活躍できるような選手になりたいです」
4年間をやり切ったという、すがすがしい表情で、齋藤は次なるステージへと歩みを進める。