横浜国大・藤澤涼介「自分で考えて取り組む」スタイル貫いた4年間、社会人になっても
横浜国立大学の藤澤涼介(4年、佐野日大)がドラフト候補として脚光を浴びたのは、3年秋のことだった。2年春に3本塁打を放ち、神奈川大学野球連盟が選定する「フレッシュマン賞」を受賞すると、秋には4割の高打率を残した。3年秋に大学日本代表の候補合宿に参加し、持ち前の長打力だけでなく、50m5秒97の俊足を披露。「右打ちの長距離砲」はプロでも希少なだけに、4年生になった昨年は進路に注目が集まっていた。藤澤はプロ志望届を出すことなく、この春から社会人野球でプレーする道を選択した。
コロナ禍で野球ができない時間を勉強に
藤澤はまったくの無名だったわけではない。高校時代、高校野球雑誌の注目選手リストには名前が挙がっていた。宇都宮リトルシニアに所属した中学時代は、全国大会で準優勝を経験している。逆にそれほど実績のある選手が、なぜ強豪大学ではなく、受験のハードルも高い横浜国立大の門をたたいたのか。
「東大を頂点とする国立大学の中で、自分の学力で合格可能なエリアにあって、野球もそこそこ強いということで、ここにしました」と藤澤は志望動機を説明した。
大学進学に際しては「あまり野球に重きを置いていなかった」と言う。強豪チーム特有の管理された雰囲気に、どこか居心地の悪さを感じていたからだ。
「野球が心から楽しくやれていたのは小学校までで、中学くらいからつらいと感じるようになって、高校の頃は試合に勝った時にうれしいな、勝ててよかったなという気持ちしかありませんでした」と打ち明ける。高校最後の夏はコロナ禍で中止に。栃木独自大会も、ベスト8まで勝ち進んだところで打ち切りとなった。中途半端に終わったことで、「大学でも野球は続けよう」という気持ちになった。
ただ、進学先は「スポーツ推薦ではない形で入りたかった」。もともと特進クラスに所属しており、コロナ禍で野球ができなくなった時間は、そのまま勉強につぎ込んでいた。野球部の寮が閉鎖となり、夏前から自宅に戻って1日あたり10時間の受験勉強。難関の横浜国立大学理工学部、化学・生命系学科への入学を果たした。
バッティングの意識が変わった3年春の不振
横浜国大の硬式野球部は学生主体でチームを運営し、練習メニューも学生コーチなどを中心に自分たちで作っている。そんなチームカラーがマッチして、藤澤もいつの間にか「野球中心でありながら、授業や実験にもちゃんと出なきゃいけない」という学生生活になっていった。
横浜商科大学や桐蔭横浜大学など、高校時代に実績のある選手が集まってくる強豪チームも所属する神奈川リーグで、甲子園などに縁のない進学校出身者がほとんどの横浜国大は、毎シーズンどうしても苦しい戦いを強いられる。それでも藤澤が試合に出始めた1年秋に1部・2部入れ替え戦に勝って昇格すると、そこから1部の座を死守してきた。3年秋のリーグ戦では、チームにとって23年ぶりとなる勝ち点3を挙げる大健闘で3位に躍進した。
身長187cmと大型選手の部類に入るが、「もともとそんなに長打を打つようなタイプではなかった」と言う。高校までは感覚でプレーしてきた。大学に入って、先輩や同級生たちと動作解析などを行ってバッティングフォームを研究したり、外部コーチの指導を受けたりする中でスイングの改良を重ね、打球の飛距離が変わってきた。
「色々教わったり、自分で考えて取り組んだりすることで、結果として良いものが出てくることが楽しかった」と振り返る。今では「バッティングに対する追求心がすごい」と、チームメートからも一目を置かれる。しかし2年時に好成績を残しながら、3年春は打率2割を切る不振に陥った。
「4年間トータルで考えた時に、あの失敗の経験は結構大きかったですね。遠くに飛ばしたいから、無意識のうちにミートポイントが前になっていたんです。それで変化球を引っ掛けてしまっていた。一番力を伝えられるポイントまでしっかり引きつけて打つことを意識できるようになりました」
復調した秋のリーグ戦では、横浜スタジアムのレフト看板を直撃する140m級の大ホームランもあった。
西川史礁や渡部聖弥と感じた違い
SNSを活用したチームブランディングなど、横浜国大は野球以外のことにも部員同士が役割を分担し積極的に取り組んでいる。その中で中心選手でありながら、下級生の頃から「お前は打って貢献してくれたらいい」と、自分の練習に集中できる環境を作ってくれた。それだけに4年生になると、春秋とも3本塁打の成績は残しながら、チームの成績が振るわず、どこかモヤモヤした感情があった。
「自分が打たないと勝てないという思いが年々重くなっていて、それは何番を打っても変わらない。試合で負けて、そこで自分が下を向いたら、後輩たちも下を向いてしまう。普通、先輩に『しっかりしましょう』なんて声は掛けられないじゃないですか。立場というか、4年生になったら、自分が成績を残せているから責任を果たせているというわけにはいかない。でも、言葉でみんなを引っ張るみたいなことがちょっと苦手なんです」と苦笑いを浮かべる。
大学で結果が出始めてからは、漠然とだが「プロ」を意識するようになった。大学日本代表合宿の際に見せたパフォーマンスでスカウトの評価は上がり、ドラフトでの指名が有力視されていた。だが藤澤自身は、意外にもその合宿をきっかけに進路を社会人一本に絞ったという。
「僕の現時点での一番の持ち味は『打てるボールを逃さないでホームランにする』みたいなところなんですけど、プロは甘い球がほぼ来ない。リーグ戦や練習試合でも、プロに行くような投手のボールは、今の僕の技術ではしっかりとらえる確率が低くなります。そういう中で打率も残していかないと、試合に使ってもらえなくなりますから、今の実力でプロに行っても通用しないと思いました」
藤澤は冷静に分析する。たとえば150キロを超えるボールを外角低めに投げ込まれたら、どう対応するのか。しっかりとらえてライト方向に強い打球を打ち返せるようになりたいが、そのためにどうするのか、というのはまだつかみきれていない。
大学日本代表合宿で一緒にプレーした青山学院大学の西川史礁や、大阪商業大学の渡部聖弥といった大学野球界を代表する打者たちは、それができていた。数字の上では彼らと遜色ないスピードとパワーを見せたが、本人の感覚では「ちょっとレベルが違う」と感じた。そう考えると、リーグで残した成績に納得ができなくなった。大学通算14本塁打(2部、入れ替え戦を含めると通算17本塁打)。打った時のイメージで語られるが、本人の中では打てなかった時のイメージが、より強く残った。
都市対抗を観戦して「身につけたい」と感じた技術
都市対抗野球を観戦した時、社会人の打者がレフト線に引っ張ったツーベースを打ったり、右中間や左中間を破る強い打球を飛ばしたりしているのを見て、「この技術を身につけたい」と藤澤は思った。
この春からは、社会人野球屈指の強豪・東京ガスのユニホームを着る。複数の社会人チームの練習に参加し、雰囲気を体感してきた。強豪チーム、伝統のあるチーム、新興チームとそれぞれカラーは違うが、大学でやってきた「自分で考えて取り組む」スタイルを継続したい気持ちが強かった。「ここなら」と思えたのが東京ガスだった。
「2年やってプロに行けるレベルに到達するイメージというのが、今はあんまり湧いていなくて……。まず試合に出られるかどうかというところで、チーム内での競争に勝たなくてはいけないので。それでも『ウチのチームはこうなんだ』と押しつけるような雰囲気ではなく、選手個々の考えを尊重してもらえる。そういう意味では自分が成長できるチームだと思っています」
持っているポテンシャルを考えると、もし東京六大学や東都のようなリーグにいたら、より高い技術や対応能力が身についた可能性はある。ただ、「そこにいたら今の自分の姿にはなれていなかった」という思いも同時にある。だからこそ「自分の大学までの進路や、4年間やってきたことは間違っていなかったと思っています」と言い切る。
「ちょっと言い過ぎかもしれないけど、やらされてやる野球をいくらやっていても、楽しくはないし、僕は身につかない。自分で考えて選択したことがよかったと思うし、そうやって取り組むからこそ成長につながったと思っています。自分が無名の国立大学出身だからとか、そういうことはどうでもよくて、『野球がうまくなりたい、もっと打てるようになりたい』というところをひたすら追求していく。そんなイメージを持って野球をしています」
新しいステージでも、藤澤は自分のスタイルを貫いていく。