東京大学・渡辺向輝(下) 父とのピッチング話が楽しい瞬間「いつも言い負かしたい」
変則的なアンダースローから、ピッチトンネルを駆使して打者を打ち取る投球スタイルの確立を目指す東京大学の渡辺向輝(3年、海城)。後編では、独自のピッチング理論の源流を探るとともに、同じアンダースローの名投手だった父の渡辺俊介さん(現・日本製鉄かずさマジック監督)への思いも尋ねた。
オーバースローだった高校時代、球速は135キロ前後
渡辺のアンダースロー歴は、まだ3年にも満たない。高校3年夏の大会直前に、オーバースローからアンダースローに転向している。
渡辺の出身校・海城高校は、毎年50人近い東大合格者を輩出する都内屈指の進学校だ。部活動にも熱心で、硬式野球部は練習量が豊富。練習試合も多いチームだった。「進学校の野球部といっても、案外頭を使っていそうで、実はまったく使っていなかったんです。逆に時間がカツカツで野球について考える余裕がなくて、結構昭和風というか、ひたすら数を積んでいく感じでした」と渡辺は笑いながら高校時代を振り返る。
投球フォームは、学校で習ったばかりの物理の力学などの知識を用いながら、独自に研究して作り上げた。サイズと筋力がない分、必要な身体の箇所をうまく使って投げることを追求していた。「小さい身体をいっぱいに使って、パフォーマンスを上げていた感じです」と言う。当時はオーソドックスなオーバースロー。それでもストレートの球速は135キロ前後を計測していた。
「中学生の頃から結構球は速くて、このまま身長が伸びたらかなり野球でも良いところまでいけるんじゃないかと期待されてしまったところがあるんです。いざ高校生になったら身長が全然伸びてなくて、身体も大きくならない。それが悔しくて、どうにかして見返してやろうと思ってひたすら練習しました」
高校時代、投球フォームを作るにあたって一番心掛けていたのは、効率良くボールに力を伝えることだった。1カ所でも力のロスが起きているところを見つけたら、そこを徹底的にチェックした。教材はYouTubeにアップされるプロ野球選手の映像だった。スロー再生などもして徹底的に研究し、修正して投げてみて、ボールがどうなるかを比較。良かった方を採用していたという。
ただ、高校では同じレベルで野球を考えられる仲間がなかなかいなかった。周りに自分の考えを話しても理解してもらえず、監督からは「難しく考えすぎだ」と言われた。父親にも「さすがにそれは考えすぎだぞ」とたしなめられていた。
何か正解を見つけ出さないと、気が済まない
父親に対しては、野球のことで議論になってもいっさい引かず、自分の意見を主張し続けた。「何か正解を見つけ出さないと、気が済まない性格なんです」
幼い頃から親子鷹よろしく父親から手取り足取り野球を教わってきたのかと思ったら、きっぱりと否定された。
「全部自分でやろうとしていました。ウチの父は、僕とは真逆でずっと野球の強豪校で育ってきた人なので、昭和の時代の、ひたすら走って、ひたすら投げ込んで、感覚で覚えるというスタイルの野球をしていたと思うので、とりあえず僕が自分のやり方で大学で結果を出せたら、もし父に『それは違う』と言われても、堂々と言い返せるじゃないですか。子どもの頃から、ずっとそういうのを繰り返してきたものですから」と親子関係について話す。
高校時代、同学年には投手が渡辺1人しかいなかった。そのため試合を重ねると、どうしても登板過多になる。5月のゴールデンウィークの時期には、3連投して1日空いて、また3連投していた。定期テストで練習が休みになり、試験が終わったら、いきなり練習試合で完投することもあった。
疲労から肩に張りを感じ、監督に伝えると「お前にオーバースローは向いてない」と言われ、転向を勧められた。夏の大会は目前に迫っている。「はじめは冗談だと思いました」と渡辺は苦笑する。言われるがままにサイドスロー気味に腕を下げて投げていたら、いつの間にかオーバースローで投げられなくなっていた。それで「やむをえず」サイドスローに変え、さらに腕を下げてアンダースローになった。
即席のアンダースローで迎えた最後の夏の大会は、初戦の城北高校戦に先発。8-9で敗れた。
ストレートはどちらかと言うと「変化球の一つ」
そこから受験勉強に切り替え、東大に現役合格を果たすと野球部に入部。しかし当初はオーバースローでいくのかアンダースローでいくのかを決めかね、両方の練習をしていた。迷った末にアンダースローを選択した。
「僕には野球をやっていくうえで、フィジカル面でのアドバンテージがまったくない。いつもそれを認識した上でピッチングを考えてきました。高校のとき、オーバースローでは自分の身体でいけるところの上限までいってしまったので、これから野球で上を目指すのなら、切り替えてアンダースローでやっていくしかないなと思ったんです」
理由をそう明かす。当時は変化球もカーブすら満足に投げられず、2年春の東京六大学リーグ戦の初登板では、ぶっつけ本番でシンカーを投げた。今ではシンカーやスライダー、カーブといった球種を持つ。それらの回転効率を良くすることで、いわゆる「伸び上がる」軌道のボールと、回転が少ない「抜ける」ようなボールの投げ分けを意識している。伸びれば打者は差し込まれる。抜いたら打者は体が前に突っ込む。「その精度をもっと上げていくことが課題です」と言う。
そして、ストレートへの考え方がまた独特で面白い。
「僕の場合、ストレートはどちらかというと変化球の一つというイメージを持っています。むしろシンカーとかのほうを、いわゆる真っすぐ、ストレートの位置づけのボールとして考えています」
アンダースロー特有の下から出てきて落ちていく軌道のシンカーを基準にすると、浮き上がる軌道になるストレートは、「曲がったり落ちたりしない変化球で、なおかつちょっと球速があるボール」ということになる。
「とにかく理詰めで考えるようにしています」と渡辺は言う。ただ、単なる頭でっかちでもなさそうだ。投球の精度を上げるために、「やっぱり数をこなす必要もあるので」と、昨年の夏場から冬にかけて週3回に200球ずつ、1週間で600球の投げ込みを行った。「そうやって力技も織り交ぜながら、数で頑張って追いつこうとしています」と笑う。
「まず打ちにきてもらうことが大事」なため、打てそうなボールを投げなくてはいけない。でも、打てそうで本当に打たれたら意味がない。打者が「よし」と思って打ちにきたら、ほんの少しだけタイミングやバットの芯を外して凡打の山を築くスタイルが理想だ。
「常にそれを狙っています。だから逆に、こちらがゴロを狙って投げたボールをファウルにされたり、フライに打ち取ったと思ったらカンチャンになったりというのが困るんです。そもそも振ってこないこともある。だから打者が手を出したくなる『打ちたい』と思えるようなボールを投げる練習をしなきゃいけない。それはウェートトレーニングじゃ身につかないんで」
「ここまでいける」と考えているところまで
実戦で経験を積む中で、理論通りにはいかないところも出てきた。
「こちらは相手の打者が何を狙っているのか、それこそネクストにいるときからスイングを見たりして、『あ、インコースを意識しているな』とかいろいろ考えて、その逆を突いて打ち取ろうとしているわけです。でも、それに対して身体が自然に反応できてしまう人もいる。嫌ですよね。こちらが理詰めでいったのを、感覚で対応されてしまうのは」
渡辺はしみじみと言う。このレベルでピッチングを考えるようになってから、初めて父親とピッチングの話をするのが楽しいと思えるようになった。「いつも、父を言い負かしたいと思っているんです」と笑う。
「どれだけ理論を突き詰めていっても、いざ試合になったら、持っているものの差というか、ポテンシャルのある選手にはかなわないという要素が野球にはあります。東大がなかなか勝てないのも、そこに理由があるのですが。しんどいな、そういうものから逃げたいなという弱気な気持ちも正直あるのですが、今は自分の可能性を少しでも上げられるように、そこに挑んでいる感じですね。大学で限界まで突き詰めて、納得して4年間を終われたら、と思っています」
小柄な渡辺の挑戦は、自らの身体を最大限に使った実験でもある。
「そういうフィジカルのバケモノみたいな他校の選手たちを、僕みたいなちっちゃいヤツが全然速くないボールで打ち損じさせて、抑えてしまうというところに楽しさを感じていますから」
渡辺は目を輝かせた。今年で3年目のシーズン。大学生活は折り返し地点を過ぎ、後半に入っている。「4年間って、結構時間がないです。とくに僕の場合はイチからやっているので。がっつりアンダースロー1本に絞ったのは1年の秋からですから。今の時点で、自分が『ここまでいける』と頭で考えているところに必死に追いつこうとしているんですけど、本当に4年間で間に合うのかどうか、自分でも確証はないんですよね」
渡辺向輝の壮大なる実験は、これからますます深みを増していく。