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特集:駆け抜けた4years.2024

横浜国立大学硬式野球部3 強豪校レギュラーとベンチ外、対照的な経歴の2人が融合

躍進の原動力となった鵜飼(左)と下田(撮影・矢崎良一)

横浜国立大学が起こした「国大旋風」の原動力となっていた個性あふれる4年生たち。進学校、公立校、強豪校と様々な環境から集まってきた30人は、どうやってチームに融合していったのか。第3回では対照的なキャリアを持つ2人の選手、鵜飼彬史投手(4年、日大藤沢)と下田英司外野手(4年、都立城東)の大学野球生活をクローズアップする。

横浜国立大学硬式野球部2 自分たちの価値を知り、高める「チーム・ブランディング」

兄の姿を追い、日大藤沢から横浜国大へ

2022年春から神奈川大学リーグ1部で戦っている横浜国大。今の4年生にとっては、このときが初めての1部だった。そこから昨春までの3シーズンは各校との戦力差に直面し、わずか3勝。この3勝はいずれも鵜飼が勝ち投手になっており、自他ともに認める横浜国大のエースだ。

鵜飼は中学時代、ボーイズリーグの強豪・湘南クラブで全国大会優勝を経験している。高校でも日大藤沢のショートとして、3年夏に神奈川大会準優勝。東海大相模との決勝戦ではエースの武冨陸(現・セガサミー)が打ち込まれ、リリーフでマウンドに上がった。

神奈川準優勝チームのレギュラーともなれば、強豪大学からの誘いや、そのまま日大に進学する道もあっただろう。なぜ横浜国大に?

鵜飼は「それ、よく聞かれるし、驚かれます」と苦笑いを浮かべる。野球を始めた頃から、常に3歳上の兄・康弘(東海大高輪台~横浜国大)を目標にしてきた。その兄と同じユニホームを着たかったという。

「兄からよく国大の話を聞かされていたんです。そのときは1部にいるけどなかなか勝てない状況でしたから、だったら俺が行って優勝させてやる、と。1部の他校に比べて実力が劣るということは承知の上で、自分が入って何かを変えられたら、という思いでここに入ってきました」

鵜飼は日大藤沢高校時代、夏の神奈川大会で準優勝を収めた(撮影・朝日新聞社)

「投手リーダー」として下級生にも積極的に声かけ

高3の夏まで野球に集中していたので、そこからの受験勉強は大変だった。公募推薦枠で願書を出したが、ゲタを履かせてはもらえない。「一か八かで受けた」というのはまさに本音。志望校は横浜国大一本で、もし不合格になったら大学進学を諦めるつもりだった。

「湘南クラブも日大藤沢もチームは強かったけど、僕自身が目立ったようなことをしていたわけではなかったんで」と謙虚に言う。だから先輩や同級生から聞く今までにない野球の知識に、素直に耳を傾けられた。「みんな頭が良い人ばかりで、考え方とかも自分より一歩上なんです。そういう難しさを感じつつ、今までの自分とは違った視点から野球が見られたので、すごく新鮮でした」

ずっと強豪チームで「勝つ」ことを追求する野球をやってきた。周りの選手たちも、そういうメンタリティーで野球をしていた。横浜国大で、それはマイノリティーになる。多くの部員は勉強をメインに置きながら野球に打ち込んできた。自分があまりにも「勝つんだ」という意思を前に出しすぎると、周りは引いてしまうかもしれない。もちろんやるからには勝ちたい。だからといって「俺は勝ちたいから、ついてこい」という状況は作りたくなかった。

実際のところ、鵜飼が高校までに身に付けた野球のスキルとは、かなり開きがある選手もいただろう。だが、鵜飼は侮ることなく、チームメートとして手を携えていきたいという思いが強かった。そうした考え方ができるのは、母親の影響が大きいと鵜飼は言う。

看護師として働く母親を見て育ち、弱ったり困ったりしている人がいたら助けるものという価値観が植えつけられていた。強豪チームであればチームメートを蹴落としてでも勝ち残る厳しさが求められる。そういう世界に身を置くことは望まなかった。それも、横浜国大を選んだ一つの理由だった。

もともと人に押しつけられることが好きではない。4年生になってからは「投手リーダー」という役職に就き、まだ実戦経験が少ない下級生の投手に日頃から積極的に言葉をかけるようになった。そうやって自分なりに試行錯誤しながら、チームのレベルを上げようとしてきた。

「たぶん僕はちょっと変わっていて、『勝ちたい』という意識は強く根付いていると思うのですが、だからといって変なプライドがないんです。自分が特別という気持ちも、自分がみんなよりできるという自信も持っていないんで。何の隔てもなく、後輩の1年生のピッチャーに『ちょっと教えて』と言ってアドバイスを求めることもあるし、逆にこちらが聞かれて知っていることがあればどんどん教えますし。フェアな関係でずっとやってきたつもりです」

4年生になると「投手リーダー」を務めることになった(撮影・矢崎良一)

とはいえ、ずっと野球メインでやってきただけに、大学の環境には戸惑った。

「授業が結構あるので、全員が集まれる機会が少ない中でコミュニケーションを図りながら、練習形態も工夫しながらやってました。僕は教育学部ですが、理工学部なんかになると、実験が毎週のように入ってきます。そうなると平日の練習になかなか出てこられないんです。全体練習にまったく入れていない部員もいますから。そういう人たちは、個人の頑張り次第のところがあります。ある程度、本人任せというか。でもそこがまた、この野球部の良さでもあると思っています」

勝ち点3を挙げた要因の一つ「リリーフ鵜飼」

入学当初は、高校時代と同じように野手をやるつもりだった。実際に2年間は野手としてプレーし、3年生から投手に転向。ちょうどエースとして投げていた兄が卒業したタイミングで、投手陣の層が薄くなったのだ。鵜飼は野手で結果を残せていたわけではなかった分、心機一転、投手にチャレンジしようという気持ちになった。

3年春、1部に昇格して迎えたシーズンの最初の試合に先発。横浜商科大学を8回5安打無失点に抑え、2-0で初勝利を挙げた。

「いきなり開幕投手を任されたんで、3点くらいに抑えられて、最終的に2点差くらいで負けるんだったら上出来かなと思っていたんです。見ている人も、ウチがリードしていても『どこかで逆転されるだろう』みたいな雰囲気でしたから、負けても想定内なんだ、と。ずっと『勝たなきゃいけない』とか『絶対に負けられない』という集団でやっていたので、それがすごいプレッシャーだったのですが、『まあ勝てないだろうな』というみんなの小さな期待の中で、逆にのびのびと投げられましたね」

鵜飼は笑いながら振り返る。そこから各カードで先発を任されるようになった。しかし、この初勝利以降、チームも自身もなかなか勝てなくなった。「最初に勝ったことで、逆に悪い方向に転じてしまった気がします」と鵜飼は言う。

「あの横浜商大戦では初めて1部のチームと対戦して、データもなければ、どんなスイングをしてくるのかもわからない。とにかく思い切って投げようということで、結果として抑えられた。でも、あそこで抑えたことで、『いけるんじゃないか』と思ってしまったんです。なめてたとかじゃなくて、勝ちにいってしまったというか、『これくらいで投げたらいいんだ』と調整するようになっていました。挑戦者の意識が薄れていた気がします。それで勝たせてもらえるほど甘くなかったです」

春に2勝。秋は1勝。4年春は未勝利に終わった。それでも鵜飼がいなければリーグ戦のローテーションを回せなかったし、3季連続の入れ替え戦で持ちこたえることもできなかっただろう。

4年秋、鵜飼は一度も先発していない。それでも、登板数はチームの13試合中8試合。リリーフに回り、試合の後半でマウンドに上がるようになった。終盤までもつれる試合が多く、「リリーフ鵜飼」の存在は大きかった。石川直監督も「鵜飼が後ろにいるから、経験のない投手を前で使えた」と言う。代わって先発を任された永山琢己(2年、市立金沢)や寺本幹大(4年、桐朋)、中島治紀(2年、向陽)といった投手たちが、投げるたびに成長していった。

鵜飼が先発を続けていたら、その試合では勝てるチャンスがあっても、2戦目の投手起用が難しい。なおかつ他校の投手力を考えると、鵜飼といえども1カードで2勝するのは至難の業。そうやって3シーズン、勝ち点を逃してきた。この思い切った配置転換も、勝ち点3の要因になっている。

昨秋は登板した全試合がリリーフ、勝ち点3の原動力になった(撮影・矢崎良一)

「ミスが出たらみんなでカバーしたらいい」

下田英司(4年、都立城東)は、鵜飼が初先発で勝利に導いた1部初戦の横浜商大戦に「5番・DH」で出場している。

2打席でベンチに下がり、その後は試合途中からの出場が続いたが、シーズン最終戦の横浜商大戦に代打で打席に立ち、公式戦初ホームランを放った。秋からは外野のレギュラーとしてほぼフル出場。4年春にはクリーンアップを任され、中心打者の藤澤涼介(3年、佐野日大)の前後を打つポイントゲッター役を期待されていた。

バッティングが大好きで、ひたすら打つことを追求してきた。高打率を残すわけではないが、インパクトのある場面で打つ。「打てる」と思ったボールを積極的に打ちにいくからだろう。4年秋の神奈川工科大学戦で、大学通算2本目となる貴重な先制ホームランを放ち、チームの勝利に貢献している。

横浜国大はごく普通の短髪の選手たちが多い中、1人だけ青光りするほどの丸刈りを貫いた。「気合を入れる」と試合のたびに自分でバリカンを使って五厘刈りにし、試合中のベンチでは常に野太い声を出し続けた。ヒットはもちろん、四球でも相手エラーでも、出塁したら一塁ベース上で豪快なガッツポーズを見せチームを鼓舞。ムードメーカーとしてもチームに欠かせない存在だった。

野球が好きでバッティングを追求し続ける下田(撮影・矢崎良一)

城東高校時代は公式戦に出場した経験がなく、3年間メンバー外だった。ちなみに一緒に入部した同じ城東高校出身の三宅陽大外野手(4年)も高校時代はメンバー外。それでも「とにかく大学で野球を続けるつもりでした。高校でどうだったかということは関係なく、野球が好きで、やりたかったんで」と下田は言う。

「強いところに行きたかったんですけど、ベンチ入りもしていなかったんで、誘いがあるわけでもない。国大なら試合に出られるかもしれない。それも神奈川リーグの1部でしたから。練習会に来てみて、すごく雰囲気がいいなあと思いました。父親からも『国大なら強いからいいんじゃないか』と勧められたんで、なんとか受験勉強を頑張って。メンバーに入れなかった分、高3の夏、受験勉強を早く始められたんで有利でした」

そんな風に入学のいきさつを話してくれた下田。1部で負け続けていたチームが、4年秋に快進撃を果たしたことについては「春は0勝10敗という結果でしたが、間違ったことをやっていたとは思っていないんです」と冷静に受け止めている。

「やること自体は今までとあまり変わっていなかったはずです。先輩たちが作ってきたものを継続している。その中で、オープン戦でも結構自信をつかむような勝ち方もあって、意識がポジティブになっていた面はあると思います。『ミスしたらどうしよう』じゃなくて、『ミスが出たらみんなでカバーしたらいい』という感じになっていました。頭のいいヤツらが、みんなで考えて意見を出し合ってやっていることなんで。何が正しいとか言うよりも、みんな『勝ちたい』という気持ちは同じだから、間違った方向には行かないはずです。そこはお互いの信頼関係が大きいような気がします」

一塁ベース上で派手なガッツポーズを披露し、チームを鼓舞(撮影・矢崎良一)

入れ替え戦で踏みとどまった前年の経験が大きかった

下田はもう一つ、「経験」という要素を挙げる。1部に上がったばかりの頃は、他チームの選手を見て、「すげえな」とか「かなうわけないよ」という感覚があったという。そういう相手に負け続けて、最初は「仕方ないよ」だったのが、「悔しいな」に変わっていった。勝てると思った試合を細かいミスでひっくり返されたり、僅差(きんさ)の試合を重ねたりするうちに、「負けたくない」が強まった。

「そういう意味では去年1年間、入れ替え戦で踏みとどまって1部にいられたことが大きかったと思います」と下田は言う。

「同じことをやっているように見えて、たぶん微妙に違うと思うんです。試合の終盤までに無駄な失点をしていなかったり、取れるところで点を取っていたり。そして終盤の大事なところで、緊張せずに楽しくやれている。リードされていても、ベンチに『これからだよ』という空気がありました」

開幕戦に勝ったことで手応えを感じ、二つ、三つと勝ちを重ねることで、それが自信に変わった。そして入れ替え戦の可能性が消えると怖いものがなくなり、本当に試合を楽しみ始めた。優勝さえも見え始めた。注目される喜びを感じながらプレーするようになった。そういう相乗効果。それが昨秋の「国大旋風」だった。

横浜国立大学硬式野球部4(完)求められる自立、10年先を見据えた「未来への投資」

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