東京大学・三田村優希 軟式野球から2浪を経て神宮へ、すべてが報われた最終シーズン
中学・高校時代は軟式。2浪を経験してから東京大学の硬式野球部に進み、一時は制球難に悩まされながらも、4年の秋に登板試合数を増やした。三田村優希(4年、奈良学園登美ケ丘)の野球人生を短くまとめると、こうなる。度重なる苦難を乗り越えられた、その根底にあるモチベーションは何なのか。
少年野球は「9番セカンド」、中学からピッチャーに
三田村は野球漫画「MAJOR」(小学館)を見て、小学3年のときに野球を始めた。地元の「斑鳩少年野球部」では1個下に2022年のプロ野球ドラフト会議でオリックス・バファローズから1位指名を受けた左腕の曽谷龍平、1個上には智弁学園や東洋大学で活躍した外野手・納大地がおり、三田村自身は「9番・セカンド」が定位置だった。「平野恵一選手(元・オリックスなど)が好きで、少年野球のときは僕もあのような選手でした。身長も140cmぐらいだったんで、攻撃はセーフティーバント、守備はダイビングばっかりやってました」
このスタイルは周りから強制されていたわけではない。当時のコーチからは「体が大きくなったらホームランが打てるようになるから、今はやれることをやれ」と言われ、自身も納得。「どれだけ頑張って投げても速くないし、振っても飛ばないんで。センター返しとか右打ちとかもしてました」
投手をするようになったのは、中学受験で進学した中高一貫の奈良学園登美ケ丘に進んでから。学校は2008年設立と、まだ歴史が浅く、野球部員も1学年10人程度。少年野球を経験していたのは三田村を含め2人だけだった。「野球を成り立たせるために、自動的にピッチャーになった感じでした。ピッチャーに憧れて野球を始めたというのもあるので、うれしかったですね。コントロールも良くて、変化球も得意だったんで、今よりいいピッチャーだったかもしれません(笑)」
大会で勝ち上がることは難しかったが「野球ができること、試合に出られること自体が楽しい」と思えた。高校に進むと、これに加えて「強豪チームに立ち向かっていく楽しさ」を覚えることになる。
「東大野球部と似ている」境遇の高校時代
奈良の軟式野球強豪校は全国高校軟式野球選手権大会の常連で、2016年には全国優勝を果たした天理。当時の奈良学園登美ケ丘は、武器のスライダーに加えてフォークも投げていた三田村が好投すれば、天理に勝つ可能性が出てくるほどの実力を持ち、天理側も「三田村を打たないと奈良県を勝ち上がれない」と意識していた。「全国をめざしているレベルのチームに、僕たちみたいな弱小が立ち向かうのが楽しいなと。そこで勝利をめざすというのは、東大野球部と似ている面があるかもしれません」
三田村が高3だった2017年は、東大が東京六大学リーグ戦で15年ぶりとなる勝ち点を挙げた年だった。「東大野球部が全国的なニュースになっていたときで、ビビッときました」。志望校は決まった。
しかし、東大入学までの道のりは長かった。現役では合格できず、1浪で臨んだ2度目はわずかに1点だけ届かなかった。早稲田大学での仮面浪人を経て「東大で野球をやりたい」と3度目の挑戦。合格を勝ち取った。
2020年3月10日にあった合格発表の数日後、三田村は早くも東大球場を訪れて入部届を書いていた。このときから国内では新型コロナウイルスが広まり、春の選抜高校野球大会が中止になるなど、スポーツ界にも大きな影響が出ていた。「4月は部自体が止まってしまって、なかなか入れませんでした」
練習後、体中をアイシングした日々
夏になると、ようやく全体練習が始まった。「最初は練習についていくのが精いっぱいで、そもそも100人以上の組織で野球をすることが初めてだったので、圧倒されました。とりあえず、ぶっ倒れないようにだけ気をつけて、自分をコントロールしていました」。正午に練習が終わると、すぐに帰宅して体中をアイシング。午後はベッドの上で「回復しろ」と願いながら過ごした。
東大野球部の1年生は、基本的に先輩から出された練習メニューをこなす。そこから少しずつトレーニングなどの知識を蓄え、周りから情報を得ながら自分にあった方法を磨き上げていく。「入ってから2、3カ月ぐらい経つと、そういう雰囲気が自然と出てくるんです。自分で練習メニューを調べて『これいいっぽいよ』とか『これはここに効くらしいよ』とか。おのおの弱い部分や強い部分が分かっているので、『お前はこれやってみたら?』とか。ピッチャー陣は特にディスカッションみたいなことをしながら、自分なりに工夫していました」
中学・高校と軟式野球部で、浪人中は勉強のためにほとんど体を動かさず、コロナ禍で部としての活動が止まったときは「気晴らし程度」に硬球でキャッチボールをしていたという三田村。弱みは硬球で投げると、すぐに肩もひじも痛めてしまうことだった。そこで同じく軟式野球出身の同期で、まったく痛がらない松岡由機(4年、駒場東邦)の投球フォームを撮影し、自分の投球フォームとどこが違うのかを比べることから始めた。
「どこの筋肉が動いていないのか」を把握すると、通っていた病院のトレーナーに相談し、新しい助言を受けることで「知識だけはめっちゃ増えていきました」。ただ、その通りに体が動かないことは、もどかしかった。
「ストライクが入らないキャラ」からの脱出
三田村が「唯一の自慢」と誇れることがある。同期の中で一番早く神宮球場のマウンドで登板できたことだ。2020年の秋季フレッシュトーナメント(春季はコロナ禍の影響で中止)の慶應義塾大学戦に先発登板。「あのときは自分の中でうまくいってました。球速も135キロぐらい出て、先輩から『すげえヤツいるじゃん』みたいに言われてました」。ただ、神宮では浮足立っていた。「いま、投げてるの? みたいな感覚で力が入らないんです。空から自分を見ているみたいでした」
順風満帆に見えたが、その後は制球難に陥り「ストライクが入らないキャラになっちゃいました」。リーグ戦での初登板は4年春。早稲田大学との2回戦で、すでに大差をつけられた中、九回に1イニングだけ任された。「どうして僕に出番が回ってきたのかも、あまり覚えていないです。調子はすごく悪かったので、先頭バッターにデッドボール、その次もフォアボールで2点取られました」
それまでも自ら考え、工夫し、思いつく限りのことは試してきた。最終シーズンに向け「これまでも散々取り組みを変えてきたのに、これ以上どう変えよう」と悩むほどだった。ただ、春季リーグが終わった直後のオープン戦に登板すると、四球は一つしか出さなかった。「あ、今日はマシだったかな」。すると試合を重ねるごとに、「あれ、ストライクが入るようになってきた」と感じ始めた。原因はよく分からないが、「これまでは何をやってもダメだったのが、逆に何をやってもうまくいくようになったんです。点と点がつながった感覚はありました」とは言える。一度自信をつかむと、野球をシンプルに考えられるようになり、何事も好転するようになった。
モチベーションを維持できた三つのこと
4年の秋になると、毎カードのようにマウンドを任されるようになった。秋季リーグ序盤は「またフォアボールを出したら、これが野球人生最後の登板になるかも」とネガティブな考えになることもあったが、カードが進むにつれて試合に入り込めるようになった。「法政大学との3回戦で、3、4イニングぐらい投げたんです。そのときに初めて『試合って楽しい』と思うことができました。最後の立教大学戦も楽しくできて、『4年間やってきたことをぶつけてやろう』と余裕を持って投げられました」。春の1試合、1イニング登板から一転、秋は8試合、11回3分の2を投げて、防御率2.31。ブルペンに欠かせない存在となった。
東大野球部は、他のチームよりも明らかに勝利への壁が高い。悔しい思いもたくさんする中、何がモチベーションとなっているのか。三田村に尋ねると「三つあると思います」と教えてくれた。
一つ目は「周りからの高い期待に応えること」、二つ目は「強い選手に勝つことへの憧れ」。そして三つ目が示唆的だった。
「東大野球部って『文武両道の頂点』みたいに言われることもあるぐらい、注目度も高くて『六大学にいる意味』とかも、よく言われます。それぐらい全国の文武両道をめざしている人たちが、注目してる存在だと思うんです、そういう人たちに本気で野球に取り組んでいるところや『もしかしたら勝てる』というところを見せる使命感があるかもしれません」
かつての三田村が憧れたように、次は今の高校生が東大野球部の選手たちを見て、その本気度に憧れ、部の門をたたく。こうして部の歴史が紡がれていくのだろう。