野球

特集:駆け抜けた4years.2024

東京大学・別府洸太朗 けがで棒に振った甲子園、神宮で雪辱「突き進む力」これからも

2浪の末に神宮の舞台にたどり着いた東京大学の別府(高校時代を除きすべて撮影・井上翔太)

2023年度の東京大学は前年度から試合に出場していた選手が少なく、フレッシュなメンバーで臨んだ。苦しいシーズンになることが予想される中、井手峻監督(当時)が体調不良のために指揮を執れず、主将の梅林浩大(4年、静岡)は打撃不振で東京六大学春季リーグの途中からスタメン落ち。それでも主力の一人、別府洸太朗(4年、東筑)は「一つにまとまった良いチームでした」と胸を張る。自らの野球人生とともに振り返ってもらった。

【特集】駆け抜けた4years.2024

浪人時代の自分が見て喜ぶ野球を

最下位脱出と勝ち点奪取を掲げて挑んだ昨シーズン、苦しんでいたのは梅林だけでなく別府も同様だった。「試合に出ている4年生が少ないこともあって、『自分がどうにかしなきゃ』みたいな思いが、春はありました。『自分が打っていれば勝てた』と思うこともありましたし……。悩みすぎといえば、悩みすぎなんですけど」

前年の春秋リーグを制した明治大学との開幕戦は八回、一時逆転に成功したが、直後に追いつかれてサヨナラ負け。翌日の2回戦は3-3で迎えた九回、明治大の菅原謙伸(4年、花咲徳栄)が右中間へ放った打球に対し、センターを守っていた別府がダイビングしたが、わずかに届かず勝ち越された。攻撃面でも中軸を任されながら快音がなかなか聞かれず、打率1割3分9厘。勝ち星を挙げることなく、春季リーグを終えた。

4年春のシーズンはバッティングの調子が上がらず苦しんだ

最後の秋季リーグに向けては、考えを改めることから始めた。「東大野球部は負けて悔しい気持ちになることが多い。それならせめてプレーしている間ぐらいは『楽しむこと10割』ぐらいのつもりでやりたいなと思ったんです。あと1シーズンしかないってとき、結果に一喜一憂してるぐらいだったら、野球をやりたくてもできなかった浪人時代の自分が見て喜ぶような野球をやらないともったいない」

退路を断ち、東大単願で勝負

別府が東大を志したのは、高校3年の夏。本人によると「後ろ向きな理由」だった。

最後の夏の福岡大会は当初、「1番ライト」でスタメン出場していたが、準々決勝の福岡工大城東戦の守備中、フェンスにぶつかり手首を痛めた。バットを強く振ることができず、以降の立場は「守備固め」。チームはそのまま勝ち進み、21年ぶりとなる甲子園出場をつかんだ。別府は背番号14をつけてベンチ入りしたが、済美(愛媛)に敗れた1回戦に出番は訪れず、実際にプレーしたのは1チームあたり30分間の甲子園練習と試合前のシートノックだけだった。

東筑高校時代の別府(走者)。この一戦で手首を痛めてしまった(撮影・朝日新聞社)

けがをするまでは「やり切った」という思いが強く、高校限りで野球中心の生活を終えるつもりでいた。しかし次第に悔しさの方が大きくなり、大学でも野球を続ける、しかも甲子園に出ている選手と戦える東京六大学で、特にその中で唯一の国立である東大で、という気持ちが膨らんだ。

「せっかく自分たちの代で甲子園に出たのに、けがでそれを棒に振っちゃったなあと。そこから『大学では神宮で活躍したい、活躍すればけがをしたことも後になって良かったと思える』と信じて勉強を始めました」

1度目の受験では約90点足りずに不合格だった。「楽観的な性格なので『ワンチャンス受かったかな』とか思ってたんですけど、あまりに差が大きくて……。実力に開きがありすぎると、どれぐらいの実力差があるのか分からないものなんだなと思いました」と苦笑する。退路を断って東大単願で勝負を続け、2浪した末に念願の合格を果たした。

4年春の立教大戦でタイムリーを放った

先輩たちは「思った通りすごかった」

入学すると、待っていたのはコロナ禍だった。「東京の公園はボールもあまり使えないし、ジムも閉まっていました。部としては、みんなとZoomでつないで週に2回ぐらい筋力トレーニングをしていました」。浪人中の時間はほぼ勉強に充て、体を動かすのは知り合いが監督を務める自宅近くの高校を週に1度借りたり、近所のおじさんが誘ってくれた早朝ソフトボールに参加したりする程度。体がなまっていることに気付かされながら、「野球が始まったら野球ばっかりやっちゃうだろうから、単位を取ろう」とオンライン授業に熱心に取り組んだ。今では「コロナがあったおかげで留年せずに来られたかもしれないです」と振り返る。

実際に練習が再開されると「思った通りすごかった」。宮台康平(元・東京ヤクルトスワローズなど)を中心に2017年秋、15年ぶりの勝ち点を挙げたことは当時高3の別府も知っていた。特に先輩たちのがっしりとした体格には「高校生と比べたら全然違う」と驚かされたという。

2年春になると、試合に出られるようになった。7季ぶりの勝利を挙げた法政大学戦は、リードした展開でセンターの守備につき「最初のフライを捕るまではふわふわしてました」。それ以上に、神宮の舞台にようやく立てた安心感があった。「甲子園出場は福岡の場合、134チーム中1チームだったので、夢みたいな感じがありましたけど、神宮に関しては、受かるか分からない入試を受け続けたので『やっとこられた』という思いでした。そういう意味で甲子園と神宮は別ですね」

初めての神宮は「やっとこられた」という安心感でいっぱいだった

今では「早めに合格しなくて良かった」と思える

最終学年では「背番号1」を背負い、文字通りチームの中心になった。「それまでは『打てた、勝った、やった』みたいな感じで野球をしていましたけど、4年になったときは変な凡退をしたり、その際にやられた顔をできるだけしないようにしたり、というところを気をつけました。できるだけ周りにいい影響を与えられるようにと」

主将の梅林は秋も出場機会が少なかったが、その苦しさをまったく表情に出さずにチームを引っ張った。同期の学生コーチや試合に出ない選手たちは、練習や対戦相手の分析を手伝ってくれた。「その人たちが『サポートしてよかった』と納得して引退できるようなプレーや態度を秋は心がけました。いろんな人がいるんですけど、みんなが『勝つ』という目標に向いている組織って、なかなかないんじゃないかと思うんです。同期の存在が一番大きい。もともと後ろ向きな理由で東大をめざしたんですけど、本当に来て良かったと思える学年です。早めに合格しなくて良かったと思えるぐらい好きです」

卒業後は地元の福岡に戻って就職する。東大をめざす過程や野球部で培った「うまくいくか分からないことに対して突き進む力」を生かしていく。何事にも最初から無理だとは、決めつけない。

慣れ親しんだ東大球場での取材、同期への感謝を語った

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