東京大学・宮﨑湧 開成「1000年に一人の逸材」、まだ伸びる要素を感じ競技継続
総理大臣の母校でもある超名門進学校から東大現役合格。今年度、東京大学野球部の副将を務めた宮﨑湧(4年、開成)は、勉強においてはまさにエリートコースを歩んできた。しかし、東大生の中では異端児かもしれない。その思考の中心には、常に野球があったからだ。宮﨑にとっての大学4年間は、野球に明け暮れ、東京六大学リーグの他校の選手たちと自分の間にある距離を詰める戦いだった。屈辱と挫折を何度も味わいながら、その中でつかんだ手応えを胸に、卒業後も社会人のトップチームで野球を続ける。
「僕は野球をするために東大に入りました」
宮﨑はきっぱりとそう口にする。「東大に行きたい」よりも「東大野球部に入りたい」が高校時代のモチベーションだった。
高校時代は練習環境に恵まれず、ボールを使った全体練習は週に1度しかできない。他の日は自主練習やウェートトレーニング。中学まで硬式の強豪チームに所属していた宮﨑は、物足りなさを感じることも多かった。
「もっと練習したい、野球に没頭できる環境がほしいと常に思いながらも、現実的に学業との両立を考えると、あれが限界でした。部員たちの多くは放課後に学習塾に通ったり、夜も遅くまで勉強しなくてはなりません。僕自身、あれ以上に練習の時間を増やしたら、現役で合格できていたか微妙ですから」
大学ではより本気度の高い、レベルの高い野球をやりたかった。
宮﨑は「開成野球部、1000年に一人の逸材」と呼ばれている。名付け親は、開成高校の青木秀憲監督。大笑いしながら、こんな裏話をしてくれた。
「夏の選手権の前、マスコミ各社から各チームにアンケート取材の依頼が来ますよね。ああいうのは大げさに書いたほうが良いでしょう。でも『開成史上最高』はよく使われる表現なので、じゃあ『1000年に一人』なら、そんな昔のこと誰も確認できないし、文句も言われないだろうと思って書いたんですよ。そしたら誰が見ていたのか、何年かして、東京六大学のプロフィールにも使われていました」
夏の大会は3年連続初戦敗退で終わった。コールドで敗れた年もある。青木監督は試合後、最後のミーティングで「東大野球部で野球をやってくれ。これを3年間の締めの言葉とします」と部員たちにメッセージを送った。
合格発表の4日後には練習に参加
毎年、10人前後の野球部員が東大に合格する。だが、全員が野球部に入部するとは限らない。宮﨑の代は、浪人を含めて5人だった。ただそれも野球がうまい順に5人ではなく、主将だった選手も入部していない。他にやりたいことがあったり、高校で野球をやりきったという気持ちだったのだろう。
もちろん考え方は人それぞれ。野球だけがすべてではないし、まして東大生ともなればもっとおいしい選択肢がたくさんあるはずだ。
それでも宮﨑は高校3年間、大学では4年間、野球に時間と情熱を注ぎ込んできた。そこには「どうでもいいことにこそ一生懸命になれ」という青木監督の教えに感化されたところがある。
「ここ(野球部)にいる人は本当に野球が好きで、うまくなりたい集団なんです。『やらなくてはいけない』ではなく、『やりたくてやっている』なので本当に頑張れる。夢中になってできるのだと思います」
東大合格発表の4日後には野球部に入部し、練習に参加したという宮﨑。1年春のフレッシュリーグ(新人戦)で、同期の主将・松岡泰希(4年、東京都市大付)や4番打者の中井徹哉(4年、土浦一)とともにスタメンで起用され、将来の中心選手になることを印象づけた。秋にはリーグ戦初ヒットを記録し、2年ではスタメン出場の機会も増えた。
受験勉強のブランクから感覚を取り戻すのに時間がかかる選手が多い中、宮﨑の台頭が早かったのは、「物足りない」と感じていた高校の野球環境がアドバンテージになったのかもしれない。ボールを使った練習が出来ない分、ウェートトレーニングをガンガンやっていた。東大の野球部には、高校時代にウェートをやったことがない選手も多い。だから週6日の練習していた選手と比べても、体はまったく見劣りしなかった。早くから上級生たちに混じって、大学レベルの練習をすることができたから当然、技術のスキルも上がる。野球センスがあるから、試合に出れば打撃もソツなくこなす。それが「1000年に一人」と呼ばれるゆえんでもあった。
「MAXうまくなれるところまで行ってからやめたい」
3年生になると、外野のレギュラーとしてリーグ戦にフル出場。打順も1番に固定された。しかし自身の順調な成長曲線に対して、チームは宮﨑が入学してから一度も公式戦で勝つことができなかった。僅差(きんさ)の展開で進んでも、途中で糸が切れたかのように失点を重ね、終わってみたら大敗という試合も多かった。球場を出るときに、応援に来てくれた家族や知人と会うのが辛くて顔を上げることができなかった。チームとしても個人としても「僕らの存在意義ってあるのかな?」と悩み、野球への情熱を失いかけた時期もあった。
連敗に終止符が打たれたのは3年春。東大は最終カードの法政大学との第2戦に2-0で勝ち、2017年秋から続いていた連敗を64で止めた。勝利の瞬間、宮﨑は感動のあまり鳥肌が立ち、チームメートと号泣したという。この1勝が、宮﨑の野球人生の大きな分岐点となった。「努力すれば結果は出る」という成功体験だった。
最上級生になり、「野球が好き。もっとうまくなりたい」という気持ちに拍車が掛かっていく。グラウンドだけでは物足りず、外部の専門家のもとに通って技術指導を受けることもあった。そこで、それまで漠然と考えていた打撃フォームのメカニズムを学んだ。自分の技術が上がっている手応えもあった。
「自分の中にまだ伸びる要素があると感じたんです。『俺はこんなもんじゃないよ』と思った時に、『自分のMAXのうまくなれるところまで行ってから野球をやめたい』という気持ちになりました。あれは春のシーズンが終わった、6月半ばの頃ですね。残りの大学野球生活はあと4カ月くらい。ちょっと時間が足りないな、間に合わないかな、と焦りました」
無性に「もう少し野球がやりたい」という感情が湧いてきた。もともと野球は大学までにするつもりで、一般企業への就職活動を早い時期から始めていた。大学の同級生たちと情報交換する中で、「野球、やったらいいのに。続けないの?」とよく聞かれた。「サラリーマンもいいかと思って」とはぐらかしながら、「やれるもんなら、俺だってやりたいよ」というのが本音だった。思いのほか就活に苦戦し、状況次第では卒業を1年見送ることも考え始めていた。後悔のないようにという気持ちから、社会人野球の可能性を模索し、大久保裕助監督の口添えで日本通運の練習に参加。なんとか採用にこぎ着けた。
「僕が東大生だから、というのは絶対にあったはずです。野球の実力だけなら採用してはもらえなかったでしょう。野球が終わった後も、社業でも戦力になってくれよ、という期待があることはわかります。それでも僕は、何より野球を続けられることがうれしかった。一生懸命勉強をしておいてよかったです。野球だけやっていたら、もう野球を続けられなかったでしょうから。勉強は人生の選択肢を広げてくれるなぁ、とつくづく思いました」
野球を続けることになった経緯を、宮﨑はそんなふうに話してくれた。
積み上げてきた量の差を克服するために
それまでずっと「すごい」と見上げることしかできなかった他大学の選手たちを、「でも、同じ大学生なんだな」と思えた時がある。昨年8月に愛媛県で開催された六大学のオールスター戦。メンバーに選出された宮﨑は、他大学の選手をいつもとは違う角度から見る機会を得た。打撃練習では、昨秋のリーグ戦三冠王で、ドラフト2位で巨人に入団した慶応大学の萩尾匡也(4年、文徳)と同じ組で回った。
「持ってる雰囲気とか勝負強さは異次元な感じがしました。まずサイズに圧倒され、打球の飛距離はズバ抜けてます。でも、今の僕には絶対に無理だけど、これから社会人で2、3年死ぬほど努力したら、絶対に追いつけない差ではない、と思えたんです」
萩尾に限らず他大学の主力打者たちは、ツボに来たらとんでもない打球を飛ばすが、それなりにミスショットもする。でも東大の投手は、そのツボに投げてしまう。逆に他校の投手は東大の打者に対して簡単にツボへ投げてくれない。これがスコアの差になっている。
「例えばバッティングでも、東大には他大学よりもメカニズムを勉強している選手が多いんです。良い形を、頭ではわかっている。ただ、それを実践するための身体能力や感覚がない。それに加えて、投手との駆け引きの部分で、これまでの経験の蓄積がないから、どうしても負けてしまう。僕もそうでした。でもこれから社会人で、監督コーチだけでなく、圧倒的な実績や経験のある選手と、一緒に練習したり話を聞くことで、得られるものがあるはず。東大の選手も、積み上げてきた量の差をどこかで克服できたら、技術は遜色はない。それを証明したいんです」
宮﨑は新しい舞台で、また野球エリートたちに勝負を挑むつもりだ。