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特集:駆け抜けた4years.2024

横浜国立大学硬式野球部1 旋風起こしたリーグ戦、坂手裕太が感じた「チームフロー」

昨秋の神奈川大学リーグ戦で「国大旋風」を起こした背景を探った(撮影・矢崎良一)

昨秋、熱心な大学野球ファンの間で横浜国立大学が注目を集めた。神奈川大学リーグで春まで最下位争いを繰り返していたチームが、一躍、シーズン6勝を挙げて勝ち点3を獲得。明治神宮大会につながる関東地区選手権(横浜市長杯)への出場は逃したが、6月の全日本大学野球選手権で8強に進出した同じ国立の鹿屋体育大学に続き、今度は横浜国大が「国大旋風」を巻き起こすことになった。勝利に沸くベンチで、何が起きていたのか。チームを引っ張った4年生たちのストーリーを4回にわたって書き記す。

【特集】駆け抜けた4years.2024

勝ち点3に「こんな悔しい気持ちになるとは」

秋季リーグ開幕前のリアルな目標設定は「最下位脱出。入れ替え戦回避」だった。
「そりゃー『優勝』とか『横浜市長杯出場(2位以内)』と口に出していましたけど、春0勝のチームがそれを言っても現実味がないじゃないですか」

主将を務めた坂手裕太(4年、県立相模原)はそう本音を漏らす。最下位脱出のためには最低2勝以上、それも同じ相手からの2勝(勝ち点1)が必要になる。そのことの大変さを痛感していたからだ。

1949年のリーグ発足時から加盟している横浜国大は、その年の第1回リーグ戦での優勝が70年を超える歴史の中で唯一の栄冠だった。1999年春にはエース北川智規(元・オリックス)の活躍で49年ぶりの2位となったが、2000年代以降は1部と2部を行ったり来たりしていた。他大学が全国の強豪校から実績のある選手を集める中で、国立大学という受験のハードルの高さもあり、部員の多くは関東近県の進学校出身者が占め、今のチームに甲子園出場経験者はいない。苦戦するのも致し方ないところだ。

現在の4年生が入学してきた2020年は2部にいた。翌21年、春に2部で優勝しながら松蔭大学との入れ替え戦に敗れた。秋に再び松蔭大との入れ替え戦に臨み、今度は勝って念願の1部昇格を果たした。

1部リーグで迎えた2022年春は2勝、秋は1勝を挙げたが、勝ち点獲得にはいたらず連続最下位。彼らが最上級生になった昨春は0勝10敗。いずれも2部優勝校を退けて1部残留となったが、入れ替え戦には5季連続の出場で、1部昇格後の3シーズンは勝ち点を取ったことがなかった。

開幕前の目標は「最下位脱出と入れ替え戦回避」だったという坂手(撮影・矢崎良一)

そんなチームが昨秋、開幕カードとなった関東学院大学との2戦目に1-0で辛勝。シーズンをまたいだリーグ戦の連敗を19で止めると、4年ぶりの勝ち点獲得がかかった3戦目も4-1で勝った。そこから快進撃が始まった。

2カード目の神奈川大学戦は初戦を延長11回タイブレークの末に7-6で勝つと、1勝1敗で迎えた3戦目は11-8と乱打戦を制して連続勝ち点。3カード目の神奈川工科大学戦でも3戦目までもつれた結果、23年ぶりとなる勝ち点3を挙げた。

優勝も視野に入ってくる中、4カード目の桐蔭横浜大学戦は、楽天からドラフト1位指名を受けた左腕・古謝樹(4年、湘南学院)に6回10奪三振と抑え込まれ0-12でコールド負け。2戦目も敗れて初めて勝ち点を落とした。そして横浜市長杯出場がかかった最終カードの横浜商科大学戦も連敗。6勝7敗、勝ち点3の3位でシーズンを終えた。

最終戦の後、選手とスタッフ全員が集合した円陣で、坂手主将は「勝ち点3を取って、こんなに悔しい気持ちになるとは思わなかった」と涙を流し、言葉を詰まらせていた。

「一生懸命」の春から、秋は「楽しもう」に

春のリーグ戦で1勝もできなかったチームは、なぜ突然、勝てるようになったのだろう?

坂手は「あれからずっと考えているんですが、答えが出ないんです」と言う。「一つの『これがあったから』というものではなく、いろんな要素が絡みあって生まれた結果だったと思います」

部活動を引退した後、卒論のテーマにしたのが「チームフロー」について。「フロー」とは「極限集中力」のことだ。

簡単に言えば、集中しているうちに時間を忘れてしまうくらい楽しい感覚を指す。スポーツに限らず、たとえば飲食店のアルバイトでも、食事時にたくさんの客が絶え間なく来店したことで仕事に没頭し、ふと時計を見るともう何時間も過ぎていた、ということも一種の「フロー」状態だ。この究極が「ゾーン」と呼ばれる状態で、オリンピックなどの大舞台で戦うアスリートは、こうした脳や心をコントロールできなくては成績を残せないと言われている。

坂手が「あれはフロー状態だったのではないか」とピックアップするのが3カード目、神奈川工科大との第3戦。2点を追う四回裏、10点を挙げて試合を決めてしまったときのことだ。

「練習試合でもそんな大量得点なんて一度もなかったんです。それが大事な公式戦で、強い相手に対してできてしまった。相手のミスも絡んでいるのですが、走者が走っても刺されないし、仕掛けたことが全部成功する。何をしてもうまくいくという感覚で、あっという間に10点が入っていました」

今にして思えば秋のリーグ戦では試合中に「楽しい」と感じることがよくあった。勝てたからというだけではない。

「春は一生懸命という気持ちが勝ってしまって、『こうしなきゃいけない』と考えてばかりいたんです。秋はそこから割り切って『楽しもう』に切り替えができていたことが、チームが変われた一つの要因かもしれません」

昨秋のリーグ戦では選手たちに笑顔が多く見られた(撮影・矢崎良一)

究極の場面でも冷静さを保てた理由

坂手は高校時代にも「フロー」らしき体験をしている。

県立相模原高校の主将だった坂手は3年生の夏、神奈川大会の準々決勝で横浜高校と対戦した。4年連続夏の甲子園出場を狙う王者を相手に、0-5でリードを許した展開から終盤の七回裏、集中打で5点を挙げて同点に追いついた。球場全体が異様な雰囲気に包まれる中、イニングが変わっても勢いは止まらず、続く八回裏には、リリーフでマウンドに上がった横浜の及川雅貴(現・阪神)から3点を奪って逆転した。

8-6で迎えた九回表の守備。無死一、二塁のピンチを招き、打席に4番打者の度会隆輝(現・DeNA)を迎えた。ショートを守る坂手は自らの意思でタイムを取って内野手をマウンドに集め、「まだ、勝てるなんて思うなよ」と声を掛け、目の前のプレーに集中することを促した。

究極の場面でも冷静さを保てたのは、1年前の経験が大きかったかもしれない。2年生だった前年の夏、やはり神奈川大会の準々決勝で東海大相模を相手に大熱戦を繰り広げた。横浜戦と同じ8-6のスコアで九回裏を迎えながら、勝ち急いでしまった。先頭打者の出塁を許し、相手の3番打者・森下翔太(現・阪神)に同点2ランを浴びた。そのままサヨナラ負けを喫した苦い記憶があった。

今回も似たようなピンチの場面。度会のショート後方へのフライを坂手がダイビングキャッチで好捕し一つ目のアウトを取ると、試合の流れを相手に渡すことなくそのままゲームセット。1年前の悔しさを再び味わうことはなかった。「弱者が強者を倒す。強いところに勝つというのが、スポーツのだいご味だと思うんです」と坂手は言う。

公立校でも横浜や東海大相模と互角に戦えるし、戦い方次第では勝つこともできる。その手応えは今の坂手にとって確かなものになっている。

相模原高校時代、度会の飛球を好捕した坂手(撮影・朝日新聞社)

古謝樹に抑え込まれたことより、悔しいのは……

話を戻そう。結果的に0勝10敗で終わった春のシーズンにも、「このゲームは勝てていたな」という内容の試合が少なくとも4、5戦はあった。「4勝6敗くらいでもおかしくなかった」と坂手は言い切る。「野球になっていたと言うか、試合をしていく中で、点数が詰まったりすることもありました。そういうときに、なぜかだんだん歯車が狂ってしまうんです」

内外野の間に上がったフライを捕れずにヒットにしてしまったり、1本のタイムリーヒットから、それまでの前向きな気持ちがガクッと崩れてしまったりする。終盤まで接戦で踏ん張ってきたのに、そこから失点を重ね、終わってみれば点差が開いている。自滅といえば自滅。「自分たちの力は100%出せた」という試合もいくつかあったが、それが必ずしも勝利につながっているわけではなかった。

「結局、ウチは対戦相手との『絡み』なんです。相手が下がってきたときに、自分たちがベストの状態で対戦できて初めて勝ちという結果が出てくる」と坂手は言う。実際、1部に上がったばかりの頃は相手の力もわからず、「とにかく自分たちの力を出し切ろう」というテンションで試合に臨んでいた。それで「いい勝負」まではいけても、勝ち点獲得にはなかなか届かなかった。

昨年の春まではいい試合をしても勝ち点には届かなかった(撮影・矢崎良一)

秋は対等に戦ったら無理だということを受け止めた上で、試合をしていた。相手が100%を出してきたら勝てない、と。だから桐蔭横浜大の古謝に抑え込まれて完敗した試合も、「1敗」以上のダメージは感じなかった。このクラスの投手がベストの状態で投げてきたら、どこのチームもそうそう点は取れない。「それを割り切った上で、自分たちが力を100%出して、相手に隙があれば、そこにつけ込めるという準備はしていた」と言う。だから桐蔭横浜大とのカードは1戦目の敗戦以上に、なんとかして2戦目を取り、3戦目に持ち込んでもう一度古謝と対戦できなかったことを悔やんでいる。

坂手は秋の戦いぶりを「踏ん張るところを踏ん張って、自分たちがやりたい攻撃を全部仕掛けた上で、相手を超えるか超えられないかという試合ができていました」と振り返る。それができたのはなぜか? 坂手の言う「いくつかの要素」の中の大きな一つとして、「4年生たちのエネルギー」があった。

オピニオンリーダーとなった学生コーチの存在

4年生は部員が30人いる。3年生は12人。3年生が普通で4年生は歴代で見ても異例の多さだという。OBから「こんなに人数の多い代はない」とよく言われていた。

表現は悪いが、コロナが追い風になった一面がある。入学と同時にコロナ禍に見舞われ、約1年間は活動に多くの規制がかかった。通常の年であれば、なんとなく入部してきて真剣さに驚き、退部してサークルに流れていく者も多いという。4年生の部員たちは、せっかく入部したのに打ち込めなくなったことで、逆に「もっと本気の野球がやりたい」という欲求を深めていった。

オフの日にもバッティングセンターに通って打ち込んだり、軟式野球に参加したりする者もいた。年末の練習を納めた後のクリスマスの日、自然発生的にみんながグラウンドに集まってきて練習をしていたこともある。「それくらい野球バカが集まってきたんです」と坂手は笑う。

この学年で坂手とともにオピニオンリーダーとなったのが、学生コーチの吉田貴俊(4年、東京都市大付属)だった。

吉田は2年生まで選手としてプレーしていた。横浜国大は学生コーチの比重が高い。監督がフルタイムで指導できないため、通常の練習をメニュー作成から進行まで学生コーチが仕切ることになる。主将とともにチームの方向性を打ち出し、試合での選手起用についても監督に提案する。

3年生になる時、この学年には学生コーチがいなかったため、誰かがやらなくてはならないということで、学年全員で話し合った。吉田や坂手ら数人が候補に挙がり、最終調整の段階になって、吉田が「俺がやるから」と立候補。投手部門を担当する岩本隼人(4年、小山台)とともに2人の学生コーチ就任が決まった。

3年生になるとき、学生コーチに就任した吉田(撮影・矢崎良一)

吉田は秋の戦いぶりを「最後は運を実力でねじ伏せられてしまった」と表現する。

「僕は坂手とはちょっと考えが違っていて、あまり自分たちを『弱者』と規定したくないんです。同じ土俵に立って、できれば追い越さなくちゃいけないと思ってました。でもそれをしようと思ったら、1年そこらじゃ無理なんです。それは途中で気付きました。スカウティングやグラウンド環境なんかにしても、他大学とは大きな差がありますから。だから『弱者が強者を倒す』という根幹はそれで良いとして、その『弱』をもう少し強めていかなきゃいけない。それを後回しにしていては、結果はずっと同じになってしまいますから」

選手の時には「うまくなりたい」とか「レギュラーを取るんだ」という、自分の成長がモチベーションになっていた。コーチになってからは、チームの勝利に喜びや達成感を得られるようになった。

「何よりも僕はこの国大野球部が好きなので、自分がどんなことをしたらもっと良いチームになるだろうか、いろんな人に知ってもらえるだろうか、というのは常に考えていました」

そんな吉田の思考が少しずつ形になっていく。

横浜国立大学硬式野球部2 自分たちの価値を知り、高める「チーム・ブランディング」

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