帝京平成大・林侑之介 履正社では公式戦登板ゼロ、大学で花開きプロ入りした同期追う
帝京平成大学の左腕・林侑之介(4年、履正社)はエースとして投手陣を引っ張り、東都大学3部のリーグ優勝に大きく貢献した。全国屈指の強豪に在籍した高校時代、チームは2年の夏に甲子園で全国制覇。しかし、林自身は3年間、一度も公式戦のマウンドに立つことがなかった。大学4年間で力をつけ、最後のリーグ戦で有終の美を飾った。
ラストシーズン、東都3部で4タイトルを獲得
身長170cmと小柄だが、キレのいいストレートと変化球を高低に投げ分け、空振りを奪うのが林のピッチングスタイルだ。4年春を終えた時点で通算15試合に登板し、2勝2敗。しかし、秋はリーグ戦7試合(先発5、救援2)に登板して4勝0敗、防御率1.06と見事な成績で投手陣を引っ張った。3部リーグの最高殊勲選手、最優秀投手、最優秀防御率、ベストナインの4タイトルを獲得した。
「春は1勝2敗というふがいない結果に終わり、チームも3部優勝を逃してしまいました。秋は絶対にこの借りを返すぞ、という気持ちで夏の練習に取り組んで、その思いがいい結果につながったと思います」と林は好投の要因を振り返る。
2部6位・国士舘大学との入れ替え戦でも、1、3回戦に先発した。初戦は6回を4安打1失点と好投。試合は延長12回を終えて2-2と両者譲らず、引き分けに終わった。2回戦は1-2で敗れ、迎えた3回戦。林は再度先発したが、五回途中3失点で降板。チームは0-4で敗れ、チーム初となる2部昇格には届かなかった。ただ、神宮の舞台で2部のチームを苦しめた。
選抜準優勝を見て「履正社へ行きたい」
林は小学1年で京都府の胡麻ヤンチャーズに入部し、野球を始めた。中学時代は軟式野球のクラブチーム・NBC南丹ベースボールクラブでプレー。中学3年の春、履正社が準優勝した第89回選抜高校野球大会を見て、「自分も履正社へ行きたい」という思いを強くした。
覚悟を持って入部したが、先輩や同期のレベルの高さに圧倒されたという。「最初の方は、練習についていくので精いっぱいでした。特に技術面で、自分とはレベルの違いがだいぶありました」と林は苦笑する。
高校2年の夏、チームが第101回全国高校野球選手権大会で全国の頂点に立ったとき、林はアルプススタンドから声援を送っていた。翌年の春も、チームは選抜高校野球大会への出場権を得ていたが、コロナ禍で中止に。もし大会が行われていれば、優勝候補の一角として注目されていたはずだ。8月に開催された甲子園交流試合では石川・星稜高校に10-1で勝った。
10月のプロ野球ドラフト会議では、内星龍(東北楽天ゴールデンイーグルス)、田上奏大(福岡ソフトバンクホークス)、小深田大地(元・横浜DeNAベイスターズ)の3人がNPBから指名を受けた。前年夏の甲子園で優勝投手になった岩崎峻典(福岡ソフトバンクホークス)も、東洋大学からプロ入りを果たした。
レベルの高いチームの中で林も懸命に努力を続けたが、公式戦のマウンドを踏むことなく、約2年半の高校野球を終えた。それでも、履正社で野球に打ち込んだ日々は、自身を大きく成長させる3年間になったという。「周りはすごい選手ばかりだったので、彼らからいいところを吸収することができました。意識の高い選手に囲まれて、自分も意識を高めることができました。履正社の速いテンポのノックを毎日受けることによって、野球の基礎を身につけることができたんです」と胸を張る。
大学でも野球を続けたいと考え、当時は千葉県大学野球の2部リーグに所属していた帝京平成大学に進学した。「最初は東都のある大学を志望していたのですが、そこからは合格をもらえなくて。関係者の方から帝京平成を紹介してもらって、ここで野球を続けられることになりました。まさかそのときは、チームが東都へ移るなんて想像もしなかったです」
全く想像していなかった東都への新加盟
大学1年秋のリーグ戦開幕直前のミーティングで、当時指揮を執っていた河野和洋監督から、千葉県大学野球連盟を脱退して翌年から東都大学野球連盟に新加盟することを伝えられた。当時の心境を林はこう語る。
「驚きもありましたけれど、注目されて、自分にとってはチャンスかなと思いました。社会人でも野球を続けたかったので、頑張って上のリーグに上がっていければ、進路の幅も広がるだろうと思いました」
東都最初のシーズンとなった2022年春、チームは4部リーグを制し、入れ替え戦にも勝って3部昇格を決めた。秋はリーグ戦途中に監督が交代したが、3部で優勝。しかし、入れ替え戦で国士舘大に敗れ、2部昇格は果たせなかった。「戦国」と呼ばれる東都での戦いは甘くなかった。林が3年生になった2023年春からは、春秋ともに3部2位。2024年春も3位に終わり、入れ替え戦に進むことができなかった。
林も2年の春から公式戦のマウンドへ上がるようになっていたが、伸び悩んでいた。「下級生の頃は四球から崩れて、試合にならなくて代えられることが多かったんです。村松伸哉コーチから『独りよがりのピッチングになっている』と何度も言われて、試合前のウォーミングアップから自分と向き合う時間を作るようにしたことから、マウンドでも冷静でいられるようになりました」
試行錯誤しながら作り上げてきたピッチングフォームも、4年夏のオープン戦からしっくりくるようになった。積み重ねてきた努力が大学ラストシーズンで花を咲かせた。
社会人の舞台、結果で恩返しを
大学を卒業後は社会人野球の世界で新たなスタートを切る。今春から活動をスタートさせた社会人野球チーム「マルハン北日本カンパニー」の一員として、まずは都市対抗出場を目指す。
高校3年間で野球の基礎を身につけて意識を高め、大学4年間で精神面や技術面でさらに成長できたと自負する。加盟リーグの移籍という、なかなかないことも経験できた。プロ入りした履正社の同期4人の存在も大きな刺激になっている。
「自分も、小さい頃から夢だったプロ野球選手を目指してやっていきたい。今までお世話になった方々に、社会人の舞台で、結果で恩返ししたいです」
東京ドームでの活躍、そしてプロへの挑戦。さらに高い目標を掲げ、新たな戦いに挑む。