野球

青森大学・三浦忠吉監督 「超手作り」の環境整備、マネージャー経験生かし母校を再生

青森大学を率いる三浦忠吉監督の「超手作り」チーム運営とは(すべて撮影・川浪康太郎)

衰退の道をたどる母校を救うべく、アマチュアの最高峰である社会人野球界から離れる決断を下した。青森大学硬式野球部の三浦忠吉監督はJR北海道に12年間在籍した後、2016年から母校のコーチ、翌年から監督に就任。「JRに残った方がいい」という周囲の反対を押し切っての転身だった。覚悟を決めたその日から、「超手作り」のチーム運営がスタートした。

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はじめは断ったが、足を運ぶと考えが変わった

「大卒の総合職なので将来は安定していますし、ゆくゆくは(JR北海道の)監督になるという夢もあった。いろんな人に『辞める必要はない』という話をされましたが、このままでは衰退してしまいそうな母校の状況を見て、戻ることに決めました」

JR北海道で選手として6年間プレーし、その後はコーチやマネージャーを歴任した三浦監督。充実した社会人生活を送る中、青森大の鳥谷部勉・前監督から「戻ってこないか」という話を持ちかけられた当初は、「学生野球に戻る気はない」と断りを入れていた。しかし母校に足を運んで現状を目にすると、考えが変わった。

当初は「学生野球に戻る気はない」と断っていた

ボールやネットが不足しており、室内練習場で走れば砂ぼこりが舞って視界を遮られる。ウェートルームはなく、ボロボロになった木のベンチが1台置いてあるだけ。「これでは満足のいく練習はできない。歴史と伝統のある青森大学はどうなってしまうんだ」。かつて「神宮に出るのが当たり前」だった青森大は、勢いのある富士大学や八戸学院大学に差をつけられ、プロや社会人に進む選手もほとんどいない状況になっていた。

「苦しむ後輩たちのためにどうにかして立て直したい」。そんな思いがふつふつと湧き上がってきた一方、当時30代半ばの三浦監督には迷いもあった。鳥谷部前監督から誘いを受けるまでは、JR北海道に残り続けるか、地元・東京の実家が営む商社を継ぐかの「二択」で悩んでいた。

それでも、抱いた危機感をそのままにしておくことはできなかった。JR北海道の当時の監督に背中を押され、結果的に家業を継ぐことになった実兄から「野球に携わってほしい」と伝えられたこともあり、迷いを捨てて青森へ向かった。三浦監督は「ボロボロの施設やチームを見て悲しくなったのを今でも思い出します。OBたちが胸を張って誇れる学校にしたいという気持ちで青森へ戻りました」と決断を振り返る。

限られた予算で何を直すか、何が必要か、どう頼むか

母校の指導者となり、まず取り組んだのは環境整備だった。砂ぼこりが舞っていた室内練習場には人工芝を敷き、ウェートルームを設け、ネットショッピングで購入した器具を配置した。ほかにも照明設備を取り付けたり、監督室やマネージャー室を新設してスカウトら来訪者が視察するスペースも確保したり。まさに「超手作り」だった。

環境整備を進める上で生きたのが、JR北海道で経験したマネージャー業務だ。「社会人チームではハード面、ソフト面の環境改善をすべてマネージャーが担当する。仮説を立て、計画して遂行する経験があったからこそ、大学でもうまくやりくりができました」と三浦監督は話す。

仮説を立て、計画し、遂行する。大学でも社会人時代の経験が生きている

現場の要望を聞き、予算を算出して、会社の各部署に掛け合い、実現するのが社会人時代のマネージャーの仕事だ。限られた予算の中で何を直すべきか、何が必要か、どう頼むか……。大学の監督になってからも、チームを立て直したい一心で日々、頭を働かせた。

練習環境が整えば選手も目の色を変える。監督就任当初は、練習に顔を出さない部員も散見されたが、徐々にグラウンドに集まる人数が増えてきた。約180人いた部員全員に成長の機会を与えようと、朝1回、夕方2回と1日計3回の練習時間を設けてノックを打つなど、全力で選手と向き合った。

選手集めにも奔走、伸びた逸材がプロや社会人へ

同時並行で選手集めにも奔走した。全国各地を飛び回り、東北・北海道のみならず関東、関西、九州など、幅広い地域に潜む逸材を発掘してきた。

また一昨年からは、グラウンドが使えない冬の期間の実戦を増やし、12月には関東遠征を敢行。バスで片道約10時間半かけて埼玉まで移動し、JR東日本の元監督・堀井哲也監督が指揮を執る慶應義塾大学、JR東日本元マネージャーの松浦健介監督が率いる駿河台大学とオープン戦を行っている。社会人時代の人脈も生かしたチーム運営には抜かりがない。

監督就任後、全国大会出場こそかなっていないものの、激戦の北東北大学野球リーグで2度のリーグ優勝を達成。近年は社会人球界で活躍するOBも増えてきており、蝦名達夫(横浜DeNAベイスターズ)、名原典彦(広島東洋カープ)、庄司陽斗(横浜DeNAベイスターズ)がNPBの世界へ飛び込んだ。

上のカテゴリーに進む選手のほとんどは、高校まで輝かしい実績がなく、大学で実力を伸ばした選手たちだ。彼らの努力と結果が、「青森から羽ばたくために必要なのは環境整備」という三浦監督の仮説を立証してくれた。

選手たちが自身の仮説を立証してくれた

教え子が「夢をつかむ」ための努力をこれからも

「うちはほかの強豪大学と比べると自信のない子が多い。でも、遠い場所から覚悟を持って来てくれた子や、中央球界に目を向けられず、本意ではなかった青森大に来てやり返そうと頑張る子たちがいる」

実績がなくても「何か一つ光るもの」を持つ高校生には、「青森のこの環境で、野球に向き合う時間を誰よりも多く作って努力した結果、高校時代の立ち位置を覆して夢をつかんだ先輩たちがたくさんいる」と伝えてきた。その言葉を信じ、本州最北の地で野球にすべてを捧げようと決めた教え子たちがいる。

監督就任から8年の月日が経った。必死に母校の衰退を食い止めてきたが、まだまだ道半ば。昨年はリーグ戦で春4位、秋5位と低迷したチームを再建する責務がある。選手が「夢をつかむ」ための努力は、信じてついてきてくれる選手がいる限り続く。

ついてきてくれる選手がいる限り、三浦監督の挑戦は続く

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