東北大・増茂雄大 心残りを払拭したラストイヤー、母に見せたかった「野球をする姿」

「僕の出ないリーグ戦を、母親は見に来てくれていた。そんな母親に野球をする姿を見せずに終わるわけにはいかない。もう二度目はないだろう」。大学3年時まで出場機会に恵まれず、腐りかけていた東北大学の内野手・増茂雄大(4年、水城)。練習を休む日が増え、退部を考えたこともあったが、どうしても拭いきれない心残りがあった。女手ひとつで育ててくれた母・リカさんのために戦い抜いたラストイヤー。最後に野球の女神がほほえんだ。
楽しかった野球が嫌いに、高校で学生コーチに転身
水戸市出身の増茂は小学3年の頃に野球を始め、中学時代は硬式野球チームの水戸リトルシニアでプレーした。中学では主将を務め、全国大会にも出場。当時について「やればやるほど誰かが評価してくれて、もっと打てるようになる。グラウンドに向かうのが楽しい時期でした」と振り返る。
しかし、地元の私立校である水城高校に進学してからは厳しい練習に心が折れ、野球が嫌いになってしまった。「このまま交差点に突っ込んでしまえば、野球もやめられて楽になれるかな?」。練習からの帰り道、自転車で信号待ちをしながらチームメートにそう漏らすほど、極限状態に陥っていた。
高校1年の終わりごろ、監督に退部の意思を伝えた。限界だった。「『勉強を頑張りたい』と言えば、みんなも納得してくれるのではないか」と考え、学業専念を理由にして野球から離れた。

ただ、完全に野球から離れることはできなかった。水戸リトルシニアでも一緒だったチームメート複数人から「やめないでくれ」と涙ながらに引き留められたのだ。「支える側で残してもらえるなら」と学生コーチに転身。土日や長期休暇期間は野球部で打撃投手やノッカー、コーチ業に携わり、平日は「みんなに言ったからにはみんなが練習を終える時間まで勉強しよう」と放課後の学校で机に向かった。
中学2年時に父が死去、実感した「母は強し」
学生コーチとして高校野球をやり切ったものの、選手としての未練は断ち切れていなかった。増茂は母・リカさんに対する「申し訳なさ」を感じ続けていた。
中学2年の頃、父が肺がんで亡くなった。単身赴任先の岩手で倒れ、母・妹と3人で急いで向かったが、意識が戻らないまま父は息を引き取った。その日を境に、増茂の頭には「母は強し」が刻まれている。専業主婦だったリカさんはパートで生計を立て、兄妹に何不自由ない生活を送らせてくれた。苦労を見かねて「野球を続けていいのかな」と吐露した時には、「あんたがやりたいことをやってくれればいいんだよ」と笑って背中を押してくれた。
「それなのに高校で野球をやめてしまった。学生コーチをしていても、最後まで心残りでした。何をしたら母親を喜ばせられるんだろうとずっと考えていました」。母への最大の恩返しは、野球をする姿を見せること。その答えにたどり着いた増茂は、現役合格を果たした東北大で選手として再開する決断を下した。

副将就任を機に奮起、「中学以来」の公式戦で躍動
大学野球も一筋縄ではいかなかった。3年目を終え、同期の中で唯一、仙台六大学リーグ戦への出場機会がゼロ。特に3年春、リーグ戦直前の関東遠征メンバーに選ばれなかった際は絶望の淵に立たされた。
それでも、息子の雄姿に立ち会う日を信じ、水戸市から車で約3時間半かけてリーグ戦に足を運ぶ母を見るたび、「もう二度目はないだろう」と自分自身に発破をかけた。練習を休みがちな時期も自宅に遊びに来てくれて、「練習来いよ」と声をかけてくれる同期の存在も支えになった。
大学ラストイヤーでは、主将に就任した鈴木杜朗(4年、仙台二)から「副将を任せたい」と懇願された。「こんな俺でいいのかな」と不安を口にすると、「増茂には頑張ってもらいたい。その意味も込めて副将をお願いしたい」と率直な思いを伝えてくれた。その一言で覚悟が決まった。副将就任以降は、最後までグラウンドに残って練習するなど全力で野球と向き合った。

迎えた4年春、リーグ開幕戦に「6番・指名打者」でスタメン出場。公式戦への出場は中学以来だった。仙台大学の最速152キロ左腕・渡邉一生(3年、日本航空/BBCスカイホークス)を相手に1、2打席目は三振を喫したが、第3打席は追い込まれてからファウルで食らいつき、5球目の直球をはじき返して右翼手の頭を越える二塁打を放った。「正直、本当にホッとしました」。止まっていた時間が、ようやく動き出した。
野球のある生活は、まだ終わらない
翌週の東北福祉大学戦は、左翼席へ本塁打を放った。「まさか越えるとは思わず無我夢中で走ったので、ダイヤモンドを1周している時の記憶はほとんどありません」。三塁を回り、ネクストバッターズサークルで喜びを爆発させる鈴木を見た瞬間、実感が湧いてきた。「こんな俺を後押ししてくれてありがとう」。心の中で感謝をつぶやき、ハイタッチを交わした。

仲間に手荒い祝福を受け、ふとスタンドに目をやると、大喜びする母の姿があった。「野球を続けて、遅くなったけど活躍を見せられてよかった」と心から思った。レギュラーに定着した増茂は春にチーム2位の打率をマークし、秋も要所で躍動。目に見える結果を出せない試合でも、持ち前の「泥だらけになって、元気よく大きい声を出す」スタイルは貫いた。母は全試合を見届けてくれた。
野球のある生活は、まだ終わらない。小学生の頃から抱く将来の夢は、高校野球の監督だ。草野球でまたユニホームに袖を通す日も訪れるかもしれない。増茂は「草野球でも母親は見に来るんだろうな」と笑いつつ、「長生きしてもらって、監督の姿も見せられたら最高ですね」と目を輝かせる。
「間違いなく僕一人では続けられない野球人生だった。これからは、僕みたいな人間を支えられる人間になりたいです」。一度は嫌いになった野球を再び好きになり、野球で母を喜ばせた。そして、周りの人に支えられながら苦難を乗り越えた経験は、必ずや明るい未来につながる。増茂の人生に欠かせない「4years.」だった。
